第34話「ディートハルト」
王都から遠く離れた地方駐屯騎士団の調査は、エリシアの冷徹な計算通りに急ピッチで進んでいた。
粗野で乱暴な騎士たちが多くを占め、汗と泥と酒の匂いが常に澱んでいるこの砦の中で、一人だけ明らかに異質な空気を纏う青年がいた。
若い下級騎士、ディートハルトである。
彼は他の騎士たちが面倒がって適当に済ませる備品の点検を几帳面に行い、支給された剣や鎧を常に丁寧に磨き上げ、日報には崩れのない正確な文字で記録を残していた。
周囲からは堅物だと疎まれ、時には嘲笑の的になりながらも、彼は与えられた任務をただ黙々とこなしている。
過去の補給簿に几帳面に書き込まれた筆跡や当直記録の配置から、エリシアはあの匿名投書の書き手として、かねてより彼に強く目星をつけていた。
数日後、重く冷たい秋の雨が降りしきる午後。
空は鉛色に淀み、砦の裏手にある訓練場は足首まで沈むほどのぬかるみと化していた。
エリシアは傘もささず、フードを目深に被っただけの簡素な外套姿で、その泥濘の隅に立っていた。
そこには、雨に打たれながら一人で黙々と剣の素振りを繰り返すディートハルトの姿があった。
泥がはねて顔や服を汚しても、彼は機械のように規則正しい動きを止めることはない。
「……見事な剣筋ですね。ですが、こんな雨の日に一人で鍛錬を続けるのは、周囲の目を避けるためですか」
エリシアの感情を完全に排した氷のような声が、雨音を切り裂いて響いた。
ディートハルトは弾かれたように動きを止め、振り返った。
その顔には、突然現れた王宮の監査官に対する驚きよりも、ついに来るべきものが来たというような、諦めにも似た色があふれていた。
「王立苦情処理局の実務官殿が、俺のような下っ端に何の用でしょう」
「用件は一つだけです。あの匿名投書について、あなたにいくつか確認しておきたい事実があります」
ディートハルトは何も言わず、雨の滴る剣をゆっくりと下ろした。
逃げることも否定することもしないその反応を見て、エリシアは自分の推理が完全に正しかったことを確信した。
「あなたの提供してくれた符丁と情報のおかげで、この騎士団と教会、そして商会が結託した横流しの構造は完全に立証されつつあります。王国の規定に則り、自らの危険を顧みず不正を告発したあなたの勇気ある行動を、実務官として高く評価します」
エリシアは純白の絹の手袋で外套についた雨粒を払うこともせず、定規で測ったかのように真っ直ぐに立って告げた。
だが、その労いの言葉を聞いたディートハルトの表情は、全く晴れやかなものにはならなかった。
むしろ彼の顔を覆っていたのは、正しいことを成し遂げたという誇りではなく、骨の髄まで凍りつくような深い怯えだった。
「勇気……ですか。そんな立派なものじゃありません」
ディートハルトは自嘲するように笑い、雨に濡れた顔を伏せた。
「俺はただ、耐えられなかっただけです。村の人々に配られるはずの毛布が私腹を肥やすために闇市へ流され、支給された食料が倉庫の奥でカビていくのを黙って見過ごすのが。誰かが、言わなければならないと思った。ただそれだけです」
彼が力なく握りしめた剣の柄から、雨水がポタポタと落ちる。
「でも、俺がやったことは、結局仲間を売ったということです。監査が終われば、あんたは王都へ帰るでしょう。でも俺は、これからもこの泥臭い田舎で生きていかなければならない。……副団長たちが捕まった後、残された連中が俺をどう見るか。あんたにはわかりますか?」
告発の正しさを信じながらも、その後に必ず待ち受けているであろう陰湿な報復や絶対的な孤立、そして裏切り者としての烙印。
ディートハルトの瞳の奥で揺れているのは、「その後」の現実を嫌というほど知っている現場の人間ならではの恐怖だった。
彼は正しいことをした自分が救われるとは微塵も思っていないのだ。
だがその切実な怯えを前にしても、エリシアの心に深い共感や揺らぎが生まれることはなかった。
王立苦情処理局の実務官には、告発者を直接保護する特別な権限や、強制的な異動命令を下す権力は与えられていない。
彼女はディートハルトを現場の報復から具体的にどう守るかという実際的な手順を何一つ持っていなかった。
しかし巨悪の排除こそが根本的な解決だと信じる彼女にとって、それは些末な問題にすぎなかった。
「彼らがあなたをどう見るかは、問題ではありません。重要なのは、あなたが規定に則って正しい事実を報告したということです」
エリシアは氷のように冷たく澄んだ瞳で、怯える若い騎士を真っ直ぐに見返した。
「安心してください。私は今、単なる末端の横流しではなく、その背後でこの巨大な腐敗の構造を作り上げている王宮の黒幕を追い詰めています。私がすべての証拠を揃え、その黒幕を一気に叩き潰せば、末端の不正も根こそぎ一掃されます。悪が排除され、組織が正しい形に整列すれば、あなたのような正当な告発者が不当な扱いを受けるような理不尽な事態は決して起こりません」
エリシアの言葉は、机上の論理としては完璧だった。
巨悪を倒せばすべてが綺麗に解決する——彼女はそう信じ切っていた。ディートハルトが抱える報復への恐怖など、完璧な証拠の前では簡単に拭い去れるものだと盲信しているのだ。
「俺は……」
ディートハルトは何かを言いかけたが、エリシアのあまりにも冷徹で迷いのない瞳を前にして、それ以上言葉を続けることを諦めたように口をつぐんだ。
完璧な正論を盾にするこの銀髪の監査官には、血の通った人間の恐怖など決して理解できないと悟ったのだろう。
彼はただ静かに一礼すると、泥を跳ね上げながら、雨の降る訓練場の奥へと背を向けて歩き去っていった。
その力ない背中を眺めながら、エリシアは無意識に純白の絹の手袋の指先を整え直した。
(彼の怯えも、すべては一時的なものです。完璧な証拠で巨悪さえ倒せば、正しさは必ず証明されるのですから)
エリシアは心の中でそう断じ、それ以上彼の感情に踏み込むことをあっさりと切り捨てた。
これまで彼女自身が味わってきた「好かれない正しさ」の副作用すらも完全に忘却し、ただ数字と論理の向こうにある勝利だけを見つめている。
雨音だけが響き渡る泥濘の訓練場に、エリシアの孤立した足音だけが微かに残されたが、彼女がその冷たい孤独の意味を真に理解するのは、もう少し先のことになるのだった。




