第8話 声が、混じる
この回から、三つの家の壁が、溶けはじめます。
終のいる座敷に、ないはずの時計の音。科学の洋館に、ないはずの線香の匂い。蓮の窓に、ないはずの洋館の影。――あなたも、気をつけてください。今あなたがいる部屋に、聞こえるはずのない音が、混じっていないか。
そして、濡れた小さな足跡が、ぺた、ぺた、と、こちらへ、歩いてきます。
振り子の音は、止まなかった。
終は、時計のない座敷で、たしかにその音を聞いていた。かちこち、かちこち。遠くの知らない家の、古時計の音。そしてそれに混じって――
「……あんたが、五十七年、耐えた人か」
男の声がした。若い、けれど妙に落ち着いた声。終のいる家に、誰かいるはずがない。「誰だ!?」。思わず叫ぶ。返事はない。代わりに、今度は女の声。「わたし、いま、なにしに来たんだっけ」。困惑しきった呟き。
終の背筋が、ぞわりと粟立った。声は、壁の向こうからでも、天井からでもない。自分の頭の、すぐ隣で喋っているみたいだった。
そしてそれは声だけでは済まなかった。畳が、湿っている。さっきまで乾いてささくれていた座敷の畳が。爪先の下で、じわり、と水を含んでいく。廊下の奥から、水が薄く忍び込んできていた。黒く光る水の膜。この山の上の涸れた古民家に、水などあるはずがないのに。
その濡れた畳の上に。足跡が、ついた。小さな素足の足跡。二歳か三歳の、子どもの。ぺた、ぺた、と。誰の姿もないのに。濡れた足跡だけが、一歩、また一歩と、終のほうへ近づいてくる。座敷の入口から、まっすぐに。
「……おい、待て。来るな。来るなって」
カメラを構えた手が、汗で滑る。逃げようと後ずさる。だが背中が、あの開かなくなった戸にぶつかった。足跡は止まらない。終のすぐ目の前まで来て――そこで、ふっと消えた。代わりに、耳のすぐ内側で、子どもの声が囁いた。あの水底で聞いたはずの、老いた子どもの声で。
『まだ、帰らないで』
終の心臓が跳ねた。この声を、おれは知らない。知らないはずだ。なのに、なぜこんなにも胸が締めつけられる。感情を映すこの家が、いま、別の家の悲しみまで、まとめて終の胸へ注ぎ込んでくる。母の後悔も。娘を待つ親の孤独も。記憶を削られる恐怖も。ぜんぶ、いっぺんに。多すぎる。受け止めきれない。誰かのたくさんの悲しみで、肺がいっぱいになって、息ができない。
「なんで……なんで、おれに、ぜんぶ、寄こすんだよ……!」
畳に膝をつく。涙が勝手にこぼれた。誰の悲しみなのかもわからないまま。ただ痛い。胸が、ちぎれそうに痛い。
――そのとき、終は、ぞっとすることに気づいた。この「受け止めきれない」感覚に、おれの体は、妙に、慣れている。初めてのはずなのに。まるで、ずっと昔から、こうやって誰かの悲しみを肩代わりするのが、おれの役目だった、みたいに。その“慣れ”が、なによりこわかった。
◇
神奈備の洋館で、科学もまた、異変に気づいていた。集音マイクが、拾うはずのない音を録っている。線香のはぜる音。子どものすすり泣き。水の跳ねる音。
「……マイクの故障、じゃないな」科学は、ノートパソコンの波形を睨んだ。三種類の環境音が、彼のいる洋館の音に、少しずつ重なってきている。三つの部屋を隔てる壁が、だんだん薄くなっていくみたいに。「空間が、干渉してる。三つの物件が……同じ座標に、近づいてる?」
その時、隣で舞が、ぽつりと言った。奇妙に平坦な声で。「かがくん。……冬を、五十七回。娘の、一日が、わたしの、一年で、いい」
科学の指が止まった。それは舞の言葉じゃない。舞が知るはずのない言葉だ。振り返ると、舞はまた、あのなにも映さない目で宙を見ていた。誰か別の人間の最期の祈りを、自分の口でなぞらされている。マイクの波形が、同じ声を拾って記録する。舞の喉が、他人の遺言を勝手に喋っている。
「舞! 戻ってこい、こっちだ!」
肩をつかむ。だが舞の足が、ふらり、と壁のほうへ動いた。あの爪の引っかき傷の並んだ壁へ。傷に引き寄せられるように。そこに帰る場所があるみたいに。
「どこ行く気だ。だめだ、そっちは――」
引き戻そうとした科学の手首を。つめたいものが、掴んだ。濡れた、小さな手だった。埃をかぶった鏡の、その表面から、ぬ、と伸びてきた子どもの手。水にふやけて、白く冷たい。データにも理屈にも載らないそれが、確かに科学の手首を握って、鏡の中へ引きずり込もうとしていた。
「――ふざけるな……!」
科学は叫んだ。片手でキーボードを離さない。もう片手で舞の腕を離さない。生まれて初めて、科学は、自分の“理屈”がまったく通じない相手と、素手で殴り合っていた。それでも震える指でキーを叩き続ける。
考えろ。三つの音は、同時じゃない。ほんのコンマ数秒、ずれて届いてる。線香がいちばん早い。次に振り子。最後に水音。なら、このずれの比率から、三つの発信源までの距離の差が出る。三本の円が交わる、たった一点。そこが、この地獄を動かしてる大元だ。
冷たい手が、手首を鏡へと引きずる。肩の関節が、みしり、と鳴った。視界が白く飛びかける。それでも科学は指を止めなかった。恐怖に呑まれるな。手を動かせ。祈るな。計れ――!
やがて画面の地図の上に三本の線が引かれ、一点で交わった。その座標に、ひとつのサーバーのアドレスが浮かび上がる。手首の冷たい手が、すっと消えた。
「ライジング・オカルト地所の……裏側」
◇
巨石の屋敷で、蓮は、水面に映った“それ”を見ていた。
二つでも三つでもない。無数の月。そしてその真ん中に、幼い少女が、ぽつんと座っていた。膝を抱えて。誰もいない場所で。水面が鏡になる。そこに映ったのは、月だけではなかった。蓮の見たことのない二つの部屋。線香の煙が満ちた古い座敷。埃をかぶった石造りの洋館。この湖のほとりには、あるはずのない二つの家が、水の中に並んで揺れている。
蓮の頭が、猛烈な速さで回りはじめた。ありえない。この三つは、地図の上じゃ遠く離れてる。……いや。“離れてるように見せられてた”だけなら? 同じ夜、同じ時刻に、三つの家で怪異が起きた。同じ子どもの声が、三つの家で聞こえた。偶然が三つ、きれいに重なる確率。そんなもの、計算するだけ無駄だ。ゼロに近い。なら、残る答えはひとつしかない。背筋を冷たいものが駆け上がる。推理が“当たってしまった”ときの、あの感触だった。
「……なあ結衣。おれ、たぶん、わかっちゃった」
「なにが?」
「この三つの家、別々の事件じゃない。ぜんぶ、あの子ひとりの――」
言いかけて、蓮は口をつぐんだ。少女が、こちらを見たからだ。その目が、あまりに哀しかったから。
少女が口を開く。悲鳴かと思って、蓮は身構えた。けれどそこからこぼれたのは、叫びではなかった。三つの声だった。「なんで、おれに寄こすんだよ」。「戻ってこい、舞」。「わたし、なにしに、来たんだっけ」。会ったこともない三人の声が、少女ひとりの口から、束になってあふれてくる。少女は、それを止められない。三つの悲しみが、この子の中で渦を巻いて、逆流している。
と、水面が、ぐん、と盛り上がった。無数の月が割れて、飛沫になる。水の中から、あの白い手が、いくつもいくつも伸びてきた。すがるように。引きずり込むように。その一本が、結衣の足首を掴んだ。
「――っ、蓮、くん!」
ずるり、と。結衣の体が、水のほうへ引かれる。子どものころ、目の前で、伸ばした手が届かなかった――結衣のいちばん古い傷を、この家は今、なぞろうとしていた。もう一度、目の前で誰かを失わせるために。
「結衣!」
考えるより早く、体が動いた。だらけた同級生の、どこにそんな力が、と思うような勢いで、蓮は結衣の腕を両手で掴んで引いた。眼鏡がずり落ちる。かまわず、渾身で引き戻す。二人して、庭石の上に転がった。結衣の足首には、赤い手の跡が、くっきりと残っていた。
「……大丈夫か」
「う、うん……蓮くんこそ、めっちゃ、必死だったけど」
「うるさい。……当たり前だろ」
思わず、こぼれた。それから蓮は、ずり落ちた眼鏡を指の先で押し上げる。震える指で。強がっても隠しきれないくらい、指先は冷えていた。
水面の少女は、もう手を伸ばしてはこなかった。ただじっと蓮を見ている。悲しくて、寂しくて、それでも誰かに気づいてほしくてたまらない――そういう目で。そして唇が、音もなく動いた。蓮には、読めた。『こないで』。助けに来たはずの蓮に、少女は、来るな、と言っていた。
三つの神域で、三人の指が、同じ夜、同じ“裏側”へと伸びていく。見てはいけないものが、もうすぐ暴かれる。
読んでくれて、ありがとうございます。
別々の家にいたはずの六人が、互いの声を聞き、互いの悲しみを浴びはじめました。科学は、三つの発信源が交わる、たった一点を割り出す。――その座標に、この地獄の、大元が、います。
そして水面に座る、膝を抱えた少女。三人ぶんの声を、ひとつの口から、こぼしていました。……彼女が、何者なのか。もう、薄々、気づきはじめていませんか。それでも、読むのを、やめられないでしょう。
次回、科学が、“裏側”のサーバーに手を伸ばします。見てはいけないものが、暴かれます。
では、次の神域で。




