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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第25話「噂紙の匂い」

王立苦情処理局の冷え切った執務室には、今日も長年染み付いたカビの臭気と古い紙の匂いが澱むように漂っている。


エリシアは古びたデスクに向かい、ここ数日で押収した何枚もの粗悪な紙切れを静かに見つめていた。

王都の社交界や裏社会で密かに流通している、匿名の「噂紙」と呼ばれる代物である。


紙質は悪く文字も乱雑だが、各家の内情や秘密を的確に突いており、真実と嘘が絶妙に織り交ぜられていた。

先日解決した持参金問題の裏側でも、この噂紙がばら撒かれている。

婚約直前の令嬢の屋敷に匿名で投げ込まれ、当事者たちの不安と猜疑心を容赦なく煽り立てたのだ。

真偽不明の借金話や身分違いの恋といった生々しい記事は、閉鎖的な社交界であっという間に燃え広がり、無実の人々を窮地に追い込んでいく。

個人の嫌がらせにしては組織的すぎるこの紙切れは、噂を娯楽として消費する貴族たちの軽薄さによって、その威力を何倍にも引き上げられていた。


エリシアは一枚の噂紙をそっと持ち上げ、インクの滲み具合と紙の質感を指先で確かめた。


そしてふと、これまでとは少し違う問いが浮かんだ。


——書いた人間は、何が欲しかったのだろうか。


これまでのエリシアなら、その問いは「誰が書いたか」「何の利益を得るか」という実務的な分析に直結させていた。

しかし今は少し違う。この汚れた紙切れを書いた人間の内側に、何があるのかを知りたいという感覚だ。


権力か。金か。それとも——単に、誰かが苦しむ様を見たかっただけなのか。


前者なら論理で対処できる。しかし後者なら、事実の刃は届かないかもしれない。


その問いは答えが出ないまま、しかし確かに彼女の胸の中に残った。


「この噂紙はただの悪戯ではなく、王都の貴族たちを混乱に陥れるための明確な情報操作です。誰かが莫大な資金と情報網を意図的に使っているはずです。私がここで真実から目を背ければ、彼らの思惑通りに王国全体が少しずつ腐敗していくだけです。嘘が真実として定着する前に、この悪意の出所を完全に断ち切らなければなりません」


エリシアの氷のように冷たく澄んだ声が響くと、ユリウスが埃っぽい書類の山から顔を上げた。


「随分と手の込んだ悪意をばら撒くものだ。またその冷たい事実の刃で、隠れた悪党の首を撥ねに行くつもりか。だが、これまで相手にしてきた小悪党どもとは根本的に規模が違う。下手に首を突っ込めば、お前自身の命すら危うくなるぞ」


エリシアの決意が揺らぐことは微塵もなかった。

手元の書類を分厚い記録鞄にしまい込み、彼女は迷うことなく執務室を後にした。


冷たい秋の風が吹き抜ける王都の石畳を歩きながら、エリシアの胸の奥には先日の伯爵夫人の言葉が静かに響いていた。

『人は傷ついた形のまま、綺麗に整列なんてできないのよ』


事実を突きつけて不正を完璧に処理しても、深く傷ついた人間の心までは決して救うことができなかった。

自分が信じてきた冷徹な正しさは、本当にこの世界を救えるのだろうか。

その答えの出ない問いが心を冷たく締め付けるが、立ち止まるつもりはない。

ここで歩みを止めれば、空気に流されて真実から目を背けたあの夜の彼らと、同じになってしまうからだ。


噂紙の出所を突き止めるため、エリシアが足を運んだのは王都の隅にある入り組んだ薄暗い裏路地だった。

馬車を降りて狭い路地へと歩みを進めると、足元の石畳は泥で汚れ、王宮のきらびやかな大理石の床とは対極にある空間が広がっている。

太陽の光が届かないその場所には、印刷所の油とインクの強い匂いがむせ返るように立ち込めていた。


古びた木製の扉を押し開けると、耳をつんざくような輪転機の音が響く。

部屋の隅には粗悪なインクの入った巨大な樽がいくつも積み上げられ、黒い液体が床に点々とこぼれ落ちていた。


印刷所の主人は彼女の身分証を見ると、「役所がこんな下請けの仕事に何の用だ」と顔を引きつらせた。

エリシアは淡々と「王国の規定違反および不当な資金提供の調査です」と告げ、奥の金庫から古い帳簿をいくつも出させる。


純白の絹の手袋が黒い油や煤で汚れることも厭わず、彼女は黙々と膨大な数字の羅列に冷徹な目を通し続けた。


やがて、帳簿の片隅に記された不自然な金の流れの前で、エリシアの視線が止まった。

この安価な噂紙を大量に刷り上げて王都の各所にばら撒くためには、到底引き合わないほどの莫大な資金が投入されている。

利益を度外視してでも混乱を生み出そうとする依頼主が、確実に存在しているのだ。


いくつものダミー商会、不自然な資金の出所、複雑に絡み合った経路。

無関係に見える情報を逆算し、不要な枝葉を容赦なく切り落としていく。

やがて、偽装工作の奥底から、見覚えのある一本の太い資金経路がくっきりと浮かび上がった。


その線の先にある名に行き当たった瞬間、ページをめくるエリシアの指先がピタリと止まる。

背筋にぞくりとした冷たい悪寒が走り、彼女は思わず小さく息を呑んだ。


「この資金援助を隠蔽する経路は……王弟派の実務貴族、アルヴェイン伯の周辺へと繋がっています」


エリシアが静かに事実を口にすると、印刷所の主人は顔面を土気色に変えて激しく震え上がった。

「お、俺たちはただ依頼された原稿を刷っていただけだ!相手がどこの誰かなんて、本当に何も知らないんだ!」


アルヴェイン伯は王宮の華やかな表舞台には決して立たず、実務を通じて裏で情報と利得の流れを整理していると言われる男だ。

決定的な証拠があるわけではない。しかし彼のような有能な実務貴族であれば、自分の手を汚さずに各家の対立を煽り、王都全体を操作することも十分に可能だろう。


これまでの小さな縁談妨害や横領事件とは次元が違う、巨大な黒幕候補の気配がそこには濃厚に漂っていた。


印刷所を出て、エリシアは冷たい秋の空を見上げた。


「書いた人間は何が欲しかったのか」——先ほどの問いが、また静かに浮かんだ。


もしアルヴェイン伯が黒幕なら、彼が欲しいのは権力だ。しかし記者が求めていたのは——おそらく、混乱そのものだった。

権力者の道具として使われながら、自分が世界をかき回せることに快楽を覚えていた。

そういう人間を動かす欲望は、論理や規定の外側にある。


それでも、彼女は立ち止まらない。


「どれほど強大な敵であろうと、私がやるべきことは変わりません。事実を繋ぎ合わせ、論理で全てを暴き出すだけです」


エリシアは淡々と呟き、純白の絹の手袋の指先を一つずつ丁寧に整え直した。

冷たい風が銀色の髪を揺らす中、新たな戦いの幕開けを告げる足音が、力強く石畳を打ち鳴らしていった。


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