20.黄金の秋と、不快なデジャヴ
……ああ、やっぱり。秋の風って、どうしてこうサツマイモの甘い香りと相性がいいのかしら。
私は『アイリス・テラス自治領』の中央広場を見下ろすバルコニーで、焼きたてのスイートポテトを頬張りながら、深く満足の吐息をついた。
新しい村の名前は満場一致で「アイリス・テラス」に決まった。自分の名前が国名になるのは物凄い抵抗があったが、誰も譲らなかった。今は、開き直って「アイリス・テラスの領主、アイリスです。」と自ら名乗るようにしている。
石畳の街路には、整備された下水インフラのおかげで不快な臭いなど一切なく、清潔で活気あふれる商店が立ち並んでいる。学校からは子供たちの元気な声が聞こえ、遠くの醸造所からは蒸留器の心地よい作動音が響いていた。
かつて「捨てられた極貧の村」だったこの場所は、いまや帝国をも経済的に翻弄する、世界で最も豊かで先進的な自治国家へと変貌を遂げている。
「アイリス様、またお一人で糖分の補給ですか? 事務作業の効率が落ちますよ。」
背後から、書類の山を抱えたソロンが呆れたように声をかけてきた。丸眼鏡の奥の瞳には、かつての冷酷な賢者の陰りはなく、代わりに頼もしい『我が国の最高財務顧問』としての誇りが宿っている。
「いいじゃない、ソロン。脳のエネルギー補給よ。それにしても、今年の物流税収は前年比200%増ね。あなたの組んだ貿易関税システム、完璧に機能しているわ。」
「フン、当然です。ですが……アイリス様。王都方面からの『招かれざる客』の噂は耳に入っておられますか?」
「……招かれざる客?」
私が首を傾げると、ソロンは分厚い報告書の一番上を差し出してきた。
「王都の政変です。我が自治領との経済摩擦、さらにはコンフォルト公爵家の失脚煽りを受け、王国の財政は破綻寸前。その混乱の渦中で……あなたをあの華々しい夜会で惨めに弾圧した元婚約者、第二王子カエサル殿下が派閥争いに破れ、廃嫡されたとのことです。」
……カエサル殿下が、廃嫡……?
その名を聞いた瞬間、私の胸の奥がチクリと小さく痛んだ。ほんのわずかな、遠い昔の傷痕みたいに。
一年前の華やかな王宮の舞踏会。
絢爛豪華な大広間の中心で、カエサルは愛人である別の令嬢の肩を抱き、響き渡る声で私に告げたのだ。
『アイリス・コンフォルト! 貴様との婚約を破棄する!』
それだけに留まらず、彼は私から公爵令嬢の身分を剥奪し、この死の土地への追放をその場で一方的に命じた。
……思い返せば、あの頃の私って本当に救いようがないくらい惨めだったわね。
実家である公爵家でも、父や母、腹違いの兄ルシアンにすら見向きもされず、冷遇されていた。愛されたくて、誰かに自分の存在を認めてほしくて、必死に手を伸ばしていた。
「私を見て」「私を愛して」と言えなくて、代わりに鎧のように身に纏っていたのが、あの大袈裟で傲慢な態度と我儘だったのだ。でも、カエサルにすら捨てられて、この極貧の村へ放り出され、泥に塗れて……その絶望の中で前世の記憶を取り戻した。
『愛されたい』なんて、他人に救いを求めるのはやめた。
自分の手で足元を耕し、ゼノやソロン、ナギやカイル、村のみんなと一緒に汗を流し、この街を作り上げた。気づけば私の周りには、私が私であるだけで「アイリス様!」と慕ってくれる、温かな人々が溢れていた。今の私は、心の底から満たされていて、最高に幸せだ。
「……で、そのカエサル殿下がどうしたの?」
「それが……」ソロンが、滅多に見せないような苦々しい顔をした。
「我が国の富と噂を聞きつけ、わずかな従者と共にこの『アイリス・テラス』へ向けて逃亡中とのことです。名目は……『政治的亡命』および『復縁の要求』です。」
「……ぶッ!?」
私は思わず、口に含んでいたハーブティーを吹き出しそうになった。
「ふ、復縁の要求ぅぅぅ!? どの面下げて言ってるのよあの男は!!」
私の叫び声は執務室に響き渡った。
その日の午後。
領地境界の検問所に、一台のボロボロの馬車が到着したという知らせが入り、私とソロン、そしてゼノの三人は、検問所へと向かった。そして、馬車から降りてきた男の姿を見て、私は絶句した。
かつて舞踏会の中心で、金の刺繍が施された軍服を着こなし、我が物顔で振る舞っていた第二王子カエサル。しかし現在の彼は、汚れた上着を羽織り、髪はボサボサ、頬はこけ、見る影もなく落ちぶれていた。
だが、その瞳に宿る「世界は自分を中心に回っている」という肥大化した自尊心だけは、一年前のままだった。
「おお……アイリス! アイリスじゃないか!」
私の姿を認めるなり、カエサルは惨めな表情から一転、さも当然のように両手を広げて駆け寄ってきた。
「ひっ……近寄らないでッ!」
思わず叫べば、ゼノがすっと前に出て、指先をカエサルの胸元に突きつける。
「それ以上一歩でも進んでみろ。お前の服の汚れと一緒に、体ごと吹き飛ばすぞ?」
「ひぃっ……!? ぶ、無礼者め! 私は王国の第二王子カエサルだぞ! 控えよ!」
「『元』第二王子でしょう?」
私が冷ややかに言い放つと、カエサルはビクッと体を震わせ、急に取り繕うように喉を鳴らした。
「くっ……アイリス、聞いてくれ! 私は王都の邪悪な貴族どもや、あの女に騙されていたのだ! 舞踏会でお前を追放したのも、すべて奴らの謀略だったのだ! だが安心しろ、私はお前の真の価値に気づいた! この噂に聞く豊かな国は、お前が私のために準備してくれたのだろう!?」
……は? 何言ってるのこの人? 頭のネジ、どこかに落としてきたのかしら?
私は開いた口が塞がらなかった。あまりの自己中心的な解釈に、怒りを通り越して哀れみすら覚えてしまう。
「カエサル殿下、何を仰っているのか理解できませんわ。」
「とぼけるな! お前は私に愛されたくて必死だっただろう! あの舞踏会での我儘も、すべて私の気を引くためだったはずだ! 許してやる、アイリス! 私がこの国の『王』となり、お前を正妃として再び迎えてやろう! だから私を亡命させ、この国の軍と財力を使って王都へ逆侵攻し、私を王位につかせるのだ!」
カエサルは自惚れた笑みを浮かべ、我が物顔で叫んだ。
……ああ、そういえば昔の私は、この人に愛されたくて必死に取り繕っていたっけ。でも……今の私から見たら、なんてちっぽけで、空虚な男なのかしら…。
私の中で、かつてあったはずのわずかな傷痕すら、綺麗さっぱり消え去っていくのが分かった。私の青春を返してほしいくらいだ。そんな私の隣で、ゼノの青筋がピキピキと浮き上がり、ソロンの眼鏡の奥の光が氷点下まで冷え込んでいく。
「おい、堅物。」
ゼノが低く呟く。
「こいつ、ここで消していいか? 畑の肥料にもならねえゴミだが。」
「待て、ゼノ。公の場で消すのは衛生上も外聞的にも不適切だ。それに、ただ消すだけではつまらないだろう?」
ソロンが冷ややかに返し鉄のブリッジを押し上げてカエサルを鋭く睨みつけた。
「社会的に、そして精神的に完全消滅させる方が合理的だな。」
「二人とも、やめて。」
何やら物騒な話を始めた為、私は慌てて二人を制し、一歩前へ出た。
「カエサル殿下。」
私は極上の、『元・公爵令嬢』としての完璧な微笑みを貼り付けた。
「勘違いも甚だしいですわ。私がこの国を作ったのは、あなたのためでも、誰かに愛されるためでもありません。ここに生きる人々のため、そして何より私自身が幸せになるためです。」
「な……何だと? お前は私を愛して……。」
「ええ、昔は愛されたかったわ。誰でもよかったのかもしれない……居場所がなくて、寂しくて、愛に飢えていたから。でも、今の私にはそんなもの、欠片も必要ありませんの。」
私はハッキリと言い切った。カエサルの顔が驚愕で歪む。
「あの舞踏会で、大勢の前で私を苛み、身分を奪い、この地へ追いやった時のあなたを覚えていますか? 『能無しの傲慢女』と蔑んで笑っていたのはあなたです。」
「それは……あれはお前の態度が……!」
「ええ、私の態度は最悪だったわ。でもね、今の私はもう、誰かの顔色を窺って愛を乞うような惨めな少女ではないの。自分の足で立ち、大切な仲間たちと共に、この愛おしい国を作り上げたのよ。」
「アイリス様……。」
背後でソロンが静かに息を呑み、ゼノがどこか誇らしげに目を細めたのが分かった。
私は容赦なく畳み掛けた。
「ソロン、我が自治領の『亡命受け入れ基準』を彼に説明してあげて。」
「かしこまりました、アイリス様。」
ソロンがすっと書類を開き、朗々と読み上げ始めた。
「当自治領における政治亡命の受け入れ要件は以下の通り。第一に『有用な技術、または高度な知識を有していること』。第二に『当自治領の法律を遵守し、汗を流して労働に従事する意志があること』。……以上です。」
ソロンは視線を上げ、冷徹な目でカエサルを見つめた。
「カエサル殿下。貴方に我が国に貢献できる『技術』や『知識』はおありですか? 下水道の配管設計は? 魔法による品種改良の理論は? 複式簿記による財政計算は?」
「な、そんなもの、王族である私が知るはずが……!」
「では、労働の意志は? 畑で泥にまみれて鍬を振るう覚悟は?」
「わ、私が……そんな泥臭い作業などできるか!」
「——判定、不適合。」
ソロンは冷酷に言い放ち、書類をパタンと閉じた。
「貴方は我が国にとって何の価値もないどころか、ただの『有害な消費資源』に過ぎません。亡命申請は却下いたします。」
「な……なんだと!? 私は第二王子だぞ! 無礼者ども、控えろぉぁぁッ!」
カエサルが錯乱したように叫び、私に向かって手を伸ばそうとした。
——ガシッ!
その手を、ゼノの泥と油に汚れた巨大な手が、万力のような力で掴み取った。
「ぐああぁぁっ!? い、痛い! 手が折れる!」
「おい、元王子様。」
ゼノがカエサルの顔の目の前まで顔を近づけ、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべた。
「お前が『泥臭い作業』って馬鹿にしたその土から、俺たちの食糧ができてんだよ。お前が舞踏会で踏みにじったあのお嬢様が、俺たちに生きる希望をくれたんだ。お前みたいな口先だけの寄生虫が、この綺麗になった街に泥足で踏みに来てんじゃねえよ。」
ゼノが手を乱暴に払うと、カエサルは石畳の上に惨めに転がった。
「ひ……ひぃっ……!」
恐怖でガタガタと震えるカエサルに、私は最後の引導を渡すために優しく語りかけた。
「カエサル殿下。我が国は慈悲深い国ですわ。飢え死にさせるのは忍びないので、向こうの開拓地で『農民』として働くなら、パンとスープくらいは支給してあげますけれど……いかがでしょう?」
「だ、誰が……誰がそんな真似するかぁぁぁッ!!」
カエサルはなりふり構わず叫び、転がるようにしてボロボロの馬車へと逃げ込んだ。
「覚えていろ! 後悔させてやる! 王国の軍勢を引き連れて、こんな村、叩き潰してやるからな!!」
馬車が見えなくなるまで見送った後、私は深々と溜息をついた。
……はあ。不快だったけど、これで本当の意味で私の『過去』は終わったわね。
かつて愛されたくて必死だった、惨めで傲慢だった幼い私。でも、もう実家にも、婚約者にも愛されなかった少女は、もうどこにもいない。
「追わなくてよかったのか、お嬢?」
ゼノが魔導砲を肩に担ぎ直しながら尋ねてきた。
「いいのよ。どうせ今の王国に、うちの国に攻め込む余裕なんてないわ。それに……あんな男、放っておいても自滅するだけだもの。」
「賢明なご判断です。」
ソロンが眼鏡を指で押し上げた。
「それよりもアイリス様、あのような愚者の相手で貴重な時間を三十分もロスしました。午後の予算会議を始めますよ。」
「えーっ、ソロンったらスパルタなんだから! もう少し勝利の余韻に浸らせてよ!」
私が抗議すると、ゼノがハッと笑った。
「おいおい、お嬢様。さっきの女帝みたいな顔はどこ行ったんだよ? 普段の『食いしん坊の文弱令嬢』に戻るのが早すぎるだろ。」
「文弱とは失礼ね! 私だって毎日村の巡回で歩き回ってるんだから!」
「はいはい。じゃあ、会議が終わったら、グラン婆さんの芋菓子の試食に連れて行ってやるよ。それで手打ちだ。」
「本当!? ゼノ、大好き!」
私が手放しで喜ぶと、ゼノは「バッ……お前、安易にそういうこと言うなよな……!」と顔を真っ赤にして逸らした。その反応が可笑しくて、私とソロンは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
ふと見やると、学校から出てきた子供たちが「アイリス様ー!」「ゼノ兄ちゃん!」「ソロン先生!」と手を振りながら駆け寄ってくるのが見えた。
胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされていく。
……ああ、私。今、最高に幸せだわ!
誰かに縋り付いて愛を乞わなくても、ここには私を必要としてくれる仲間がいる。私自身の足で立ち、育て上げた大切な居場所がある。
「さあ、みんな! 会議をサクッと終わらせて、美味しいご飯にしましょう!」
私は二人と肩を並べ、愛おしい我が家へと向かって元気に歩き出したのだった。




