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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第30話「王宮へ伸びる糸」

王立苦情処理局の執務室は夜が更けるにつれて石造りの壁から染み出すような冷気に包まれ、長年染み付いたカビの臭気と古い紙の埃っぽい匂いが色濃く漂い始める。

エリシアは古びたデスクの上に置かれたランプの芯を少しだけ上げ、薄暗い手元にオレンジ色の光を落とした。

周囲の局員たちはとうに帰宅し、静まり返った部屋にはただ時計の秒針が時を刻む音と彼女がページを丁寧にめくる乾いた音だけが響いている。

机の上には、ここ数週間で彼女が処理してきた三つの厄介な案件の分厚い調書が、定規で測ったかのように整然と並べられていた。


伯爵家の持参金問題、王都を騒がせた匿名の噂紙、そしてミレーユの不用意な約束によって破綻しかけた慈善行事の予算手配。

当事者も発生した場所も全く異なり、一見するとこれらは独立した別々の問題のように思える。

だがエリシアの冷徹な頭脳は、それぞれの事件の奥底に横たわる奇妙な共通の「匂い」を敏感に感じ取っていた。

彼女は黒いインクの染みがいくつもついた純白の絹の手袋で、各案件の証拠書類の中から資金の流れや業者への発注記録だけを抜き出していく。

持参金を補填するために伯爵家が利用した高利貸しの背後にあるダミー商会。

噂紙を大量に刷り上げていた粗悪な印刷所に資金を提供していた架空のパトロン。

そして慈善行事の混乱を収拾する際に調べた王室林野局の予備費の帳簿に記されていた、不自然なほど手回しの良い物流業者の名前。

これらはどれも巧妙に偽装されており、単一の事件を追うだけでは決して気づくことのできない深い階層に隠されている。


エリシアは頭の中で巨大な王都の地図と、王宮を中心とした貴族たちの利権相関図を瞬時に展開させた。

無関係に見える点と点を結び、複雑な経由地を論理的に逆算し、不要な枝葉を容赦なく切り落としていく。

すると三つの案件を貫く共通項が一つだけくっきりと浮かび上がった。

ダミー商会の登記簿、印刷所のパトロンの口座開設書類、そして林野局の物流業者の認可証。そのすべての片隅に、特権を示すある小さな「許認可の印」が押されていたのだ。

その糸の行き着く先は、王宮の奥深くに陣取る王弟派の中枢。

実務貴族として名高いアルヴェイン伯の事務方であった。


アルヴェイン伯は王宮の華やかな夜会などの表舞台には決して姿を現さず、実務を通じて裏で情報と利得の流れを整理していると言われる得体の知れない男だ。

商会への許認可や教会の寄付金、さらには王宮の人事までを巧みに渡り歩き、密かに利得を分配しているという。

持参金問題で貴族の弱みを握り、噂紙で意図的に対立を煽り、慈善行事に乗じて特定の業者に利益を誘導する。

決定的な証拠こそまだ掴んでいないが、状況証拠の積み重ねは彼が裏で情報と資金の流れを完全に把握し、自分たちに都合よく盤面を操作していることをはっきりと指し示していた。


エリシアは証拠の書類を重ね合わせ、その上にそっと両手を置いた。

微かに震える指先を抑え込むように、純白の手袋の布をいつもより強く引き絞る。

ギリッと布が微かに軋む音が、静まり返った執務室の中に小さく響いた。

彼女の胸の奥底から、これまで感じたことのないほど熱く黒い感情がドロドロと湧き上がってくる。

それは純粋で明確な「敵意」であった。


これまでの彼女は、空気に流されて真実から目を背ける大衆の愚かさや、人々の心に潜む他人の不幸を消費する暗い快楽という、実体のないものに苦しめられてきた。

論理や正しさをどれほど突きつけても、その見えない悪意の渦を止めることはできず、ただ自分の孤立が深まっていくだけだった。

だが今は違う。

この王都を覆う気味の悪い空気や理不尽な感情の波は、決して自然発生したものではない。

アルヴェイン伯という一人の冷酷な権力者が、民の怒りや貴族の面子といった不確かな感情さえも緻密な計算の下に商売の道具として利用し、意図的にこの混乱を作り出しているのだ。

彼が王宮の権威を利用してこの腐敗した構造を維持しているのなら、その根源を論理の刃で断ち切ればすべてが終わる。


「彼がすべての糸を引いているのなら、その糸を辿って彼自身を引きずり出すまでです。私がこの手で彼の作り上げた偽りの盤面を完全に破壊します」


エリシアは誰に聞かせるでもなく、静かで冷たい炎を宿した声で呟いた。

実体のない空気を斬りつける虚しさに比べれば、倒すべき明確な悪が存在するという事実は彼女にどれほどの安堵と力を与えたことだろうか。

彼を失脚させれば、自分が正しいことをしたせいで人が傷つくというあの恐ろしい副作用の連鎖も、きっと終わらせることができるはずだ。

その分かりやすい因果関係の発見が、疲弊していたエリシアの心に新たな戦いへの強烈な意志を呼び覚ましていた。

ようやく見つけた「敵」の首元へと冷たい事実の刃を突き立てることだけを、彼女は信じて疑わなかったのである。


その時、執務室の重い木製の扉が軋む音を立ててゆっくりと開いた。

入ってきたのは次席監察官のユリウスである。

彼は手にした数枚の書類を無造作に振りながら、相変わらずの無愛想な表情でエリシアのデスクへと歩み寄ってきた。

「こんな時間まで残って、また一人で厄介なパズルでも解いていたのか。お前のその異常なまでの執着心は時々本当に恐ろしくなるな。で、お前のその定規は何か面白いものを測り出したのか」

ユリウスの低い声に対して、エリシアは一切の迷いを見せることなく先ほど組み上げたばかりの相関図を彼の方へと滑らせた。


「ええ。点と点が繋がり、王宮の中枢へと伸びる太い糸が見えました。ダミー商会や物流業者の許認可印を照合した結果、一連の情報操作と資金の動きの背後に、アルヴェイン伯の事務方が深く関与していることが強く裏付けられます」

エリシアの氷のように冷たく澄んだ声には、これまでの迷いが嘘のように消え去り、研ぎ澄まされた刃のような鋭さが宿っていた。

ユリウスはその紙片に視線を落とし、書類に記されたダミー商会の名前と最終的な認可印を確認する。

彼の眉間に微かに深い皺が寄った。


「アルヴェイン伯か。王弟派の中で実務に長け、誰よりも計算高い化け物だ。お前がこれまで相手にしてきた見栄っ張りの貴族どもとは格が違うぞ。奴を敵に回すということは王宮という巨大な組織そのものを敵に回すことと同義だ。決定的な証拠もないまま下手に動けば、今度こそお前は完全に潰されることになる」

「相手が誰であろうと私のやるべきことは変わりません。事実を集め論理で不正を暴くだけです。彼がこの国を裏で操っている黒幕であるならば、私がその罪を白日の下に晒します」


エリシアはユリウスの警告を冷徹に受け止めながらも、定規で測ったかのように真っ直ぐに背筋を伸ばして反論した。

その瞳の奥には絶対に退くことのない強い決意が燃えている。

ユリウスは小さく息を吐き出し、乱雑に頭を掻きむしった。

「まあ、お前が一度噛み付いた獲物を離さないことは嫌というほど知っている。だがこれはただの序盤戦にすぎない。アルヴェイン伯の尻尾を掴むにはさらに奥深くへと踏み込む必要がある。お前にその覚悟があるならこれを読め」

そう言ってユリウスがデスクの上に叩きつけるように置いたのは、差出人不明の封筒だった。

エリシアが怪訝な顔でその封筒を手に取ると、中には一枚の粗末な便箋が折りたたまれて入っていた。


「地方の駐屯騎士団からの匿名投書だ。横暴な振る舞いと物資の不正流用について書かれている。一見するとただのよくある内部告発だが、その物資の横流し先がどうも怪しい」

エリシアは素早く便箋を広げ、そこに書かれた内容を冷徹な視線で読み込んでいく。

差出人は名を伏せているが内部の者にしか分からない符丁や独特の言い回しが使われており、信憑性は極めて高い。

そして何より彼女の目を引いたのは、流用されたとする物資の行き先が先ほど自分がアルヴェイン伯の相関図に書き込んだダミー商会の一つと完全に一致しているという事実だった。


「……これは明らかな悪の匂いがします。騎士団、教会、地方の物流。この歪みの交点を正確に押さえればアルヴェイン伯へと通じる線はより太く決定的なものになるはずです」

エリシアの唇の端が微かに上がり、冷たい笑みが浮かんだ。

ついに見つけた反撃の糸口。

自分が信じる正義の刃を、迷うことなく振り下ろせる確かな標的。


「今度は徹底的にやります。彼が張り巡らせた蜘蛛の巣を一つ残らず引き裂いてみせます」

エリシアは純白の絹の手袋の指先を一つずつ丁寧に整え直し、静かに立ち上がった。

彼女の足取りにはもはや何の迷いもなかった。

局内での孤立や正しさの副作用による心の軋みは何も解決していないが、目の前の分かりやすい「敵」さえ倒せば、すべてが綺麗に整列すると彼女は信じ切っている。

その甘い希望が、彼女をより深く危うい暗闇へ誘い込んでいることに、今のエリシアは気づいていなかった。

窓の外で冷たい秋の夜風が吹き荒れる中、エリシアは新たな戦場となる地方駐屯騎士団の調査へと向かうべく、分厚い記録鞄を手にして真っ直ぐに歩き出した。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

個別の苦情処理だったはずの物語が、少しずつ王宮の奥へつながり始めました。

この先も追いたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。


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