第26話「書く悪意・読む悪意」
王都の裏路地にひっそりと佇むその安酒場は、煙草の煙と酸えた酒の匂いが充満していた。
昼間から酒をあおる労働者たちの喧騒の中で、エリシアは一番奥のテーブルへと歩みを進める。
黒いインクの染みがついた純白の絹の手袋は、この泥と油の空間ではひどく異質で浮き上がって見えた。
給仕の女が彼女を見た瞬間、あからさまに目を見張った。
「お、お嬢さん、ここは……」
「調査でございます」
エリシアが一切の迷いなく告げると、給仕の女は何も言えなくなって黙って退いた。
周囲の労働者たちも次々と彼女に気づき、ひそひそと囁き合っている。
純白の手袋。真っ直ぐすぎる背筋。泥と埃と酒臭さの漂うこの場所に、まるで別の世界から切り抜かれて貼り付けられたような存在感だ。
誰かが笑いをこらえているのが見えた。エリシアはそれに気づいていたが、特に何も感じなかった。
——いや、かすかに何かを感じた。かつての自分ならこの視線の意味を即座に処理して無視できていた。
しかし今は、少しだけ「浮いている」という感覚そのものが、不思議と胸のどこかに残った。
油の染み付いたテーブルの向かいには、擦り切れた外套を羽織った一人の小柄で神経質そうな男が座っていた。
彼こそが王都の社交界を騒がせている匿名の噂紙の出所であり、数々の捏造記事を平然と書き飛ばしてきた記者である。
エリシアは分厚い記録鞄から印刷所で押収した証拠の帳簿を取り出し、男の目の前に冷然と突きつけた。
「印刷所の不自然な資金経路と、あなた名義で管理されている資金の動きは、日付から金額に至るまで完全に一致しています」
「あなたが各家の内情を調べ上げ、真実と嘘を巧妙に織り交ぜてあの噂紙を執筆していたことは明白です。言い逃れは不可能です」
しかし目の前に座る記者の男は顔色を変えるどころか、グラスを揺らしながら薄気味悪い笑みを浮かべた。
彼はエリシアの提示した証拠を面倒そうに一瞥しただけで、悪びれる様子もなく軽く肩をすくめてみせた。
「言い逃れなどしませんよ。たしかに書いたのは私です。それが何か?」
男の口調には罪悪感など微塵も含まれておらず、まるで天気の話でもするかのような軽薄さが漂っている。
「皆、他人の秘密が好きなんですよ」
彼は喉の奥でくくっと笑った。
「高貴な身分を鼻にかける貴族たちの隠しておきたい秘密なんて、誰もが喜んで読みたがる最高の娯楽です。私はただ大衆が求めるものを敏感に察知し、一番売れる形にして提供しただけですよ」
その言葉には、他人の不幸を金に変えることへの抵抗が全くない。
それはエリシアがこれまで相手にしてきた権力欲や金銭欲とは違う、ひどくねじ曲がった種類の気味が悪い欲望だった。
「書いた人間は何が欲しかったのか」——先日自分が立てた問いへの答えが、今ここで直接与えられた。
この男が欲しかったのは、金でも権力でもなく——混乱そのものだ。人が傷つく様を眺めることそのものだ。
「あなたの書いた記事は人々の心を慰める娯楽などではなく、無実の人々を窮地に追い込む暴力です」
エリシアは感情を交えずに事実だけを抽出し、男の卑劣な詭弁を冷徹な論理で切り捨てようと試みる。
「事実を意図的に歪曲して対立を煽り立てる行為は、王国の規定に照らし合わせても決して許されるものではありません」
しかし男は彼女の冷たい視線を平然と受け止め、不快な笑い声を立てて身を乗り出してきた。
「暴力だなんて。私は誰も殴っていません。彼らが勝手に噂を信じて自滅しただけでしょう?」
「あのアルヴェイン伯のようなお方は、王都に真実が流れることをとても歓迎なさるのですよ。淀んだ水は、誰かが思い切りかき混ぜてやらなければ綺麗になりませんからね」
その名が男の口から滑り出た瞬間、エリシアの背筋にぞくりとした冷たい悪寒が確かに走った。
この記者は自分が強大な権力の手駒として使われていることを自覚した上で、その異常な状況を心から楽しんでいるのだ。
彼にとって真実の追求や正義といった崇高な理念などどうでもよく、ただ世界が泥沼のように混乱していく様を眺めることだけが目的なのである。
「あなたが流しているものは真実などではなく、人々の悪意を煽るために恣意的に切り取られた猛毒です」
「あなたの行った情報操作と資金の不当な授受は法によって裁かれます。実務官としての権限をもって、あなたを告発し身柄を拘束させていただきます」
彼女は感情を完全に排した機械のように淡々と告げ、店外に待機させていた局の警備兵たちに合図を送る準備を始めた。
しかし男は逮捕されるという現実を突きつけられても、顔に貼り付けた薄ら笑いを消そうとしない。
「お好きにどうぞ。私を牢に入れても、秘密を求める欲求は決して消えませんよ」
「私の記事を毎日喜んで読んでいたのは、王都に住む善良な市民たちなんですよ。私を法で裁けても、彼らの心にある他人の秘密を消費する暗い快楽までは、決して裁けませんからね」
警備兵たちが店に踏み込み、男の腕を乱暴に掴んで連行していく間も、彼は狂ったようにエリシアを嘲笑い続けていた。
秘密を暴く快感は誰にも止められないという呪いのような言葉が、いつまでも安酒場の澱んだ空気にまとわりついている。
エリシアは無言のまま店を後にし、冷たい秋の風が吹き抜ける王都の石畳を一人で歩き始めた。
男を法的に罰して情報の出所を断ち切ることはできても、他人の不幸を娯楽として消費する大衆の感情そのものを止める手段など存在しない。
論理と正しさを突きつけて男を完璧に論破したはずなのに、彼の中にある醜い快楽の形を少しも変えることはできなかった。
事実の刃は、人間の本性に深く根差した悪意そのものまでは決して届かないのだ。
正しさを突きつけても人は変わらないという厚い壁に、彼女は初めて明確に直面していた。
空を覆い尽くす灰色の雲を見上げ、エリシアは立ち止まった。
かつて王宮の卒業舞踏会で婚約破棄されたあの夜、誰も事実を問わずに空気に流されて彼女を断罪したのも、まさにこの同じ「大衆の感情の渦」だった。
視線を静かに落とし、エリシアは黒いインクの染みがついた純白の絹の手袋を見つめた。
この巨大で得体の知れない大衆の悪意を前にして、彼女の信じる論理と正義は本当に意味を持ち得るのだろうか。
冷たい風が銀色の髪を激しく揺らす中、エリシアはただ一人で黙って正しさの限界という重い事実を深く噛み締めていた。




