第32話「帳簿の齟齬」
王都から遠く離れた地方駐屯騎士団の奥深く、窓の少ない重苦しい記録室には、王宮の磨き上げられた大理石の回廊とは全く異なる生々しい空気が満ちていた。
長年の風雨に晒された石造りの壁からは冷たい隙間風が吹き込み、部屋中には荒くれ者たちが発する汗と土の匂いが重く澱んでいる。
エリシアは用意された粗末な木のデスクに背筋を真っ直ぐに伸ばして座り、周囲の荒々しい空気など一切存在しないかのように、ただ静かに目の前の書類の山と向き合っていた。
彼女をぐるりと取り囲むように立っている数人の騎士たちは、王都から監査にやってきたこの銀髪の小娘に対して、あからさまな敵意と苛立ちを隠そうともしなかった。
「おい、いつまでそんな紙切れを眺めているつもりだ。俺たちは王都の温室でぬくぬくと育った貴族の坊ちゃんたちとは違う。毎日命がけで魔物や盗賊と戦っているんだぞ」
一人の大柄な騎士が、威嚇するように腰の剣の柄をガチリと鳴らし、エリシアの座るデスクの脚を乱暴に蹴り上げた。
しかしエリシアは微かに揺れたインク瓶を純白の絹の手袋でそっと押さえると、一切の感情を排した氷のような視線を彼に向けた。
「王国法第十二条。王立苦情処理局の正当な監査に対する物理的な威圧および進行の妨害は、反逆罪に準ずる重罪として処罰の対象となります。その剣を抜く覚悟があるのなら、どうぞお続けください。直ちに査問委員会へ報告書を送ります」
定規で測ったかのように冷徹で隙のない正論を突きつけられ、騎士は顔を赤くして舌打ちをし、それ以上手出しをすることができなくなった。
エリシアは帳簿を次々とめくりながら、数字の不自然さを精緻に追っていた。
倉庫から越冬用の毛布や保存食が少しずつ、しかし確実に消えているのは間違いない。
しかしその消えた物資の大半が、単なる「紛失」や「横領」としては処理されていなかった。
たとえば先月の補給簿には「吹雪による遭難者の救護活動のため、毛布五十枚と携帯食料を消費した」と記されている。
しかし同日の徴発記録と照らし合わせると、その日に周辺の村から救護要請が出された形跡は一切なく、輸送伝票には救護に向かったはずの部隊の馬車が全く別の方角にある商会の倉庫へと向かった記録が残されていた。
物資は確かに消えているのに、帳簿の上ではすべてが「正当な理由で正しく使われたこと」として完璧に偽装されているのだ。
「……見事な手際です。一見すると、どこにも矛盾のない完璧な消費記録。現場の荒くれ者たちに、これほど緻密な二重帳簿を作り上げる頭脳があるとは思えません」
エリシアは純白の手袋の指先で乾いた音を立てながら次々とページをめくっていく。
ふと、一人の若い騎士が部屋の隅に退いているのが目に入った。
他の騎士たちより明らかに年が若く、怯えた顔でエリシアと副団長を交互に見ている。
エリシアはその青年の視線が帳簿の特定のページに向いた瞬間、素早く察知した。
「少し聞いてもいいですか」
副団長が怒鳴りかけるより先に、エリシアは静かにその青年に話しかけた。
青年は副団長の目を恐る恐る確認してから、小声でぼそりと呟いた。
「……この帳簿を正確に書くと、上官に叩かれるんです」
その一言だけで、エリシアは構造の全体像をつかんだ。
帳簿の歪みは個人の悪意ではない。正確な記録を書けば暴力が待っているという圧力の中で、みんなが「正しい嘘」を書き続けてきた——その結果がこの緻密な二重帳簿だ。
やがて彼女の指が、ある一枚の書類の上でピタリと止まる。
それは大規模な物資の「廃棄」と「特別消費」を正当化するために、王都の関連部署から発行された許可証の写しだった。
書類の末尾には、この異常な消費量をあっさりと承認した責任者のサインと小さな許認可の印が押されている。
その印の持ち主の名前を確認した瞬間、エリシアの背筋に冷たい電流のようなものが走った。
「王室林野局、並びに地方監査室次長……。すべて、あの男の息がかかった部署の事務官たちです」
地方の騎士団が治安維持という大義名分で物資を消費したことにして横流しし、それを王都にいるアルヴェイン伯の事務方が書類上で「適正な処理」として承認し、利益を吸い上げる。
暴力と権力と書類が完全に結託した、巨大で腐敗した構造。
点と点でしかなかった疑惑が、今、決定的な一本の線となってエリシアの頭の中で繋がった。
エリシアは誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、純白の絹の手袋でその許可証を強く握りしめた。
「これで言い逃れはできません。すべての帳簿の齟齬を立証し、必ず彼を引きずり出してみせます」
彼女は冷ややかな目を騎士たちに向けたまま、さらに深く帳簿の山へと身を乗り出していった。
しかし隅に退いていた青年のあの一言が、どこかに引っかかっていた。
正確な記録を書くと叩かれる——そういう場所では、何が「正しい」のだろうか。
その問いは、しかしすぐに次の書類の数字によって押し流されていった。




