21. 瓦解する楽園 ―― 潰えた計算と紅蓮の夜
――絶望というものは、いつも静かに、そして完璧な顔をして訪れる。
「……あり得まない。こんな……こんな計算、王立学院の教科書にも、過去百年の王国財政史にも存在しない……!」
領主室に、ソロンの震える声が響き渡っていた。
いつも冷徹で、感情を一切表に出さず、正確無比な数値だけを口にしてきた彼の顔から、完全に血の気が引いている。手にしたペンは床に落ち、デスクの上には「差し押さえ」と「契約破棄」を知らせる赤い判が押された何十枚もの書簡が散乱していた。
「ソロン……一体何が起きたの? 説明して!」
私の問いかけに、ソロンは絶望に満ちた目でゆっくりと顔を上げた。
「……師です。国立学院時代、私に財政学と市場流動論のすべてを叩き込んだ元財務長官……バルフォア公爵が、ルードヴィヒ第一王子の軍師として動きました。」
ソロンの口から漏れたその名を聞いた瞬間、私の背筋に嫌な汗が吹き出した。バルフォア公爵――王国の経済を陰から支配してきた「絶対的智臣」。
「私たちが構築した『広域自由貿易同盟』の裏をかかれました。バルフォアは、私たちが王都を迂回して交渉していた隣領の商人ギルドや自由都市に対し、『アイリス・テラスと取引を行った者は、王国全土の商業ギルドから除名し、全財産を凍結する』という、連座の特別経済戒厳令を発令させたのです……!」
「な……っ!? そんなの、各都市の自治権を無視した暴論じゃないの!?」
「暴論ですが、実効性があります。バルフォアは王家の権力を用いて、他領の主要な物流網の『通行税』を一時的に免除する代わりに、我が村の品を扱う商隊だけをピンポイントで狙い撃ちにし、差し押さえました。……私たちが『限定性と希少性』で王都を焦らせようとした策はすべて読まれ、逆に我が村の製品はすべての市場から完全に締め出されたのです。」
ソロンが膝から崩れ落ちるように、ガタリと椅子から滑り落ちた。
「我が村の資金流動性は停止しました。外貨が入らない以上、私たちが発行した『ナラク手形』の価値も暴落します。私の……私の甘い計算のせいで、村は完全に破産です……!」
嘘……でしょ……? 私の『広域同盟』も『ブラックマーケット作戦』も、全部最初から見抜かれて誘導されていたっていうの……!?
頭の中が真っ白になった。
元公務員としての知識も、現代の経済理論も、相手の「国家権力を笠に着た圧倒的な手札の多さ」の前には、ただの子供のままごとに過ぎなかったのだ。
だが、恐ろしい「現実」は、これだけでは終わらなかった。
その日の夜。
――――――ズドォォォォンッ!!!!
夜の静寂を切り裂く、腹の底を揺さぶるような大爆発音が村中に響き渡った。領主室の窓ガラスが激しくガタガタと震え、激しい振動が床を伝ってくる。
「な、何!? 地震……!?」
「アイリス様ーーーッ!!!」
悲鳴のような叫び声を上げて領主室に飛び込んできたのは、制服を煤で真っ黒に汚したナギだった。彼の顔は恐怖と焦燥で歪み、息も絶え絶えだった。
「大変です! 南側の……大外堀の水門が爆破されました! 特殊な魔導爆薬です! 堀が決壊して、泥水が村の中に流れ込んでいます!」
「キャナル・ラインが……決壊!?」
「それだけじゃありません! 爆発と同時に、東側の作業場と貯蔵庫から火の手が上がりました! 先日収穫して搾り油にする予定だった『菜種』の貯蔵庫と、冬のためにみんなで作り上げた『綿の詰め込まれたニュアージュドゥ』の倉庫が……燃えています!!」
「そんな……っ!!」
私は弾かれたように窓辺に駆け寄った。
外を見下ろすと、暗闇の中に眩しいほどの真紅の炎が燃え盛っていた。黒煙が夜空を覆い尽くし、かつて私たちが「泥がつかない」と喜んだあの美しいマカダム舗装の道路が、決壊した大外堀の濁流と泥によって一瞬で飲み込まれていく。
「火を消すんだ! 早く水を使え!」
「ダメだ、菜種油に火が燃え移って水じゃ消えねえ! 燃え広がってるぞ!」
「嘘だろ……俺たちの綿が……冬の布団や服が……全部燃えちまう……!」
遠くから聞こえてくる、村人たちの絶望的な叫び声。
「くそっ……! スパイだ……スパイの奴ら、観光客のフリをして忍び込んでやがったんだ! 俺たちが不甲斐ないばかりに……アイリス様、すみません……すみませんっ!」
ナギが床に拳を叩きつけ、涙を流して自分を責める。自警団の深い藍色の制服が、汗と泥で酷く汚れていた。ナギの姿に心がゴリゴリと削られていく。
私のせいだ……。
インフラだ、防衛網だなんて誇っていたけれど、本当のプロの工作員相手には何の役にも立たなかった。……私が甘かったのよ。村人たちに『もう大丈夫だ』なんて思わせて、こんな目にあわせるなんて……!膝が笑い、立っていられなくなる。
資金の凍結。流通の全滅。大切に育てた菜種と、みんなの手仕事の結晶である綿の焼失。そして、村を守る要だった大外堀の壊滅と、泥に塗れる美しい街並み。私がこの村に来てから積み上げてきた「すべて」が、たった一夜にして、音を立てて崩れ去っていく。
「あ……ああ……ッ!!」
視界が涙で滲む。胸が押し潰されそうで、息が上手く吸えない。
私はただの、前世で公務員をやっていただけの普通の人間だ。こんな圧倒的な暴力と意図的な悪意を前にして、一体何ができるというのだろう。
「もう……ダメなの……? 私のせいで……村は……!」
ぽろぽろと零れ落ちる涙が、泥で汚れた床に濡れたシミを作った。
「――おい。勝手に話を終わらせてんじゃねえよ、お嬢。」
低い、どこか呆れたような声が頭上から降ってきた。ハッと顔を上げると、いつの間にか部屋の中にゼノが立っていた。彼の全身もまた、爆破の爆風と消火作業による煤で汚れ、その服の端には焼き焦げた痕があった。けれど、彼の瞳だけは、暗闇の中で激しい魔力の光を宿して爛々と輝いていた。
「ゼノ……? でも、資金も……資材も……堀も……全部壊されて……。」
「壊されたなら、また作ればいいだろ?」
ゼノは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、私の前でドサリと片膝をついた。そして、泥で汚れ、震えている私の両手を、その大きくて温かい手で強引に包み込んだ。
「俺たちが泥水をすすってた頃を思い出してみろよ。家もねえ、食い物もねえ、ただ寒さに震えて死ぬのを待ってた『奈落』の底だ。あの絶望に比べたら……こんなもん、かすり傷みたいなもんだろ。」
「でも……っ! 私が調子に乗って、みんなを巻き込んで……!」
「アイリス様を責めるんてするはずがない!」
部屋の入り口から、力強い声が響いた。
振り返ると、そこには立ち上がったナギだけではなく、なんと泥まみれのロイドさんや、機織り小屋のハナさん、マーサさんたち村人たちの姿があった。
「アイリス様! 倉庫は燃えちゃったけど、畑のサツマイモは無事です!大豆だって、麦の苗もまだ生きている! 」
オトンヌが煤だらけの顔で笑って言う。
「牧舎の牛も羊も、馬も無事です!」
バルトさんがゴツゴツした手で涙を拭いながら叫んだ。
「そうですよ、アイリス様! 服や布団なら、また私たちが織ればいいんです! 糸の紡ぎ方も、キルティングの縫い方も、全部アイリス様が教えてくれたじゃないですか! 私たちの『手』の中に、技術は残っています!」
ハナさんが誇らしげに、煤けた胸を張った。
「お金がないなら、また畑を耕して芋を育てましょう。もう、昔みたいなあばら家じゃなくて立派な家も井戸もある…村のみんなだっているんだ!」
カイルが泣きながら叫んだ。
「……アイリス様が諦めない限り、村は、わしたちは負けはせんよ。」
村長が煤にまみれたシワシワの顔で笑う。村人たちの言葉が、一つ一つ、私の冷え切った心臓に熱を吹き込んでいく。涙が溢れて止まらなかった。
――そうだった。私は勘違いしていた。
アイリス・テラス…いえ、ナラク村の強さは、私が作った「制度」や「建物」や「資金」そのものにあったのではない。絶望の底から這い上がり、自分の手で明日を切り開く術を覚えた、『この人たちの強さ』こそがナラク村の本質だったのだ。
「みんな……!」
机に伏していたソロンが、ゆっくりと立ち上がった。彼は歪んだ眼鏡を指で直すと、抱えていた計算用紙を破り捨て、新しい羊皮紙をデスクの上に叩きつけた。
「……失礼いたしました、アイリス様。私の師は確かに天才ですが、一つだけ決定的な勘違いをしています。彼は『数値』と『資本』しか見ていない。……この村に存在する、数値化できない『人間たちの底力』を計算に入れていないのです。」
ソロンの瞳に、静かな、しかし絶対的な火が再び灯った。
「バルフォアの封鎖など、叩き潰してみせます。私に……もう一度チャンスを!」
私は溢れ出る涙を、袖でぐっと拭い去った。
心が、驚くほど軽くなっている。恐怖も、挫折感も、すべてが熱い「怒り」と「執念」へと塗り替わっていく。
第一王子ルードヴィヒ……そしてバルフォア公爵。あなたたちは確かに、私たちが作った『箱』を壊したわ。……でもね、私たちが本当に作ったものは、そんなものじゃ壊せない!
私はゆっくりと立ち上がり、両頬をパンッ!!と激しい音を立てて叩いた。
「皆さん、聞いてください!」
私の声に、部屋の中にいた全員が一斉に背筋を伸ばした。
「火災の消火を最優先! 菜種油の火は土をかぶせて鎮火させてください! 大外堀の決壊現場にはゼノとゲルマンさん大工たちが入って臨時土嚢を積み上げる! ナギは自警団を率いて、村内に残っているスパイを一人残らず燻り出しなさい!」
「「「はいっ!!!」」」
「ソロン! あなたは私と来て。王都が市場を封鎖したなら……私たちが直接、王都の貴族たちの『足元』を揺るがす新しい経済爆弾を投げ込むわよ!」
「御意に、アイリス様。」
ソロンが冷徹な笑みを浮かべた。
窓の外では、まだ赤々と炎が揺らめいている。けれど、そこに漂う空気はもう「絶望」ではなかった。
煤と炎に塗れながらも、一人ひとりが自分の役割を果たすために走り出す村の人々。
見ていなさい……。この痛手を、私たちは何倍もの『跳躍力』に変えてみせるわ。灰の中から立ち上がるナラク村の本当の恐ろしさを、あなたたちに教えてあげる!
壊された大外堀の向こう、黒煙の上がる夜空を見つめながら、私は固く拳を握りしめた。
「反撃開始よ。」




