16. 市場の歪みとカイル・ナギの新たな試練
ナラク村の「自由市場(楽市楽座)」は、もはや単なる「田舎の集落イベント」ではなくなっていた。
評判を聞きつけた行商人が雪道を押し寄せ、広場は連日大盛況。しかし、急激な経済の拡大は、村のシステムに大きな「歪み」を生み出し始めていた。
「アイリス様……市場の規模が大きくなりすぎて、通貨の供給が追いついていません。」
執務室でカイルが痛々しい表情で報告していた。
「ガンスさんたちが手作業で刷る紙幣や、ゲルマンさんたちが作る木銭の生産スピードを超えて取引が行われています。その結果、市場での『エン』が不足し、大口の買い付けが停滞し始めています。それどころか……外の商人が村の食べ物を『エン』で片っ端から買っていくため、村の中での食料品価格が3倍近くに跳ね上がっています。このままでは村人たちが日々の食糧や日用品を買えなくなってしまいます!」
さらに、自警団のハンスが険しい顔で頭をかきむしりながら入ってきた。
「アイリス様! 自由市場だからって、指定の広場からはみ出して勝手に道を塞ぐ『不法露店』が増えてるんだ。そこから出たゴミも放置されてます。……それと、これを見てください。」
ハンスが卓上に投げ出したのは、粗悪に印刷された1,000エンの『偽札』だった。
「市場で、ガンスさんの紙を真似たこの偽札を使って、村人の野菜を騙し取ろうとする悪党まで出始めやがった。」
「ふん、浅はかな悪党どもめ。」
ソロンが偽札を指でつまみ上げ、冷ややかに吐き捨てた。
「ガンス殿の『薬草の香り』と『特殊な型押し』までは再現できず、ただの紙に墨で数字を書いた程度の代物だが……文字の読めぬ農民や、混雑に乗じた不法露店では騙される者も出ているようだな。」
治安の悪化、偽札の流通、食料不足による物価高騰。
アイリスは深々と息を吐き、地図と偽札を見つめた。
「……なるほどね。村がただの市場から『都市』に変わるための、第一の試練というわけね。」
アイリスの目が、スッと鋭い光を宿した。
その日の夜。
偽札の鑑別と帳簿の付け合わせで一人残業していたカイルのもとへ、王都からやってきた大口の豪商・ヴァルデスが忍び寄った。ヴァルデスは不敵な笑みを浮かべ、カイルの目の前に「本物の金貨がぎっしり詰まった革袋」を3つ、ズシリと置いた。
「夜遅くまで感心なことだ、両替所長殿。」
「……ヴァルデス様。何の用ですか? 夜間の窓口業務は終了しておりますが?」
「くっくっ、商談だよ。こんな辺境の村で、貧乏くさい紙切れを計算して一生を終える気か? カイル君、君の計算能力と金融のセンスは本物だ。こんな村にはもったいない。」
ヴァルデスは顔を近づけ、甘い声で囁いた。
「金庫の鍵を持っているのは君だ。村の金庫から金貨と銀貨を少しばかり『横領』して、偽札の混乱に乗じてドロンしようじゃないか。俺のルートで王都へ逃げれば、一生遊んで暮らせる財産と、王都の大銀行での役職を用意してやるぞ? ……なに、たかが落ちぶれた元公爵令嬢を裏切るだけの簡単な仕事だ。」
金貨の眩しい輝き。王都での栄達の誘惑。だが、カイルの瞳には、一切の揺らぎもなかった。カイルは静かに立ち上がると、金貨袋をヴァルデスの方へと押し戻した。
「お引き取りください、ヴァルデス様。」
「な……!? バカな、これだけの金だぞ!? あの女にいくら貰っている!? たかが村の『紙切れの数字』じゃないか!」
ヴァルデスが声を荒らげた瞬間、カイルの目が冷徹な光を放った。ソロンから叩き込まれ、アイリスから託された「お金を任された信頼」の目だった。
「『ただの数字』ではありません!」
カイルは自分の胸に手を当て、力強く言い放った。
「この数字は、ガンスさんたちが身を削って刷り上げた汗の結晶であり、ナギたちが命がけで守った平和の証であり、……そして何より、身寄りもなかった僕を信じ、この金庫と未来を託してくださったアイリス様の『信用』そのものです。」
カイルはヴァルデスを鋭く睨みつけた。
「アイリス様が僕を信じて託してくれたこの数字を、たとえ1単位たりとも、あなたのような汚い金で汚させはしない!!」
「っ……! くそっ、分からず屋のガキが!!」
ヴァルデスが忌々しそうに吐き捨てて立ち去ると同時に、陰からソロンとゼノが姿を現した。
「フン、見事な拒絶だったぞ、カイル。」ソロンが満足そうに頷き、「……カイル、お前、いい男になったな。」ゼノも不敵に笑い、カイルの肩をポンと叩いた。
翌朝、カイルから報告を受けたアイリスは、カイルの手を強く握りしめた。
「ありがとう、カイル。あなたが私の金庫番で、本当に良かったわ!」
「アイリス様……! はい! 僕はこの村の信用を、死んでも守り抜きます!」
二人の強い絆を確認し合ったアイリスは、全役に向け宣言した。
「さあ……私たちの信用を脅かす悪党どもに、ナラク村の本当の恐ろしさを教えてあげましょう!」
アイリスの指揮のもと、村の制度を「次の段階」へと進化させる改革が始まった。
「まず、治安と偽札対策よ!」
アイリスはナギとカイルに向き直った。
「ナギ。『自由市場=出店無料』の原則は変えないわ。でも今日から【出店許可証制】を導入するの。市場で商売をしたい者には、カイルの両替所で身元を登録させ、マナー遵守の誓約書を書かせる。引き換えに番号入りの『出店木札』を渡し、それがない露店は即座につまみ出しなさい。」
「了解しました、アイリス様! 出店時にゴミ処理費用として『10エンの環境清掃費』も集めれば、不法投棄もなくなって自警団の巡回手当も増やせますね!」
「ええ。そしてカイル、ガンスさんたちの印刷負担を減らし、偽札の被害を防ぐために、大口商人には『現金の紙幣』を使わせるのをやめさせるわ。」
「現金を使わせない……ですか?」
「そう。両替所に商人ごとの『預金口座』を作るの。金貨を持ち込んだ商人には、紙幣を渡す代わりに帳簿に金額を記録する。大きな買い付けの時は、両替所が発行する『小切手(約束手形)』一枚で決済させるのよ。」
カイルの目がカッと見開かれた。
「――っ!! それなら、大量の紙幣を毎回印刷する必要がなくなります! 大金を持ち歩かないから盗難も防げますし、偽札を市場に混ぜる隙もなくなります! 完璧です、アイリス様!」
ソロンも感心したように頷いた。
「ふむ……現金の代わりに『口座の信用』を紙一枚で動かすか。これで偽札をバラ撒こうとしたヴァルデスのような悪党どもも完全にお手上げですね。さすがアイリス様です。」
「そして最後に……村の食料が足りず物価が上がっている問題ね。」
アイリスは地図を広げ、ナラク村を取り囲む「近隣の貧しい3つの村」を指さした。
「ナラク村だけでサツマイモを育て、酒を造り、市場の食料を賄うのはもう限界よ。これからは、周りの村を私たちの『生産基地』として巻き込むの。」
「周りの村を、生産基地に……?」ナギが首を傾げる。
「ええ。さつま芋や石鹸のような高価な特産物はできないけど、近隣の村に『野菜生産』や『麻の加工』を委託するのよ。種や農具は我が村から貸し出し、出来上がった収穫物はナラク村が責任を持って『エン』で買い取る。貧しかった隣村は潤い、ナラク村には大量の食料と原材料が集まるわ。」
「なるほど……!」
カイルが膝を打った。
「うちの村は『ブランド管理・加工・金融』に特化し、周辺の村に『生産』を担ってもらう……! 食料の供給量が増えれば、村の中での物価も落ち着きます!」
アイリスはニタリと微笑んだ。
「その通りよ。ナラク村だけで豊かになるんじゃない。この地域全体を『ナラク経済圏』として飲み込んでしまうのよ。」
アイリスの指示のもと、ナラク村が一斉に動き出した。
ガンスとセカンズは、新紙幣に「より繊細な透かし」と「偽造防止の特殊印章」を追加し、旧紙幣を両替所で順次回収。大工のゲルマンとアイトは、出店エリアの区画分けと、周辺の村へ繋がる物流道路の整備を急速に進めた。
数日後。
市場には「出店木札」を胸につけた整然とした露店が並び、ハンス率いる自警団が不法占拠を取り締まる、美しく安全な空間が戻ってきた。
買収工作に失敗した豪商ヴァルデスは、小切手システムと徹底されたライセンス制によって不正の余地を完全に塞がれ、逃げるように村を去っていった。大口の商人たちは「一瞬で巨大な取引が終わる小切手」の便利さに歓喜し、周辺の村からは「ナラク村の契約農家になれば飢えずに済む!」と続々と作物が運び込まれ始める。
卑劣な誘惑を退けたカイルの強固な「信用」と、アイリスの先進的な制度によって試練を乗り越えたナラク村。小さな極貧の村は、周辺地域を束ねる「一大商業都市」へと、完全な脱皮を果たしたのだった。
冬の冷気がしんしんと降り積もるナラク村の夜。
村の境界線を見渡す雪の上に、均整の取れた足音が響いていた。身にまとっているのは、冬用の深い藍色のキルティングコート――アイリスが名付けた「ニュアージュドゥ」の技術をベースに、ゼノが監修し、村の女性たち仕立て上げた自警団の制服だ。軽くて暖かく、何より動く者の動きを阻まない。
「……冷えるな。だが、この制服のおかげで体の芯まで凍えることはないな。」
団長であるナギは、腰に下げた棍棒の感触を確かめながら、静かに息を白く染めた。その首元には、緊急時に村中へ音を伝えるための「真鍮の警笛」が光っている。
かつては飢えに怯え、力に屈するしかなかった少年たちは今や、誇り高き「自警団」のメンバーとして、この村の平和をその双肩に担っていた。そして、後ろには、頼もしい仲間たちが続く。大柄で怪力だが実直なデフィ、俊敏な身なりで索敵が得意なテザオ、冷静沈着なプロク、そして最年少ながら抜群の度胸を持つスフォル。
「ナギ団長、南西の貯蔵庫裏、さつま芋の栽培エリアのフェンスに微かな物音です。」
テザオが小声で告げた。ナギの瞳が鋭く光る。
「……きたか。最近、うちの村の特産品を狙うハイエナどもが増えているってソロンさんの予測通りだな。」
「さつま芋は冬の時期にとれるわけねぇだろ。」
「まぁ、村外の人間が知るはずないよね。でも、新しく植える苗や収穫済みの芋もあるから、年中通して気が抜けないよ。」
テザオとスフォルが準備運動をしながら軽口を叩く。
ナラク村が「さつま芋」や「ドゥ・シリーズ」のブランドで広く知られるようになるにつれ、その富を掠め取ろうとする外部のゴロツキや窃盗団の影が忍び寄るようになっていた。そして、今夜が、彼らにとって初めての「実戦」だった。
「おい、もっと静かに歩け! あの芋を根こそぎ担ぎ出せば、今夜だけで大金持ちだぜ。」
雪を踏む音を殺しながら、五人組の窃盗団がフェンスを乗り越えて侵入してきた。彼らは錆びた短剣や手頃な鉄棒を手に持ち、下卑た笑みを浮かべている。しかし、その足元がパキリと音を立てた瞬間、闇の中から冷徹な声が降ってきた。
「――そこまでだ!」
「なっ!?」
振り返った窃盗団の視界に飛び込んできたのは、夜闇に溶け込む深い藍色の影だった。先頭に立つナギは、微塵も怯えを見せず、スッと右手を首元の警笛にかけた。
ピーーーーッ!!
澄んだ警笛の音が、静まり返った夜空を切り裂くように響き渡る。それは村の奥へ危機を知らせると同時に、仲間たちへ攻撃の合図でもあった。
「殺せ! 邪魔するガキどもを叩き潰せ!」
逆上した窃盗団が武器を振り上げて突っ込んでくる。かつてのナギであれば恐怖で足がすくんでいただろう。しかし、ゼノから叩き込まれた「集団戦術」と、しごかれた身体能力が、彼の体を反射的に動かした。
「デフィ、右を塞げ! スフォル、足元を狙うな、体勢を崩せ!」
ナギの号令に合わせ、自警団が完璧な連携で動く。
突進してきたリーダー格の男に対し、デフィが頑丈な盾のように立ちはだかった。男の鉄棒が叩きつけられるが、デフィは一歩も引かず、その衝撃を巧みにいなす。
「うおおっ!」
すかさず、横から飛び出したプロクとテザオが、手に持った堅木の棍棒で男の関節を的確に叩いた。骨が砕けるような鈍い音と共に、男の武器が雪の上に転がり落ちる。それは「乱闘」ではなく、規律ある「公務」としての制圧だった。
「ひ、ひぃっ……なんだお前ら、ただの村のガキじゃねえのか……!」
仲間たちが次々と無力化され、地面に押さえつけられていくのを見て、最後の一人が恐怖に顔を歪めた。その背後から、スッと影が忍び寄る。最年少のスフォルが身を翻し、慣れた手つきで腰から麻製の「捕縛用の縄」を引き抜いた。
「動くな。……俺たちはこの村のルールを守る者だ。」
スフォルの鮮やかな手際で、男の両手が背中に縛り上げられ、雪の上に転がされた。
わずか数分。一人の負傷者も出さず、窃盗団全員が無力化されていた。
「……ふん。上出来だな。」
少し離れた建物の陰、月明かりの届かない軒下から、腕を組んでその様子を見ていた男が小さく鼻を鳴らした。ゼノだった。彼は防衛部門の最高責任者として万が一の事態に備えて控えていたが、結局、自分が表に出る幕は一切なかった。
「……お嬢の人選に間違いはなかったか…。」
ゼノは満足そうに口の端を歪めると、音もなく闇の中に姿を消した。
戦闘が終わった静けさの中、ナギは深く息を吐き出し、制服の乱れを整えた。冷たい夜風が頬を撫でるが、心の底からは熱い誇りが込み上げていた。
「全員、怪我はないか?」
「へへっ、余裕っすよ、団長!」
「縄の結びも、訓練通り完璧です。」
仲間たちの明るい声を聞きながら、ナギは夜空に浮かぶ月に視線を向けた。
かつては泥水をすすり、明日生きられるかすら分からなかったこのナラク村。しかし今、自分たちの手で守り抜いたこの夜の静けさは、何よりも尊く、美しかった。
「よし、身柄を拘束して治安維持局の留置所へ連行するぞ。……明日の朝、アイリス様に最高の報告をしよう。」
深い藍色の制服に身を包んだ若者たちが、誇らしげな足取りで村の巡回を再開していく。
ナラク村の夜は、今日も安全で、そして暖かかった。




