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第三の神奈備には絶対行くなっ!  作者: 源三郎


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第7話 三つの真実

 三つの家で、それぞれの“真実”が、畳の下、ノートの奥、水の底から、顔を出します。


 三つとも、形は違う。けれど、根は、同じです。――誰かが、誰かのために、自分を差し出した。その、優しさの化け物みたいな記録です。


 そして最後に。離れていたはずの三つの家が、同時に、繋がります。

 畳を、剥がした。埃がふわりと舞う。その下から出てきたのは、小さな木箱だった。長いあいだ、そこに隠されていたのだろう。蓋の合わせ目が、黒く変色している。終は、震える手で蓋を開けた。


 中には、一冊の日記と、子ども用の、片方だけの赤い靴。


 靴は小さかった。二歳か三歳の子どものものだろう。片方だけ、というのが、なぜだか胸に刺さった。日記の最後のページを開く。震える、けれどはっきりとした女文字。


 『わたしが身代わりになれば、この子は助かる。神様。どうか、この子にはわたしのことを忘れさせてください。母親が火の中で死んだことを覚えていたら、この子は一生、自分を責めて生きていく。そんなの、あんまりです。だから忘れさせて。悲しませたくないのです。忘れて、なにも背負わずに、ただ幸せに生きてほしいのです』


 終の目の奥が、じん、と熱くなった。


 この家の怪異は、母親だった。火事から我が子を救い、自分は炎に還った母親の、最後の祈り。しかも彼女は、子どもに「自分を忘れてくれ」と願っている。恨むためでも、覚えていてほしいためでもない。ただ悲しませたくないから。愛が深すぎて、その存在ごと、消えてやろうとした人。


 「……忘れてくれ、なんて。そんなの、あんまりだろ。あんたが、いちばん覚えてほしいはずだろうが」


 声が掠れた。線香の煙が、ゆらり、と揺れた。静かに頷くみたいに。


 終は、日記をそっと閉じた。この母親は、たぶん成功したのだ。子どもは生き延び、母のことを忘れ、どこかで大人になった。願いは叶った。叶ったのに、母の想いだけが成仏できずに、この家に残り続けている。感謝されることも、思い出されることもないまま。忘れられることを、自分から望んだ人の、行き場のない愛だけが。


 ――なあ。あんたの子は、幸せになれたのかな。それとも、理由もわからないまま、ずっとなにかが欠けたような顔で、生きてるのかな。


 終は、自分の胸に手を当てた。ちょうどそこに、いつも空っぽの穴が、あいているような、その場所に。



    ◇



 同じ頃。神奈備の洋館で。


 科学は、引っかき傷の下に隠された、小さな観測ノートを見つけていた。零の字だ。見間違えようがない。几帳面な理系の筆跡。けれど後半になるほど、それは乱れて、崩れていく。気圧に脳を削られながら書いた記録だ。


 『気圧、また下がる。今日の記憶が、もう曖昧だ。朝、なにを食べたか、思い出せない。だが書く。書けば、残る。……舞と科学の顔だけは、忘れたくない。あの二人が心配していること、だけは。忘れたくない。忘れたくない――』


 最後の行は、同じ言葉の繰り返しで、ページの端まで埋め尽くされていた。


 舞が、ノートを覗き込んで、口元を押さえた。声を殺して、けれど肩が震えている。「零……ずっと、わたしたちのこと、忘れないように、書いて……」


 「泣くな、舞。まだだ」科学は、自分の声が揺れないように、腹に力を込めた。「泣くのは、あいつを連れ帰ってからだ。ノートが残ってるってことは、あいつがここにいた証拠だ。手がかりは増えた。前に進める」


 冷静を装いながら、本当は、科学のほうが泣きそうだった。ずっと、あいつを変人だと思っていた。まともに取り合わなかった。あの日、姿を消す前の、零の必死な顔を思い出す。「なあ、信じてくれよ」。あの手を、おれは握らなかった。


 科学の奥歯が、ぎり、と鳴った。零は、正気だった。最後の最後まで。「視える」と言い張ったあいつは、頭がおかしかったんじゃない。この檻の中で、たった一人、記憶を削られ続けて、それでも必死で大切なものにしがみついていたんだ。怪異でも、病でもなかった。ただ被害者だった。


 「……戻ってこい、零。今度は、おれが連れ戻す。祈りでも、お祓いでもない。データで、理屈で、おまえをこの檻から引きずり出してやる」



    ◇



 巨石の屋敷で。蓮は、水から伸びてきたその手を、振り払わなかった。


 怖い。怖いに決まっている。それでも蓮は、膝をついて、水面に顔を近づけた。逃げなかった自分に、少しだけ驚きながら。いつもの蓮なら、こんな危ないものからは、まっさきに距離を取る。けれどこの水底から伸びてきた手は、なぜだか放っておけなかった。五十七年。たった一人で。その途方もない孤独を思うと、胸の奥がざわついて、動けなくなる。自分にも覚えのある感覚だった。誰にもわかってもらえない、あの暗がりの感じ。


 「あんたが、手紙を書いた人か。五十七年、ここで耐えた人なのか」


 水面の中の、老いた子どもの顔が、こくり、と頷いた気がした。


 「五十七年も経ってるなら、娘さんはきっと大人になれた。あんたが守った時間で。……もういいんだ。もう、数えなくていい。冬を数えるの、やめていいんだよ」


 水面の月が、ふるり、と震えた。老いた子どもの目から、透明ななにかがこぼれて、湖に溶けていく。長いあいだ、誰にも告げられなかった、たった一言。「もう、いい」。それを、蓮が代わりに言ってやった。


 結衣が、蓮の背中を見ていた。他人に興味なんかない、とうそぶくくせに。この人は、いつもいちばん独りぼっちの相手を放っておけない。それを、結衣は知っている。


 言った、その瞬間だった。



 三つの家で、同時に、異変が起きた。


 終のいる座敷に、かちこち、と古時計の振り子の音が響いた。この古民家に、時計なんて一つもないはずなのに。

 科学の鼻を、つん、と線香の匂いがかすめた。石造りの洋館に、あるはずのない仏間の匂いが。

 蓮の視界の端。屋敷の暗い窓ガラスに、一瞬、蔦に覆われた西洋館の影が映り込んだ。この湖のほとりに、そんな建物はないのに。


 終は、思わずカメラをその音のほうへ向けた。なにも映らない。ただ振り子の音だけが、確かに鳴っている。「おい、嘘だろ。この家に、時計なんて」。声が上ずった。


 科学は、集音マイクの波形を見て絶句した。今この瞬間、洋館の空気に、まったく別の場所の音と匂いが混ざり込んでいる。データがそう告げている。ありえない。ありえないのに、機械は嘘をつかない。そして科学の頭は、その“ありえない”の先を、勝手に走りはじめた。三つの空間が、混ざる。混ざるってことは、近づいてる。近づく先が、あるってことだ。一点に。――もし完全に重なりきったら、おれたちは三つ別々の家にいるつもりで、その実、同じ檻に閉じ込められる。逃げ道が塞がる前に、答えを掴まなきゃ、まずい。


 蓮は、窓ガラスに映った蔦の館を、二度見た。まばたきのあいだに、それは消えた。けれど確かに見えた。この湖のほとりの屋敷とは、似ても似つかない、石造りの西洋館。


 三人はそれぞれの場所で、ほとんど同時に、同じ結論へ走り出していた。終は思う。この家に、おれを寄こした誰か。科学は思う。この怪異の向こうにいる、人の意思。蓮は思う。この盤面を、外から動かす、犯人。


 葦北で。神奈備で。巨石で。三つの疑いが、ほぼ同時に、同じ一点を指した。ばらばらだった三本の推理が、今、猛烈な速さで、一本に束ねられていく。


 (――今。別の、どこかと、繋がった?)


 離れているはずの三つの神域が。静かに、けれど確かに、その境界を溶かしはじめていた。三つの悲しみが、一つの川へと流れ込む、その前触れのように。


 そして三つの家の空気の、いちばん底から。ひとつの子守歌が、同時に、聞こえはじめた。歌っているのは、たった一人。なのに、三つの家に、同時に。――まるで、三つの家が、最初から、たった一人の中にあったみたいに。

 ここまで、ありがとうございます。


 葦北の母。神奈備の零。巨石の親。三人とも、「忘れてくれ」「帰ってくれ」と、自分を消して、相手を逃がそうとしました。――この物語の怪異は、ぜんぶ、“自己犠牲”という名前をしています。覚えておいてください。あなたの隣にも、きっと、それは、います。


 そして、三つの家の底から、同時に、ひとつの子守歌。歌っているのは、たった一人。なのに、三つの家に、同時に。……まるで、三つの家が、最初から、たった一人の中にあったみたいに。


 次回、声と、匂いと、時間が、混じりはじめます。三つの家を隔てる壁が、だんだん、溶けていく。


 では、次の神域で。

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