第29話「正しさと空気」
王立苦情処理局の冷え切った執務室には、今日も長年染み付いたカビの臭気と古い紙の匂いが重く澱むように漂っている。
王宮の慈善行事における物資手配の致命的な破綻を収拾してから、数日の時間が経過していた。
実現不可能な毛布の配給を即座に中止させ、代替案として古着の打ち直しを急遽手配したことで貧民街の越冬支援は最悪の崩壊を免れた。
数字の上では一切の矛盾も破綻もなく、凍死者を未然に防ぐという本来の目的は極めて現実的な形で確実に達成されたのである。
しかし彼女の周囲には、その見事な実務の完遂に対する労いや称賛の声は一切存在しなかった。
あるのは、彼女を遠巻きに見つめる局員たちの、まるで得体の知れない冷徹な怪物でも見るかのような重く冷ややかな視線だけだった。
最近の苦情処理局内において、エリシアに対する評価は明確に二つに大きく割れていた。
彼女の圧倒的な事務処理能力と、どんな複雑な権利関係にも臆することなくメスを入れる有能さは、今や誰もが認めざるを得ない事実となっている。
しかしその有能さへの強い畏怖と同時に、局内に静かに、しかし確実に広がり始めているのは、彼女に対する明確な忌避感であった。
給湯室の陰や薄暗い廊下の片隅で、局員たちが交わすヒソヒソとした囁き声が書類を運ぶエリシアの耳にも度々届くようになっていた。
「あの人の処理は確かに完璧だし、言っていることはいつでも正しい。でも、血が通っていないんだ。どれだけ正論で問題を解決してくれても、関わった人間はちっとも救われた気がしないんだよ。先日の慈善行事でも、善意で動いていた次期王太子妃殿下を大勢の前で正論で追い詰めて泣かせたらしいじゃないか。あの人は正しいだけで、周りの人間を凍りつかせる冷酷な機械だよ」
エリシアは自分のデスクで新たな陳情書にペンを走らせながら、そのヒソヒソとした囁きに対して強い苛立ちを覚えていた。
自分がいつ間違ったことをしたというのだろうか。
無責任な善意による配給計画を放置していれば王宮の権威は失墜し、期待を裏切られた貧民街で暴動が起きていたかもしれない。
持参金問題にしても、体面のために不正を隠蔽していれば、やがて家門そのものがさらに深い腐敗へと沈んでいったはずだ。
自分は常に王国の規定に基づき感情に流されず必要な事実を整理して、最も現実的で被害の少ない落としどころを提示している。
そして彼らは、真実を突きつけられた痛みをエリシア個人への嫌悪にすり替えている。
善意の夢から覚めさせられた痛みを、彼女を冷酷な悪役へと仕立てることで誤魔化そうとしているのだ。
苛立ちが胸の中で膨らんでいく。
それはかつて王宮の卒業舞踏会で、ただ泣き崩れるミレーユへの同情という空気だけで彼女を理不尽に断罪したあの夜と全く同じ構図だった。
遠巻きに向けられる冷ややかな視線と、背後で交わされる無責任な囁き。
人間は不都合な真実を前にすると事実の追求よりも集団の同調圧力を優先し、感情の渦で正しさを押し潰そうとする。
その理不尽な感情の集合体こそが、彼女が心の底から憎み決別を誓ったはずの「空気」という名の暴力に他ならなかった。
苛立ちはさらに膨らんだ。ペンを持つ指先が、かすかに強張った。
何度も何度も同じことを繰り返す——事実を示しても、論理を積み上げても、人間は感情の渦に戻っていく。
そしてその渦が自分を飲み込もうとするたびに、自分は一人で押し返さなければならない。
その重さが、胸の中で一つの言葉になろうとしていた——もう、たくさんだ、と。
エリシアはペンを止めた。
数秒間、彼女はただ静かに息をした。
その言葉は声にはならなかった。ならなかった——しかしもう少しで、そうなっていた。
深呼吸をひとつ。そして手袋の指先を整えるように布を引く。ギリッと微かに軋む音。
これが「空気」だ。自分がずっと憎んできた、あの空気。
その空気が今、自分の内側にも生まれていた。正しくありたいという意地ではなく、疲労から来る苛立ちとして。
それに気づいた瞬間、エリシアは静かに驚いた。
次席監察官のユリウスは埃っぽい書類の山から静かに顔を上げ、孤立を深めていくエリシアの真っ直ぐな背中を観察していた。
局内を重く覆う彼女への反発の空気に、彼が気づいていないはずはない。
しかし彼は相変わらずの無愛想な表情を崩すことなく、エリシアに対してあえて何も言おうとはしなかった。
論理だけで押し切れば、いずれ自分の居場所まで削ることになる。
人間が論理だけで動く生き物ではない以上、感情を完全に無視した冷徹な正しさは必ず周囲との間に致命的な軋轢を生み出すのだ。
そしてその正しさの副作用がどれほど恐ろしいものであるかということに、彼女自身が自分自身の痛みとして気づかなければ、どんな言葉を与えても全く意味を持たないと彼は知っていた。
エリシアは視線を落とし、自分の膝の上で固く組まれた純白の絹の手袋をじっと見つめ続けた。
自分は間違ったことは何一つしておらず、ただ事実と論理を繋ぎ合わせて正しい仕事をしているだけである。
しかしその冷徹な正しさを貫けば貫くほど、世界は彼女を血の通っていない冷酷な機械として扱い、激しい反発の渦の中へと押し戻してくるのだ。
正しさを積み上げるたび、周囲とのあいだには薄い氷が一枚ずつ増えていく。
今やそれは、向こう側の声が届かぬほど厚くなっていた。
先ほど、自分の内側にも一瞬だけ「空気」が生まれた。
その事実だけが、彼女の指先に小さな重みを残していた。
それでも記録を歪めるわけにはいかない。
エリシアは背筋を伸ばし、机の上の三つの調書をもう一度まっすぐに並べ直した。
冷たい計算は、そこから始めるしかなかった。




