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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第19話「匿名の悪評文」

王立苦情処理局の薄暗い執務室には、今日も長年染み付いたカビの臭気と古い紙の匂いが澱むように漂っている。


エリシアは昨夜から山のように積み上げられた粗末な紙の束を静かに見つめていた。

花嫁衣装の遅配事件の裏で、王都の社交界にばら撒かれていた匿名の悪評文だ。

被害に遭った男爵家の令嬢が不義密通を働いているだの、家が莫大な隠し借金を抱えているだのといった、下世話で陰湿な噂話が乱雑な文字で書き殴られていた。


「貴族のお嬢様方のドロドロした足の引っ張り合いなんて、俺たち下級役人がまともに取り合うようなもんじゃありませんよ。適当に処分して終わりにしましょう」


局員たちにとってそれは単なる嫌がらせの紙切れでしかなかったが、エリシアは黒いインクの染みがついた純白の絹の手袋で一枚の悪評文をそっと持ち上げた。


「これはただの嫌がらせではありません。婚姻と利権を狙った工作です」


「文字はわざと汚く崩されていますが、この悪評文が落とされた場所は特定の派閥が集まる高級サロンの周辺に限定されています。かつて王宮で暗記した貴族の系図と資金源の情報を照らし合わせれば、この騒動で誰が利益を得るのかは自ずと浮かび上がります」


「今回の結婚が破談になり男爵家が社交界で孤立して没落すれば、その利権は対立派閥であるルシアン子爵家の手へと自動的に転がり込むことになります」


彼女の隙のない推論を聞いて、ユリウスがゆっくりと顔を上げた。


「王宮の毒虫どもの陰湿な思考回路が、お前には手に取るようにわかるというわけだな」


「私はただ、誰が最も利益を得るかという相関図を作っただけです。仕立屋の責任者が自白した仲介人の足取りを追い、ルシアン子爵家から裏社会の顔役へ流れた不自然な金銭の記録をすでに押さえてあります。これより対象者を呼び出し、事実関係の確認と是正を行います」


エリシアが迷いなく立ち上がると、ユリウスは短くため息をつき、「噛み殺されないように気をつけろ」とだけ告げた。


数時間後、苦情処理局の奥にある冷え切った会議室で、エリシアはただ一人静かにその時を待っていた。


やがて複数の護衛や従者を引き連れた重々しく尊大な足音が近づいてくる。

扉が乱暴に開け放たれ、上等なベルベットの外套に身を包んだルシアン子爵が、神経質そうな顔を歪めて姿を現した。


彼はカビ臭い部屋の空気を白い絹のハンカチで露骨に押さえながら、エリシアの向かいの席に傲慢な態度で腰を下ろした。


「私のような身分の高い人間をこんな役所に呼び出すとはいったい何の真似かな。君はたしか王太子殿下から見事に見捨てられた元侯爵家の令嬢だったね」


子爵は初対面の挨拶の代わりに、エリシアの過去の傷を容赦なくえぐりにかかった。

相手の感情を揺さぶり、主導権を握るための貴族特有の陰湿な牽制である。


しかしエリシアの澄んだ瞳には微塵の動揺も浮かばず、定規で測ったかのように真っ直ぐに背筋を伸ばしたままだ。


「お忙しいところ申し訳ありません。本日はあなたが裏で指示した花嫁衣装の意図的な遅配および匿名の悪評文の流布について、いくつか確認していただく事実があります」


エリシアが微かに汚れた純白の手袋の指先で分厚い証拠書類の束を押し出すと、子爵は鼻で嘲笑った。


「事実だと?君は本当に哀れで滑稽な女だな。王宮の空気を全く読めずに追放されたというのに、今度はこんなカビ臭い部屋で貴族の『政治』という高度なルールを薄っぺらな紙切れで裁こうというのか」


子爵は身を乗り出し、自らの大義名分を声高に主張し始めた。


「あの程度の小娘の結婚がひとつ壊れたところで我がルシアン家が西部の利権を握る方が、王国全体にとってはるかに大きな利益をもたらすのだよ。君のような血の通っていない機械にはこの崇高な大義が理解できないのだろうがね!」


彼の言葉は、自分の私欲を正当化するための身勝手な論理にすぎない。しかし彼自身はそれを「貴族としての正しい使命」だと本気で信じ込んでいるようだった。


卒業舞踏会の夜、エリシアを断罪したのはまさにこうした「空気」だった。

事実の確認など一切行われず、ただその場の感情と大義名分という見えない空気が、彼女を一方的に悪と決めつけて切り捨てたのだ。


あの夜の息苦しい光景がエリシアの脳裏を一瞬だけよぎるが、彼女は静かに、氷のように冷たい声で口を開いた。


「ええ、私にはあなたがたの言う『空気』を読む機能は備わっていません」


エリシアは感情を一切交えることなく、子爵の目を真っ直ぐに見据えた。


「私が見えるのはあなたが偽計を用いて他者の業務を妨害し、名誉を不当に毀損したという確定した事実だけです。貴族の政治という大義がどれほど崇高であろうとも、王国の法と規定を破ってよいという免罪符にはなりません」


「ここに、あなたが浮浪者を雇って悪評文をばら撒かせた詳細な金銭授受の記録があります。さらに仕立屋の責任者が提出した、あなたからの圧力に関する直筆の供述書も揃っています。もしこの場でご自身の非を認めないのであれば、私はこれらの記録を添えて正規の監査委員会と王宮の法務局へ即座に告発手続きを行います。よろしいですか」


逃げ場のない完璧な論理の包囲網と冷徹な事実の刃を喉元に突きつけられ、子爵は顔面を土気色に変えた。

激しく狼狽し、「こんな紙切れの証拠など私の権力でどうとでも握りつぶせる!」と喚き散らしたが、その声にはすでに先ほどの傲慢な響きはなかった。


これ以上の抵抗は自らの家を完全に破滅させると本能で悟った子爵は、やがてギリッと強く歯を噛み締め屈辱に顔を歪めながら書類に署名をした。


「……いつか必ず後悔するぞ。貴族の誇りを泥で汚したお前は、確実に社交界全体の敵になる」


吐き捨てるように呪詛を残し、子爵は足早に会議室から立ち去っていった。


圧倒的な権力を振りかざす相手に対し、ただ「事実」だけを武器にして完全な勝利を収めた瞬間だった。


数日後、エリシアの追及によって縁談妨害は完全に止まり、被害に遭った男爵令嬢の婚約式は無事に行われることになった。

事件の解決を報告するため、令嬢が密かに苦情処理局を訪れた。


「王宮の役人様のおかげで、これで家の面子は戻りますわ。本当にありがとうございました」


美しく着飾った令嬢は、エリシアに向かって笑みを浮かべてみせた。完璧な淑女の笑みだが、目元だけが少し硬くこわばっている。


エリシアの視線は令嬢の指先に静かに釘付けになった。

令嬢は微笑みながらも、ドレスの陰で純白のレースのハンカチを、指が白くなるほどきつく握り潰していたのだ。


悪質な噂に晒され、理不尽に名誉を傷つけられた恐怖と不安。

表面上は解決して家名は守られたとしても、彼女自身の未来や人間関係への信頼はすでに深く損なわれていた。

その癒えない心の傷が、強く握り潰されたハンカチにありありと表れていたのである。


エリシアはその痛ましい姿を見て、一瞬だけ返す言葉を失った。


「……今後同様の妨害が起きぬよう、局としても厳重に対策いたします」


エリシアが絞り出した言葉は、実務官としては完全に正しい返答だった。

しかし令嬢の心の奥底には全く届いていないことが、その虚ろな微笑みから痛いほど伝わってきた。


澱んだ空気の執務室に戻ったエリシアは、自分の古びたデスクに再び腰を下ろした。


「見事な手際だったが、ルシアン子爵の言う通りだぞ。お前はただの悪党を捕まえたのではない。貴族社会の暗黙のルールそのものを否定し、消えることのない深い敵意をまた一つ生み出したのだ」


腕を組んで様子を見ていたユリウスが、ゆっくりと歩み寄ってきた。

その言葉には、彼女の未来を案じるような微かな響きが含まれていた。


正しさの冷徹な刃は相手の信じる大義を容赦なく殺し、黒く濁った怨念となって確実に自分へ跳ね返ってくる。

そして何より正しく処理したからといって、傷ついた人の心が完全に救われるわけではないという現実がエリシアの胸に重くのしかかっていた。


「恨みが残るとしても、記録を消す理由にはなりません」


エリシアは淡々とそう返したが、無意識のうちに自分の両手を見下ろしていた。


黒いインクの染みがいくつもついた、純白の絹の手袋。


東部の巡礼路で司祭から向けられた生々しい敵意の記憶に続き、今回は子爵からの泥のように重い憎悪を正面から浴びることになった。

誰かの人生を狂わせようとする悪意を暴き出し正しさを証明するたびに、この手袋の先が少しずつ黒く染まっていくような錯覚を覚える。


あの白いハンカチの皺だけが、いつまでも頭から離れなかった。


エリシアは小さく深呼吸をして背筋を真っ直ぐに伸ばし、古びたインク壺にペン先を深く浸す。

そして新しく届いた書類の束を引き寄せ、滑らかな文字を淡々と書き連ねていく。


カリカリという硬いペンの音だけが、静まり返った重苦しい空気の執務室に孤独な決意のリズムを刻み続けた。


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