第18話「花嫁衣装の遅配」
東部の巡礼路での重苦しい案件から王都へ戻ったエリシアは、自分の古びたデスクに向かっていた。
手元には王都でも有数の高級仕立屋から届いた、一件の苦情の書類が置かれている。
間近に迫った結婚式のための花嫁衣装の納品先が取り違えられたという、一見すれば単なる配送ミスの報告だ。
「結婚式を控えた貴族の娘が、ドレスが届かないとヒステリーを起こしているだけですよ。こんなものは苦情処理局が扱うような案件ではありません。適当に業者に謝罪させて終わらせましょう」
無精髭の若い局員がひどく面倒くさそうにため息をついて吐き捨てる。
「どうせお貴族様たちの見栄の張り合いでしょう。俺たち下級役人が口出ししたところで、ろくなことにはなりませんよ」
エリシアは書類から視線を外さず、黒いインクの染みがついた純白の絹の手袋で紙の束を静かにめくった。
「単なる配送ミスではありません。この仕立屋が抱えている複数の結婚式の日程と納品順の記録を照らし合わせると、特定の家の衣装だけが極めて不自然なタイミングで意図的に別の家へ送られています」
「さらに最近、社交界では被害に遭った一家に関する匿名の悪評文が出回っているという報告も別で上がっています。これはただの過失ではなく、物流妨害と悪評を組み合わせた意図的な妨害工作です」
ユリウスは埃っぽい書類の山からゆっくりと顔を上げ、外套の襟を直しながら呆れたように鼻を鳴らした。
「令嬢同士の陰湿な嫌がらせの尻拭いまで苦情処理局がやるというのか。お前は本当に厄介な裏側を見つけるのが好きだな。勝手に調べればいいがほどほどにしておけ」
その言葉には棘があったが、エリシアは小さく頷き、調査用の記録鞄を手に取って立ち上がった。
王都の中心部にあるその高級仕立屋に足を踏み入れると、店内にはむせ返るような香水と上質な絹の甘い匂いが充満していた。
王宮にいた頃のエリシアにとっては、息をするように当たり前に存在していた豪華な世界だ。
しかし表向きのきらびやかな空間とは裏腹に、店の奥で忙しく作業をする職人たちの顔には隠しきれない焦りと疲労の色が濃く浮かんでいた。
彼らは何か怯えたような視線を交わし合い、不自然なほどの沈黙を守りながら針を動かしている。
エリシアは身分証を提示し、店の責任者である恰幅の良い男に帳簿の提出を求めた。
「役人様、これは本当にただの事務的な手違いでして。うちの若い職人が納品先の札をうっかり貼り間違えてしまったのです。すぐに正しい納品先へお送りし直す手はずになっておりますからどうかご内密に」
男は額に汗を浮かべながら必死に弁明する。その後ろで、作業をしていた職人の一人が一瞬だけ気まずそうに視線を逸らした。
エリシアはその微かな揺れを決して見逃さず、分厚い帳簿と納品記録を冷徹な視線で一つずつ照合していく。
「あなたの店のような一流の仕立屋が、花嫁衣装という最も重要な品で宛先を間違えること自体がひどく不自然です。しかも誤配された先は被害に遭った一家と古くから激しい対立関係にある別の男爵家ですね」
エリシアが帳簿の不自然な記載箇所をトントンと叩くと、男はびくっと肩を揺らして視線を泳がせた。
「式当日に花嫁衣装すら用意できぬとなれば、相手方は『家の準備すら整えられぬ無能な家』と見なします。社交界においてこれは単なる嫌がらせなどではなく、結婚を通じた家同士の同盟を決定的に破壊するための悪質な偽装工作ですね」
逃げ道のない冷徹な事実の刃を喉元に突きつけられ、男はついに耐えきれなくなってその場に力なく崩れ落ちた。
彼は特定の対立派閥から裏で多額の金を受け取り、令嬢に大きな恥をかかせて結婚を確実に破談させるためにわざと衣装の納品を遅らせたことを白状した。
商売の信用よりも、権力者からの圧力と莫大な報酬に屈してしまったのだと涙ながらに語る。
エリシアは男の言い訳がましい自白を一切の同情を交えることなく記録用紙に書き留め、すぐさま正規の監査委員会への告発手続きを容赦なく進めた。
事態はエリシアの迅速な対応によって処理され、花嫁衣装は無事に本来の令嬢のもとへと届けられることになった。
悪質な妨害を企てた黒幕の家にも監査の厳しいメスが入り、一つの婚姻と家の名誉は正しく守られる結果となった。
本来ならば、救われた令嬢から多大な感謝を受けてもおかしくない見事な解決である。
しかし澱んだ空気の執務室に戻ったエリシアは、古びたデスクに再び腰を下ろしながら、どこか釈然としないものを感じていた。
局員たちは相変わらず遠巻きに見つめ、厄介事を持ち込む令嬢と関わり合いになるのを避けている。
花嫁衣装というものは、愛と幸福に満ちた未来を象徴する特別な品だ。
王太子から理不尽な婚約破棄を突きつけられたあの夜、自分はもう二度とそのような純白の幸福を身にまとうことはないと覚悟を決めた。
それが花嫁衣装でなければ、もう少し簡単に処理できたのかもしれない。
だがエリシアは、その考えをすぐに押し戻した。
だが彼女は無意識のうちに沈黙し、純白の絹の手袋の指先をじっと見つめていた。
東部の巡礼路で司祭から向けられたあの生々しい敵意の泥汚れ。
そして今回触れることになった、匿名の悪評文という姿の見えない黒い悪意。
匿名の悪評文は燃やしても、そこに込められた悪意まで灰にはならない。
見えないはずの汚れが、手袋の先でまた不思議と胸につかえていた。
「一件落着という顔ではないな。どうせまた余計な裏まで読み取って、一人で勝手に疲れているのだろう」
腕を組んで様子を見ていたユリウスの無愛想な言葉が頭の上から降ってくる。
彼はエリシアの手元にある手袋の汚れを一瞥した。
「私はただ事実を処理しただけです」
エリシアは顔を上げず、短く淡々と返した。
大きく深呼吸をして背筋を真っ直ぐに伸ばし、古びたインク壺にペン先を深く浸すと新しく届いた書類の束を引き寄せる。
カリカリという硬いペンの音だけが、静まり返った執務室に孤独な決意のリズムを刻み続けた。




