第33話「礼拝堂修繕の裏」
地方都市の片隅にひっそりと佇む近隣礼拝堂は王都の大聖堂のような華やかさはないものの、長い年月をかけて人々の祈りが染み付いた厳かな空気をまとっていた。
色褪せたステンドグラスから差し込む秋の冷たい光が、石造りの床に幾何学的な影を落としている。
エリシアはその静謐な礼拝堂の奥にある薄暗い司祭室で、王宮から持ち出した規定の手帳と教会が提出した修繕費の帳簿を照らし合わせていた。
今回の訪問は、当初は駐屯騎士団の監査とは全く無関係の単なる「修繕費の不正受給に関する苦情」の調査にすぎなかった。
近隣の村人から「王都から多額の修繕費が下りているはずなのに、いっこうに礼拝堂の屋根が直らない」という匿名の陳情が苦情処理局に寄せられていたのだ。
本来であれば地方の末端の教会と駐屯騎士団の間に直接的な繋がりなどあるはずもない。
しかし純白の絹の手袋をはめた指先で修繕資材の納品伝票をめくっていたエリシアの冷徹な目は、そこに隠された奇妙な符合を瞬時に見抜いていた。
「……先月の二十五日、大理石と屋根用の木材が大量に納品され、代金が支払われたことになっていますね」
エリシアは、向かいの席で穏やかな微笑みを浮かべている恰幅の良い司祭に向かって、感情の読めない声で問いかけた。
「はい。冬の吹雪に備えて、老朽化した礼拝堂を補強するための大切な資材でございます。主の御心に報いるためにも、祈りの場は美しく保たねばなりませんからな」
司祭は胸で十字を切りながら淀みなく答えた。
しかしエリシアの頭の中では、その「二十五日」という日付と納品された資材の重量が、先日駐屯騎士団の記録室で確認したあるデータと完全に重なり合っていた。
あの日の騎士団の補給簿には「吹雪による遭難者の救護活動のため毛布と食料を消費した」と記され、その物資は特定のダミー商会へと向かっていた。
そしてこの教会の伝票によれば、全く同じ日、同じダミー商会から礼拝堂へ向けて大量の修繕資材が運び込まれたことになっている。
しかし実際には、騎士団の馬車は物資を横流ししただけであり教会の屋根は今も穴が空いたままだ。
つまりダミー商会の荷馬車は資材など積んでおらず、ただ書類の上だけで「騎士団から受け取った横流し品」を「教会の修繕資材」という名目にロンダリングし、その差額を利益として吸い上げているのである。
「主の御心、ですか。素晴らしい信仰心ですね」
エリシアは一切の抑揚のない声で言いながら、証拠となる二枚の伝票を定規で測ったかのようにピタリと並べて机の上に置いた。
「しかし奇妙なことに、この日、資材を運んできたはずの商会の荷馬車の通行記録と近隣の騎士団から出立した馬車の動きが、不自然なほど一致しています。さらにこの修繕事業を承認した王都の地方監査室次長の許認可の印。これは先日の騎士団の特別消費を承認した人物と全く同じです。修繕資材はどこにも存在せず、王宮から下りた資金だけが特定の商会を経由して王都へと還流している。そう判断せざるを得ない数字の軌跡が、ここに残されています」
淡々と、しかし逃げ場のない論理で矛盾を突きつけられた瞬間、司祭の顔から温和な微笑みがすっと消え失せた。
彼は額に脂汗を滲ませながら、身を乗り出して必死に弁明を始める。
「お、お待ちください、監査官殿!これには深い事情があるのです。この地方は貧しく、教会の運営も常に火の車なのです。村人たちに施しを与えるためにも、我々はどうしても資金を確保しなければならない。騎士団の者たちも同じです。彼らは過酷な環境で治安維持に命を懸けており、王都からの少ない給金だけではやっていけない。我々が多少の便宜を図ってもらったとしても、それはすべてこの地方の平穏と貧しき人々を救うための正当な大義なのです!」
誰もがもっともらしい事情を抱え、正当な大義を盾に不正を正当化しようとする。
エリシアはその言葉を聞きながら、一瞬だけ考えた。
この司祭が嘘をついているとは断言できない。地方が貧しいのも、騎士の給金が少ないのも、事実かもしれない。
だが「貧しいから仕方がない」という論理が通るなら、制度そのものが意味をなさない。
どこかで線を引かなければならない——その線を引くのが、自分の仕事だ。
「大義や事情がどうであれ、規定に反して王国の資金を横領し特定の権力者へ利益を誘導しているという事実に変わりはありません」
エリシアは純白の絹の手袋の指先を一つずつ丁寧に整え直し、静かに立ち上がった。
「あなたがたがどれほど美しい言葉で飾ろうとも、数字は決して嘘をつきません。私は王国の規定に基づき、この不正な資金の流れをすべて王都へ報告させていただきます」
司祭が絶望に顔を歪めて崩れ落ちるのを冷ややかに見下ろしながら、エリシアの胸の奥では、これまでになく熱い高揚感が燃え上がっていた。
騎士団、教会、そして物流。それぞれの場所でもっともらしい大義名分に隠されていた不正が、今、完全に一つに繋がり、その頂点にいるアルヴェイン伯という「分かりやすい黒幕」の姿がくっきりと浮かび上がったのだ。
この敵さえ捕まえれば、自分がこれまで抱えてきた「正しさの副作用」による痛みも、すべて綺麗に終わらせることができるはずだ——エリシアはそう信じ切っていた。
その完璧な論理の裏側に、人の心が引き起こす取り返しのつかない悲劇が静かに口を開けて待っていることなど、彼女は微塵も疑っていなかったのである。




