第6話 水底の手紙
巨石の、時間を喰う屋敷です。
この家の時計は、てんでばらばらの時刻を指し、いちばん大きな柱時計は、逆に、回っています。触れれば、あなたの記憶も、少しだけ、巻き戻る。
水の底に沈んだ、白と黒のタイル。あれは、模様ではありません。誰かが、五十七年かけて遺した、手紙です。
「なあ、結衣。この屋敷、時計が、全部、違う時刻を指してる」
豪邸の広間には、古時計がいくつも並んでいた。振り子時計、置き時計、柱時計。そのどれもが、てんでばらばらの時刻を、ばらばらの速さで刻んでいる。振り子の音が幾重にも重なって、部屋じゅうに乱れた拍子を響かせていた。ひとつは、せかせかと進み。ひとつは、けだるく遅れ。いちばん奥の大きな柱時計は――逆に、回っていた。
結衣が、その柱時計に、そっと手を伸ばした。ガラスの扉越しに、逆回りの振り子が揺れている。触れた指先が、じん、としびれた。針が逆に回るたびに、なぜだか、自分の記憶まで少しずつ巻き戻されていくような、めまいがした。
「触るな」蓮が鋭く言った。「なんか……その時計、まずい気がする」
結衣は、あわてて手を引っ込めた。指先のしびれは、しばらく消えなかった。
「気味わる……。ねえ蓮くん、わたしたちが、さっき門をくぐったの、何分前だと思う?」
「体感じゃ、もう一時間はいる。……なのに、スマホの時計は、まだ三分しか進んでない。電波は圏外。GPSも死んでる。外じゃなくて、中の時間だけが、伸びてるんだ」
結衣が、ひっ、と喉を鳴らした。蓮は冷静を装った。装ったけれど、内心では、背筋を這い上がる寒気と戦っている。あの狂った同意書の一文が、頭をよぎった。――主観時間の延長。あれは、脅しでも比喩でもなかったのか。
二人は、そもそも心霊調査になど来たわけではなかった。半年前、この屋敷に入ったきり消えた男。防犯カメラにも、出ていく姿が映っていない。事件性なし、と警察は片づけた。それが納得できなくて、結衣が蓮を引っぱり出したのだ。
広間を抜けて、二人はいったん庭へ戻った。外の空気を吸いたかった。けれど庭も、静かすぎた。湖の水面は、鏡みたいに動かない。虫の声もしない。ただ月だけが、二つ、水面に浮かんでいた。……二つ?
それでも蓮の関心は、池に戻っていた。水底の、白と黒のタイル。放っておけ、と理性は言う。でも放っておけないのが、この性分だった。
「あれ、模様じゃない。……符号だ」
眼鏡の奥の目が、すっと細くなる。ブリッジを指の腹で上へ押し上げた。こうなった蓮は、もう、まわりの声もろくに聞いていない。懐中電灯で照らしながら、タイルの並びを一列ずつ読み取る。白を〇。黒を一。二進法だ。八つでひと区切り。安楽椅子探偵の頭が、久しぶりに、心地よく回転する。
「結衣、メモ取れるか。これ、文字に変換できる。読める」
「う、うん。任せて。……蓮くんって、ほんと、こういうときだけ、生き生きするよね」
「悪いかよ」
「悪くない。むしろいい」結衣は、あっさり言った。「わたし、その顔を見るのが好きだから、ここまで引っぱってきたの」
蓮は、一瞬、手を止めた。返す言葉が見つからなくて、また、タイルに目を戻す。耳の先が、少し熱かった。
体感では、ゆうに一時間。けれど外では、まだほんの数分のはずだ。やがて水底の暗号は、たどたどしい、けれど確かな日本語の文章になった。それは、手紙だった。誰かが必死で残した、伝言。
『わたしは、ここで、五十七回、冬を数えた。娘が、外へ無事に逃げ延びるまで。この家が、わたしの時間を喰らうというのなら、いくらでも喰わせよう。娘の一日が、わたしの一年でいい。だからどうか、あの子の時間だけは』
蓮の指が止まった。声を出して読んでいた結衣も、途中で黙り込む。
「……五十七回?」
この家は、中にいる者の時間だけを引き延ばす。その比率を、手紙が自分で教えてくれていた。外の一日が、中では一年。だとすれば、外のほんの二月ばかりが、この屋敷の中では五十七年になる。手紙の主は、そのあいだ、たった一人きりで耐え抜いたのだ。誰にも看取られず。誰とも話せず。ただ外にいる娘の無事だけを祈って。
結衣が、メモ帳をぎゅっと握りしめた。「娘の一日が、わたしの一年でいい、か」。掠れた声で繰り返す。それから、蓮のほうを見ずに、ぽつりと言った。
「わたしね、こういうの、弱いんだ。守れなかった、って話が。兄が、いたの。小さいころ。わたしの目の前で、いなくなった。手を伸ばしたのに、届かなくて。子どもだったから、なんにもできなくて」。ほんの一瞬、暗い影が差す。「だから、いなくなった人がいると、放っておけないんだ。せめて、今度こそは、って。ばかみたいでしょ」
言い終えると、結衣は、ぱっといつもの笑顔に戻った。けれどそれが無理に作った笑顔だと、蓮にはわかった。
蓮は、それ以上聞かなかった。聞けなかった。ただ思う。この同級生が、やたらと誰かを放っておけないのは。人を独りにするのをこわがるのは。たぶん、そういうことなんだろう、と。
そしてふと、嫌な符合に気づいた。この手紙も、この屋敷も、まるで結衣のいちばん痛いところを狙って見せてきたみたいだ。「守れなかった」という言葉を。……いや、結衣だけじゃない。親のいないおれにも、その言葉は、いつだって胸の同じ場所を刺す。
偶然じゃない。できすぎてる。この屋敷は、おれたちの傷を正確に知ってる。手紙も。時計も。水の中の手も。ぜんぶ、おれと結衣に見せるために、あつらえた舞台だ。誰かが脚本を書いてる。なら、その“誰か”は、おれたちが来る前から、おれたちの痛みを、調べ上げてたことになる。
点が、線になる。かちり。かちり。頭の中で、駒が勝手に並んでいく。止め方を知らない。安楽椅子探偵の、悪い癖だ。この家は、時間を燃料にする。中に閉じ込めた人間の主観の時間を、何十倍にも引き延ばして、喰らって、動いている。だとしたら――半年前に消えた、あの男は。外の時間では半年でも、この屋敷の中では。
「……何十年、経ってる、かもしれない」
思わず、口からこぼれた。結衣が、ぎょっとして蓮を見る。「え。それって、つまり」
「まだ、生きてるかもしれない。……いや、生きてたとしても、外に出たら」
浦島太郎の、逆だ。中で何十年も耐えた人間が、外に出たとき、なにが待っているのか。蓮は、その先を考えるのをやめた。今はまだ、確かめる段階だ。
その、時だった。池の水面が、ぐにゃり、と歪んだ。風もないのに。映っていた二つの月が、三つ、四つと増えていく。数え切れないほど増えて、水面いっぱいに白く散らばる。そしていちばん深いところから、水の中から、細い白い手が、一本、すう、と伸びてきた。
「まだ、帰らないで」
子どもの声だった。なのに、ひどく年老いて聞こえた。何十年もの孤独をくぐり抜けた声。蓮の足が、その場に縫い留められる。逃げ出したいのに、動けない。結衣が、彼の腕をぎゅっとつかんだ。その手の冷たさだけが、今、確かな現実だった。
「蓮くん……あれ、なに」
「わからない。でもたぶん、この家に閉じ込められた誰かだ。あの手紙を書いた人か。それとも」
蓮は、唾を飲み込んだ。逃げるべきだ、と頭ではわかっている。けれど水の中から伸びてきたその手は、襲ってくる気配がなかった。むしろすがるように震えている。助けを求めるように。誰かに気づいてほしくて、何十年も水底で待っていた者の手だった。
「……帰らないよ」
気づけば、蓮はそう答えていた。「あんたの話、まだ聞いてない。だから消えるなよ」
水面の無数の月が、ゆっくりと瞬いた。ずっとその言葉を、待っていたみたいに。
そのとき、蓮は、気づかなかった。水底から伸びた手が、別れぎわ、水面に、ひらがなを一つだけ、指で書いたことに。あとで思い返しても、それが「く」だったのか、「こ」だったのか、わからない。ただ何度も、同じ一画を、なぞっていた。『こ・な・い・で』の、最初の一字を。何十年、水の中で、書き続けてきた、みたいに。
読んでくれて、ありがとうございます。
外の一日が、この家の中では、一年。五十七年、たった一人で冬を数えた親が、娘の無事だけを祈って、水底に書き続けた手紙。――“浦島太郎の、逆”。中で長い時を耐えた人間が、外に出たとき、なにが待っているのか。その答えは、もう少し、先で。
水面から伸びてきた、白い手。別れぎわ、水に、ひらがなを一字だけ、書きました。『こ』。……どこかで聞いた言葉の、最初の一画です。
次回、三つの家が、同時に、軋みはじめます。離れているはずの神域の壁が、だんだん、薄くなっていく。
では、次の神域で。




