19.ソロンの決意と帝国の影
……嫌な予感がするわね。
私は執務室の机に積み上げられた計算用紙から顔を上げ、窓の外の夜空を見上げた。
実家の公爵家を退けたあの騒乱から数週間。村は名前を変えるためのアンケートや意見交換が頻繁に行われ、自立した自治領として順調に発展を続けていた。だが、平和な時こそその裏側で、不穏な影が忍び寄っていること可能性がある。そして、私はこの数日、得体のしれない胸騒ぎを感じていた。
その予感は、翌日の昼に現実のものとなった。
「——帝国からの使者だと?」
広場にやってきたのは、黒い軍衣を纏った冷徹な眼差しの特使と、数名の屈強な護衛だった。彼らが持ち込んできたのは、周辺諸国との経済封鎖をちらつかせた恫喝の書面、そして何より——。
『かつて我が帝国より逃亡した国家諮問委員・ソロン・マディラウドの身柄を直ちに引き渡せ。さもなくば、この辺境の村に軍を差し向け、すべてを灰燼に帰す。』
その要求を聴いた瞬間、ソロンの顔から血の気が引いたのを私は見逃さなかった。
うかつだった。元は帝国の要職に就くほどの優秀な人物。いくら本人が王についていけないと出奔したところで、帝国がそれを許す可能性は低い。強制連行される可能性だって大いにあり得るのに…。村の発展ばかり考えて過ぎていた。もっとソロンの存在は隠しておくべきだったのに…!
「…大丈夫よソロン。何か解決策はあるはずだから。」
自分に言い聞かせるようにして顔色の悪いソロンに声をかける。それを見たゼノも珍しく、ソロンの肩を軽く叩いた。
「そうだぞ、堅物。勝手に色々考え込んで決めつけんなよ?」
「あ、ああ。…そうだな。」
ソロンは静かにこぼした後、何も言わずに仕事に戻っていた。しかしその姿に違和感はぬぐえなかった。
___彼はその夜、私にも何も告げず、静かに村を去ろうとしていた——。
……行くしかない。これ以上、私という過去の亡霊のために、この楽園を危険に晒すわけにはいかない。
深夜。
冷たい月明かりの下、私はコートの襟を立て、村の北側にある細い山道へと足を向けていた。
背後には、私が文字や計算を教え込んだ子供たちの寝息が聞こえるような気がして、胸が締め付けられる思いがした。
帝国は本気だ。私が逃げ込んだこの辺境の村の価値を、彼らはすでに嗅ぎつけている。私が戻れば、あるいは私の首を差し出せば、アイリス様やゼノ、そしてあの村人たちが築き上げた平和は守られる。冷徹な政治的損得勘定において、それが最も合理的で、被害が最小限に済む選択なのは明白だった。
私は賢者として生きてきたはずだ。私情に流されず、常に最大の利益と最小の犠牲を計算する……それが私の生き方だったはずなのに。
足取りが重い。頭の中で、アイリス様が冷たい紅茶を啜りながら「愚かね」と呆れる顔が浮かぶ。ゼノが不機嫌そうに悪態をつく声が聞こえる。学校で「先生!」と駆け寄ってきてくれた子供たちの笑顔が、脳裏から離れない。
「……くそっ。私は、いつからこんなに情けなくなってしまったんだ……!」
自嘲気味に呟き、眼鏡のブリッジを押し上げたその時だった。
「——よぅ。…散歩か?堅物。」
闇の中から、低い、しかしよく通る声が降ってきた。
「っ……!?」
私は足を止め、息を呑んだ。
道の真ん中、月光を背にして腕を組んで立っていたのは、他でもないゼノ・ブランフォードだった。無愛想なその顔には、怒りでも嘲笑でもなく、ただ呆れたような深い諦めの色が浮かんでいた。
「ゼノ……お前、なぜここに?」
「夜中にコソコソと荷物をまとめて出ていく奴がいたら、見張りの自警団から報告が来るに決まってんだろ。これがお前の考える『合理的な解決策』とやらかよ、ソロン。」
私は歯噛みした。
「……邪魔をしないでくれ、ゼノ。帝国の特使の要求は私個人の身柄だ。私が戻れば、この村への経済封鎖も軍事介入も回避できる。アイリス様が築いたこの国を守るために、これが最も……!」
――バシュッ!!
言葉の途中、風を切り裂くような鋭い音が響いた。
次の瞬間、私の頬に激痛が走り、体が宙を舞って地面に叩きつけられた。
「ガハッ……!?」
衝撃で眼鏡が外れ、冷たい泥のなかに転がり落ちる。口の中が生暖かい鉄の味で満たされた。私は驚愕して顔を上げた。ゼノが、その右拳をゆっくりと下ろしながら、私を睨みつけていたのだ。
「なっ……何を…………ッ!」
「うるせえ!!」
ゼノが怒声を浴びせ、私の胸倉を掴み上げて無理やり立たせた。その目は本気で怒っていた。
「一人で勝手に背負い込んで、勝手に消えようとするんじゃねえよ! あんたがいないと、設計図の計算や税制の裏付けは誰がやるんだ? この村の『頭脳』を、勝手に持ち逃げすんのかこの野郎!」
「私は……村に迷惑をかけたくないからだ……!」
「ふざけるな!!」
ゼノの拳がさらに震えた。
「俺はな、あんたの小難しい理屈やネチネチした物言いなんて大嫌いだ。だがな……! あんたが授業の合間に子供たちと笑いながら、あの学校の黒板で文字を教えている時の顔は、嫌いじゃねえんだよ!」
「……っ!」
「『子供たちが笑える国を作る』。……口では散々偉そうなこと言っといて、いざ自分の身が危うくなったら尻尾巻いて逃げるのか? そんな、自分の作ったルールすら信じられない奴に、俺たちの背中を預けられるかよ!!」
ゼノの理不尽なまでの、しかしあまりにも熱すぎる言葉に、私は完全に言葉を失っていた。
酒に酔った勢いでつい口を滑らせてしまった私の…夢物語。
『身分や貧富に関係なく、子供たちが平等に知識を学び、飢えることも怯えることもなく笑って暮らせる国が作りたい…。』
皆がひどく酔っていて覚えているものなどいないと思っていたが…まさかこいつに効かれていたとは…!
理論と計算だけで世界を割り切ろうとしてきた私にとって、この男の持つ「仲間への執着」と「真っ直ぐな怒り」は、あまりにも眩しく、そして痛烈すぎた。
「そこまでにしておいて、ゼノ。」
静かな、しかし凛とした声が夜闇の向こうから響いた。
振り返ると、月明かりの中に佇むアイリス様の姿があった。その周りには、夜着の上に上着を羽織ったハンスやカイル、そして何人もの子供たちが、不安そうな顔で寄り添っていた。
「ソロン先生……! どこに行くの?」
「明日、掛け算の続きを教えてくれるって約束したよ……!」
子供たちの小さな声が、私の胸を突き刺す。かつて、約束を破るのは悪いことだとこの子たちに教えた自分が情けない。私は顔を伏せ、泥まみれの地面に視線を落としたまま、絞り出すように言った。
「……アイリス様。なぜ止めるのです?私の存在が、この村を滅ぼす火種になる。私が消えれば、帝国は……!!」
「馬鹿ね、ソロン。」
アイリス様はため息をつきながら近づいてくると、私の前にしゃがみ込み、落ちていた丸眼鏡を拾い上げて優しく埃を払った。そして、じっと私の目を覗き込んだ。
「あなたはただの『居候』じゃないわ。この村の土壌を整えたのは私、形にしたのはゼノ。でも……そこに『人の心とルール』を吹き込んで、この場所をただの集落から『国家』に引き上げてくれたのは、サロン、あなたなのよ?」
「……私が……この村の……?」
「そうよ。あなたが子供たちに教えた法律も、あなたが夜を徹して計算してくれた税制も、すべてはこの村の血肉になっている。あなたがいないこの村なんて、魂の抜けた泥人形と同じだわ。」
アイリス様は立ち上がり、私にその眼鏡をそっと手渡しながら、力強く微笑んだ。
「だから、自分を犠牲になんてさせない。私を信じて、ソロン。私たちが、あなたを狙う帝国ごと、経済で、知識で、徹底的に叩き潰してあげるから。」
その瞳に宿る光は、どんな強大な帝国の軍勢よりも頼もしく、美しかった。その横でゼノがふんと鼻を鳴らして腕を組み、子供たちが私の裾をキュッと引っ張る。
……ああ。私は、なんて愚かな勘違いをしていたんだろう。
合理的な考えと完璧な計算だけで生きようとしていたはずの私の心に、この人たちの温かさが、どうしようもなく染み渡っていくのを感じていた。
私は震える手で眼鏡を受け取り、かけ直せば、ぼやけていた視界がクリアになる。そこには、もはや迷いなど微塵もなかった。私にも守るべきものができた。その考えれば、熱い情熱が体の芯から沸き立つようだった。
「……アイリス様。ゼノ。そして、皆さん…。」
私は深く息を吸い込み、顔を上げた。
「これまでの非礼と、愚かな夜逃げ未遂を謝罪します。……このソロン、二度とあなたたちの前から逃げ出したりはしません。」
そして迎えた翌朝。
村の広場には、昨夜の脅迫状を携えた帝国の特使と護衛たちが、傲然たる態度で待ち構えていた。
「おい、いつまで待たせる。ソロンの身柄の引き渡しは——。」
特使が言いかけたその言葉を、一歩前に出た私が冷ややかに遮った。
「そこまでだ。帝国の使者殿。」
私は背筋を伸ばし、完璧なまでの貴族の礼を取ってから、一言一句ハッキリと言い放った。
「帝国へ伝えてください。私は二度と戻らない。そして今日この瞬間から、我々の自治領は、お前たちの『不当な介入』に対し、全面的な経済的・政治的報復を開始すします。」
「なっ……! 何だと貴様、辺境の分際で帝国に歯向かうというのか! 軍事介入でこの村を地図から消し去ってや——」
「消し去るのは、そちらの方ですよ?」
私は懐から取り出した分厚いファイル——帝国全土の商工ギルドの借款リストと、主要交易路の物流データを特使の足元に叩きつけた。
「我が領の最高財務顧問として、すでに帝国の主要金融網に対する『資産凍結』および『流通ボイコット』のアルゴリズムを組み終えています。今日より、帝国へ向かう全ての魔力芋および特産品の輸出を完全停止する。それに伴い、帝国国内の食糧価格高騰と暴動の発生確率は——実に98.4%です。」
「な……馬鹿な、そんな短期間で……っ!」
特使の顔色が一気に真っ青になり、冷や汗が滝のように流れ落ちる。
隣には、腕を組んで不敵な笑みを浮かべるゼノと、自信に満ち溢れた表情のアイリス様が立っている。
「私たちはもう、ただ怯えて隠れるだけの弱者ではないわ。搾取される側から搾取することもできる力を手に入れたの。」
アイリス様が美しく微笑んだ。
「あなたたちがその傲慢な首を垂れるまで、私たちの『知識』と『経済』で、この帝国を徹底的にひざまずかせてあげるわよ。…覚悟なさい?」
我が智略のすべてをこの国のために。
私は眼鏡を押し上げ、かつての「冷徹な賢者」を超えた最強の微笑みをもって、怯える特使を見下ろしたのだった。
この後、21時に次話投稿します。




