第31話「匿名投書」
王都から遠く離れた地方の街道を、一台の簡素な馬車が土煙を上げながら進んでいた。
車内はすっかり冷え込み、秋の冷たい風が容赦なく隙間から吹き込んでくる。
エリシアはガタゴトと揺れる車内で、ランプの薄暗い灯りを頼りにユリウスから渡された匿名投書を何度も読み返していた。
宛名のない粗末な封筒に入れられたその便箋には、地方駐屯騎士団の内部における横暴な振る舞いと越冬用物資の深刻な不正流用についてが詳細に記されている。
文章自体は乱雑で教養を感じさせないが、そこに書かれている倉庫の裏口の開け方や横流しの経路、特定の幹部しか知り得ない隠語の使い方は、明らかに内部の事情に精通した者のそれだった。
動機はどうであれ、これが確かな内部告発であることは間違いない。
エリシアは黒いインクの染みがついた純白の絹の手袋の指先で、便箋に書かれた横流し先の商会の名前を静かになぞった。
その名前は、前夜に苦情処理局の執務室で組み上げたばかりのアルヴェイン伯の利権相関図に記されていたダミー商会の一つと完全に一致している。
これまでの持参金問題や噂紙、慈善行事の混乱といった事件には、どこか貴族たちの見栄や大衆の曖昧な悪意が複雑に絡み合っており、正しさを突きつけても「救われた気がしない」という理不尽な反発を生むばかりだった。
しかし、この駐屯騎士団の不正流用は全く違う。
国から支給された物資を私腹を肥やすために横流しするという行為は、誰の目から見ても言い逃れのできない明らかな悪だ。
この明確な元凶を引きずり出し、腐敗の構造を根底から破壊すれば、王国の秩序は再び正しい形を取り戻すはずだ。
その分かりやすい勝利の予感は、疲弊しきっていた彼女の心に毒にも似た甘い高揚感と新たな戦いへの活力を与えていた。
やがて馬車は、高い石壁に囲まれた駐屯騎士団の砦へと到着した。
王都の華やかな大理石の床とは無縁の、泥と汗と馬の糞の匂いが入り混じった荒々しい空間である。
エリシアが馬車を降りて身分証を提示すると、門番の騎士たちは王宮からやって来た銀髪の娘をあからさまに侮蔑するような視線でねめつけ、わざとらしく大きなため息をついた。
「王都の苦情処理局だか何だか知らねえが、ここは俺たち騎士団の管轄だ。帳簿の数字ばかり見てるお堅い役人が、わざわざこんな泥臭い田舎まで何の用だ?」
案内された薄暗い執務室には、恰幅の良い騎士団の副団長がふんぞり返るようにして座っていた。
彼の周囲には数人の騎士たちが立ち並び、剣の柄に手をかけながら威圧的な空気を放ってエリシアを追い出そうとしている。
しかしエリシアはそんな野蛮な威圧感に対して一切ひるむことなく、定規で測ったかのように真っ直ぐな姿勢のまま副団長の正面へと歩み寄った。
「王立苦情処理局の実務官として、当駐屯騎士団における越冬用物資の管理状況について査察に参りました。直ちに過去三年分の物資受払帳と外部業者との取引記録をすべて提出してください」
エリシアの感情を完全に排した氷の刃のような声が、汗臭い執務室の空気を一瞬にして凍りつかせた。
副団長は顔を赤くして激昂し、「いきなり来て俺たちを泥棒扱いする気か!」と怒鳴り散らしたが、エリシアは冷徹な視線を一切そらすことなく、王国の規定が記された手帳を音を立てて机に叩きつけた。
「当局には王国法に基づき地方駐屯騎士団の物資管理をいつでも随時査察できる権限が付与されています。これはその規定に則った正当な監査です。提出を拒否する場合、王国法第十七条の規定により、あなた方を王都の査問委員会へ即刻告発することになりますが、よろしいですね?」
その一切の隙もない完璧な建前と正論を前にして、騎士たちは舌打ちをしながらも埃を被った分厚い帳簿の山をエリシアの前に積み上げるしかなかった。
エリシアは用意された粗末な木の椅子に腰を下ろすと、分厚い記録鞄からペンを取り出し、純白の絹の手袋をはめた手で真っ黒な手垢にまみれた帳簿をめくり始めた。
最初、帳簿上の数字は一見すると完璧に整っているように見えた。
物資の仕入れから消費、老朽化による廃棄処理に至るまで、規定通りの計算式が並んでおり、表向きの矛盾はどこにも見当たらない。
副団長も「どうだ、不正など何もないだろう」と勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
だがエリシアの冷徹な目は、表面上の取り繕いなどに騙されはしなかった。
彼女の頭の中では、無数の数字と日付が、あの匿名投書に記されていた特定の符丁というデータと瞬時に照らし合わせられていく。
やがて彼女の手がピタリと止まり、視線がある一つの項目に釘付けになった。
「……第三倉庫における廃棄処理の項目ですが、天候不順による酷いカビ被害という理由で先月末に大量の毛布が処分されていますね」
「しかし、この処分の日付と、特定の商会への輸送日が全く同じです。さらに門の通行記録に残された荷馬車の積載量の推移を照らし合わせれば、廃棄されたはずの大量の毛布がそのまま商会の馬車に積み込まれ横流しされている経路が浮かび上がります」
そのとき彼女は一瞬、帳簿の文字から目を離した。
この「天候不順による廃棄」という嘘の記録を書いた人間は、どんな顔をして書いたのだろうか。
良心の呵責があったのか、それとも何も感じなかったのか——そんな問いが、これまでなら浮かびもしなかったのに、今は頭をかすめた。
しかしエリシアはその問いをすぐに脇に押しやった。今は数字だ。
「見事な帳簿ですが、嘘のつき方が少々大雑把すぎますね」
彼女はさらに深く帳簿の山へと身を乗り出していった。
明確な敵を追い詰める高揚感が、彼女の冷静なはずの理性を少しずつ熱く染め上げていく。
しかしその足元の脆さに、今のエリシアはまだ全く気づいていない。




