第20話「解決したはずなのに」
王立苦情処理局の薄暗い執務室には、今日も長年染み付いたカビの臭気と古い紙の匂いが澱むように漂っている。
エリシアが書類を整理していると、周囲の空気が以前とは明らかに違っていることに気づく。
ここ数日彼女は厨房の横領、巡礼路の優先順位の歪み、そして悪質な縁談妨害といった厄介な案件を次々と処理してきた。
その結果、局内での彼女に対する評価は「左遷されてきた厄介者の令嬢」から「恐ろしく手際が良く確かな実務能力を持つ者」へと劇的に変わっていた。
しかし同時に、局員たちが彼女に向ける目には決して触れてはならない危険な猛獣を見るような強い畏怖が混じっている。
「あの令嬢はたしかに仕事は早くて有能だが、血も涙もない冷酷な機械そのものだ」
「下手に逆らえばどんな過去の事実を掘り起こされて、容赦なく破滅させられるかわかったものではないぞ」
局員たちが遠巻きにひそひそと囁き合う声が、静まり返った部屋の隅から微かに聞こえてくる。
「また厄介な真実を見つけて、一人で勝手に孤立して疲れているようだな」
ユリウスが埃っぽい書類の山からゆっくりと顔を上げ、相変わらずの無愛想な声で呟いた。
彼は擦り切れた古い外套のポケットに両手を突っ込み、エリシアの整いすぎた姿勢を冷ややかに見つめる。
ユリウスは彼女の卓越した才能を誰よりも高く評価していたが、同時にその冷徹なやり方の危うさにいち早く気づいていた。
「私は王国の規定に基づき事実を処理しただけであり、彼らと馴れ合うためにここで仕事をしているわけではありません」
エリシアが手元の書類から一切視線を外さずに淡々と返すと、ユリウスは短く呆れたように鼻を鳴らした。
「お前の刃は正しい。だが、人間は切られた理屈より、切られた痛みの方を長く覚えている」
だがエリシアは表情を一切崩さず「ご忠告に感謝いたします」とだけ短く答えて再びインク壺にペンを浸した。
カリカリという硬いペンの音だけが、静まり返った執務室にいつまでも孤独なリズムを刻み続けていた。
その日の夕刻に退庁したエリシアは、王都の石畳を進む帰宅の馬車に乗っていた。
薄暗い車内には窓の隙間から冷たい夜風が入り込み、彼女の白い頬を凍えるように撫でていく。
車輪が石畳を跳ねる単調な音だけが響く中、エリシアはふと車窓のガラスに目を向けた。
そこには一切の感情を排したような、氷のように冷たく無機質な自分の顔がぼんやりと映り込んでいる。
目を閉じると、これまでに彼女が正しく処理してきた出来事の断片が次々と脳裏にフラッシュバックしてくる。
帳簿の不正を暴かれ処分を下された際の、あの料理長のひどく曇った絶望の表情。
彼にも守るべき家族がおり、長年王宮の厨房に尽くしてきたという彼なりの自負と誇りがあったはずだ。
巡礼路の是正勧告を受けた際に、己の信じる神聖な大義を頭から否定された司祭が浮かべた生々しい憎悪の瞳。
神に祈りを捧げることが何よりも王国を救うと信じて疑わなかった彼の目に浮かんでいたのは、理不尽に大義を踏みにじられた被害者としての真っ直ぐで狂信的な怒りだった。
そして先日の事件で悪質な縁談妨害を退けられ、家と婚姻の名誉は完全に守られたはずの男爵令嬢の痛ましい姿。
「これで家の面子は戻りますわ」と完璧な淑女の笑みを浮かべながら、彼女は指が真っ白になるほど強くレースのハンカチを握り潰していたのだ。
悪質な噂に晒されて理不尽に名誉を傷つけられた恐怖と不安は、家名が守られた程度で簡単に消え去るようなものではなかった。
傷ついたのは家名だけではなく、彼女自身の未来や人間関係への根源的な信頼がすでに粉々に砕け散っていたのである。
私はただ王国の規定に厳格に従い、そこにある事実を冷徹に拾い上げて正しく処理したはずだ。
そのおかげで遠くの村で熱に苦しむ子供たちに薬草が届き、理不尽な妨害に遭っていた結婚は予定通りに守られた。
手続きにも論理にも瑕疵はない。
それでも彼女の胸には、どうしても片づかないものが残っていた。
「解決した、とは何だろう」
エリシアはその問いを、初めて正面から自分自身に向けた。
事件は収束する。
だが人は、書類のように綴じ直せない。
真実を白日の下に晒したからといって、人間がその傷ついた形のまますぐに綺麗に整列できるわけではないのだ。
先ほどのユリウスの重い言葉が、冷たい風に乗って再び彼女の耳の奥で静かに蘇ってくる。
『その冷たい刃は、いつかお前自身を傷つける』
馬車が石畳の段差で大きく揺れ、窓ガラスに跳ねた泥水が外の景色を薄汚れた茶色に曇らせた。
エリシアは黒いインクの染みがついた手袋の指先で、ひどく冷え切った自分の胸のあたりをそっと押さえた。
王宮の広間で誰一人として事実を問わなかったあの夜、彼女は空気に流される人間の弱さを何よりも激しく憎んだ。
だからこそ自分は絶対に感情に流されず、事実だけを天秤にかける冷徹な機械になろうと固く誓ったのだ。
泥は相手の側にだけあるのではなかった。
自分の足元にも、いつの間にか重くまとわりついている。
「私は間違っていない……はずです」
暗い車内にぽつりと響いた自分の声は、驚くほど細く頼りなく震えていた。
そのかすかな震えは、彼女がこれまで分厚い氷の壁で必死に押さえ込んできた、人間としてのどうしようもない迷いだった。
自分のやり方はたしかに目の前の問題を即座に解決したが、そこには常に小さな副作用という猛毒が蓄積されていたのだ。
冷たい雨がいつの間にか降り出し、馬車の屋根を激しく叩き始めて窓ガラスの泥汚れをゆっくりと洗い流していく。
だがエリシアの胸の奥にこびりついた暗いざらつきは、どれほど正しい理屈を重ねても決して消えることはない。
自分が信じてきた唯一の武器である真実が、本当に人を根本から救える万能の力なのかどうか。
その薄くて冷たい疑問が、鉄壁だった彼女の心に初めて拭い去れない深い影を落としていた。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
この物語は、ただ問題を解決して終わる話ではなく、「救うとは何か」というところまで踏み込んでいきます。
続きが気になる、応援したいと思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけるととても嬉しいです。




