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第三の神奈備には絶対行くなっ!  作者: 源三郎


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第5話 記憶の檻

 神奈備の、記憶を喰う洋館です。


 この家が最初に奪うのは、どうでもいい記憶ではありません。あなたが、いちばん、失いたくないもの。――大切な人の、名前から。


 読みながら、ときどき確かめてください。あなたは、今、なにを読んでいたか。ちゃんと、覚えて、いますか。

 洋館の玄関ホールは、外から見るよりずっと広かった。吹き抜けの天井は闇に沈み、どこまで続くのか見えない。埃をかぶったシャンデリアが、月明かりを鈍く弾いている。床の大理石は割れ、めくれ、すき間から雑草が伸びていた。長いあいだ、時間だけが、ここに降り積もってきたのだ。


 科学は、機材を抱えて、一歩ずつ奥へ進んでいた。舞は、その少し後ろをついてくる。はずだった。


 振り返ると、舞は玄関から三歩も進んでいなかった。棒立ちのまま、宙の一点を見つめている。


 「舞? どうした」


 返事がない。近づいて、顔を覗き込む。その瞳が、いつもの舞のものではなかった。なにも映していない。たった今この世に生まれ落ちて、自分がどこにいるのかもわからない赤ん坊のような、まっさらな無。科学の全身が、ぞっと粟立った。


 「舞。おれの目を、見ろ」


 両手で、幼馴染の肩をつかんだ。細い肩が、びくりと跳ねる。「お前の名前は、神楽坂舞。心理学専攻。オカ研の、おれの相棒だ。幼稚園の砂場で、泣いてたおれに、いちばん最初に話しかけてきた、やつだ。『なんで泣いてるの』って。うっとうしいくらい、しつこく」


 舞の唇が、かすかに動いた。「……かがく、ん?」


 「そうだ。思い出せ。データは、嘘をつかない。おれが、いま、ここにいる。お前の隣に。それは、証明済みの事実だ。ほかのなにを疑ってもいい。でもそれだけは、疑うな」


 舞の目に、ゆっくりと光が戻る。潮が満ちるみたいに。やがて彼女は、大きく息を吸って、ふるり、と身を震わせた。


 「……こわい。かがくん、いま、わたし……自分の名前まで、ほんとに出てこなくなってた」


 舞は、両手で顔を覆った。そして指の隙間から、ぞっとしたように呟いた。


 「ねえ、かがくん。気づいた? いま、いちばん最初に消えかけたの……自分の名前と、ここへ来た理由だった。朝ごはんの味とか、どうでもいいことじゃない。いちばん根っこのところから、順番に、抜かれていったの。……この家、どうでもいい記憶じゃなくて、その人のいちばん大事なものを、狙って削ってくる」


 科学は、まだその言葉の重さには気づいていなかった。ただ幼馴染の勘の鋭さに、いつものように頷いた。「わかってる」。詰めていた息を、ようやく吐く。手のひらに、じっとり汗をかいていた。


 記憶が削られた。たった数分で。舞ほど聡明な人間の、根っこの部分が。ぞっとしながら、けれど科学の頭では、もう別のスイッチが入っていた。怪異では、説明しない。祈るより、計る。すがるより、疑う。それが、如月科学の、たった一つの戦い方だった。


 気圧計の値が、奥へ進むほど落ちていく。しかも一定じゃない。ゆっくり上下を繰り返す。この家が、呼吸しているみたいに。集音マイクが、人の耳には届かない音を拾っていた。十七ヘルツ前後――理由もなく人が不安を覚え、視界の隅にありもしない影を見る、あの帯域だ。


 科学は、鼻の頭を指の背でひと擦りした。ばらばらだった数字が、頭の中で、ひとつの形へ集まっていく。


 「……わかったぞ。呪いなんかじゃない。この家は、気圧と超低周波で、人間の脳を揺さぶって、記憶が固まるのを、物理的に邪魔してるんだ。つまり――精巧に設計された、檻だよ。記憶の、檻だ」


 言い切って、けれど科学の胸は、少しも晴れなかった。正体がわかった。それはいい。でもわかったところで、この寒々しい感じは、どこにも行ってくれない。むしろ深まる。誰が、なんのために、こんな手の込んだ地獄を作ったのか。その問いだけが、ぬるりと残る。


 二人は、身を寄せ合うようにして廊下を進んだ。壁の燭台。破れた肖像画。どの部屋も、途中まで暮らしていた人が、ある日突然消えたみたいに、家具だけが残されている。テーブルには埃をかぶった食器。椅子は引かれたまま。


 「ねえ、かがくん」舞が、小さな声で言った。「わたし、さっき、ここへ来る理由を忘れかけた。……でも、思うんだ。零も、きっとこうやって、少しずつ、大事なことから、順番に、忘れさせられたんじゃないかって」


 科学は、答えなかった。答えられなかった、と言うほうが近い。その可能性は、彼もとっくに考えていた。考えて、寒気がしていた。


 突き当たりの部屋に入ったとき、科学は、ふと隣を見た。舞が、壁の一点を、じっと見つめている。視線をたどると、誰かが爪で刻んだような、細い引っかき傷があった。何本も、何本も。縦に、正の字を崩したみたいに。囚人が、独房の壁で日数を数えた跡のように。


 「……かがくん。この傷、つけ方が、零のクセと、そっくり」


 科学の動きが、止まった。


 零。零。二人の、もう一人の幼馴染。「視える」と言い張り、誰にも信じてもらえず、少しずつ周りから浮いて、壊れて、そしてある日、ふっと姿を消した男。舞が心理学の道へ進んだのも、科学が幽霊という言葉を憎むようになったのも――もとをたどれば、全部あいつがきっかけだった。


 ただと科学は思う。舞のは、「救えなかった」だ。おれのは、違う。もっとたちが悪い。救えなかったんじゃない。おれは、あいつをいちばん笑った側の人間だ。「視える? 証拠を出せ。データはどこだ」。そう言って、追い詰めた。だからおれは幽霊を憎む。憎み続ける。あの日、零を独りにした、あの理屈を、二度と間違えないために。怪異を一つ論破するたびに、おれはたぶん、あの日の自分を殴っている。


 「まさか。あいつが、ここに、いたのか?」


 舞は答えなかった。ただその引っかき傷に、そっと指を重ねる。まるで、そこにまだ零の体温が残っているか、確かめるみたいに。


 「気圧、また下がってきた」科学が低く言う。「舞。おれの名前を、言い続けろ。声に出して。記憶が削られるスピードより、速く、上書きし続けるんだ。零にできなかったことを、今度はおれたちでやる」


 舞は、こくり、と頷いた。「如月、科学。如月、科学……」


 名前を唱えながら、舞は、心理学を学ぶ者の頭で考えていた。この仕掛けは、ただ記憶を消すだけじゃない。人がいちばん最後まで手放したくないもの――大切な人の顔や名前を、狙って削りにきている。そう設計されている。悪意、というより、もっと緻密で冷たい意図。人間の心の、どこを押せばいちばんこわれるかを、知り尽くした誰かの手つき。


 「かがくん。この家……人をこわすために、作られてる。うっかり、じゃない。設計されてる」


 「わからん。でも必ず“作った側”が、いる。自然現象は、こんなに目的を持って、人を狙ったりしない」


 「それにね」舞は声を落とした。「削られるの、いつもいちばん大事なものから、なの。さっき消えかけたの、零の顔と、かがくんの名前だった。まるで、わたしがなにをいちばん失いたくないか、最初から知ってるみたいに」


 科学の背筋を、ぞくりとなにかが駆け上がった。その通りだった。ランダムに飛ぶなら、朝食の味も電車の乗り換えも平等に消えるはずだ。なのにこの家は、いちばん柔らかいところから、正確に削りにくる。偶然とは、思えない。


 まるで、来る人間ごとに狙いを変えている。……いや。違う。この家は、選んでいる。来る人間を。狙いに合うやつだけを、選んで、招いている。会議室の、あの女の笑顔。それが、ぞわりと繋がった。――こいつら、なにか仕組んでる。ただの怪異じゃない。


 そこまで思考が一気に走った。だがそれ以上は追えなかった。舞が、またふらつく。今は、こいつを守るのが先だ。科学は、その違和感を奥歯で噛み殺した。あとで必ず暴く。今は逃げ延びる。それが先だ。


 怪異の向こう側に、人の意思がある。それが、彼をいちばんぞっとさせた。幽霊より、人間のほうが、ずっとこわい。昔から、そう思っている。


 その声を聞きながら、科学は思う。零。おまえは、この真っ暗な檻の中で、たった一人で、誰の名前を呼び続けていたんだ。おれたちの名前を、呼んではいなかったか。助けを、待ってはいなかったか。


 壁の引っかき傷は。まだ新しかった。乾ききって、いなかった。

 ついてきてくれて、ありがとうございます。


 気圧と、超低周波。科学はこの地獄を、そう“説明”しました。説明は、できた。それでも、寒気は、消えません。なぜなら――これは自然現象ではなく、誰かが、人を壊すために“設計”したものだから。


 壁の引っかき傷。零の癖と、そっくりでした。そして、その傷は、まだ乾いていなかった。……つまり、彼は、そう遠くない昔まで、ここに、いた。


 次回、巨石の屋敷。蓮が、水底のタイルに刻まれた、五十七年ぶんの手紙を、読み解きます。


 では、次の神域で。

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