第4話 泣き声は歩く
この回は、終ひとりの、葦北の夜です。
泣き声は、逃げます。追えば、逃げる。家の奥へ、奥へと。あなたも、終の肩越しに、その声を追ってください。
――ただ、ひとつだけ。無人のはずの家で、なぜ、線香だけが、焚きたてなのか。それを、忘れないでください。
泣き声は、逃げる。
終が一歩、踏み込むと、すすり泣きは、すっと奥の部屋へ移る。追う。また移る。廊下の右へ。左へ。家の中を、小さな素足が、歩き回っているみたいに。
「待てって。……なあ、どこにいるんだよ。出てこいよ」
馬鹿げていると思いながら、終は声をかけていた。いつもの配信なら、半分はやらせだ。棒で壁を叩いて「ラップ音です!」と大げさに騒ぐ。あれで飯を食ってきた。けれど今夜のこれは、違う。頭の芯が冷えている。背中の産毛が、正直に逆立っていた。
廊下の突き当り。開いた襖の向こう。六畳ほどの座敷だった。
仏壇が、あった。古い黒塗りの仏壇。ほとんどの家具が朽ちて傾いているこの家で、そこだけが、手入れされたように艶を保っている。そしてその前に、線香が一本。今しがた誰かが供えたように、細い煙を、まっすぐ天井へ立ち上らせていた。
――おかしい。
終の中の、記者だった頃の頭が、かちりと動いた。感情より先に、事実を並べる癖。この集落は、とうに無人だった。ここまでの一時間、灯りの点いた家も、人の気配も、一つもなかった。なのに、この仏壇だけ、埃ひとつ被っていない。線香は、焚きたてだ。
つまり――誰かが、今も、この家へ通っている。朽ちかけた家の、この仏壇にだけ、手を合わせに。仕込みでも演出でもない。これは、現に続いている、誰かの弔いだ。問題は、その「誰か」が、どこにも見当たらないことだった。
弔われているのは、誰だ。弔っているのは、誰だ。二つの空白が、部屋の真ん中で、静かにこちらを見ている。
泣き声は、もう聞こえない。代わりに、部屋の空気が、しんと重かった。悲しみ、としか言いようのない密度で。肩の上に、見えない手が、そっと置かれているような。
終は、仏壇の脇の、古い写真立てに気づいた。色あせた白黒写真。若い女と、腕に抱かれた赤ん坊。母子だろう。女は笑っている。けれどその目の奥が、泣いているように見えた。写真立てを、そっと裏返す。鉛筆で、掠れた字。
――「この子の代わりに、わたしが」
その一文を読んだ瞬間だった。
見たこともない光景が、終の頭の中へ、どっとなだれ込んできた。燃える家。渦巻く黒煙。熱。怒鳴り声。誰かが、幼い子を抱きかかえ、窓の外の暗がりへ、力いっぱい突き飛ばしている。そしてその誰かは、逃げなかった。炎のいちばん濃いところへ、迷わず引き返していく。もう一人を助けるために。自分が、身代わりになるために。
「……っ、なんだ、これ、は」
膝から力が抜けた。畳に手をつく。息が、うまく吸えない。他人の最期の記憶が、まるで自分のものみたいに、胸を内側から締めつけてくる。この家は――感情を映す。ここで死んだ誰かの最期の想いを、そっくりそのまま、訪れた者の心に流し込んでくる。そういう家だ。
――待てよ。
息を整えながら、終の頭の隅で、ひとつ引っかかった。この家に、悲しい記憶はいくらでも眠っているはずだ。なのに、なぜ、よりによって「手を離してしまった子」の話なんだ。おれが二十年、抱え続けてきた、まさにその傷を、狙い澄ましたみたいに。偶然にしては、できすぎている。まるで、この家が――いや、この家におれを寄こした誰かが――おれのいちばん柔らかいところを、最初から知っていたみたいに。
あの会議室の、女の冷たい指を、思い出す。「縁もゆかりもない仏さんにまで、線香をあげてしまうくらい」。あの女は、おれの癖を知っていた。なら、この家が、おれの傷を正確に抉ってくるのも。偶然じゃ、ない。選んで、ここへ、寄こされた。餌みたいに、ちょうどいい傷を、持っていたから。
考えすぎだ。終は、そう自分に言い聞かせた。けれどその引っかかりは、喉に刺さった小骨みたいに、消えてくれなかった。
しばらく動けなかった。心臓が、耳の奥で鳴っている。今のは、なんだ。幻覚か。ガス中毒か。理系のあいつなら、そう説明するのかもしれない。古い家屋の一酸化炭素。低酸素による幻視。……けれど、終にはわかっていた。あれは幻なんかじゃない。匂いも、熱も、あまりに生々しかった。突き飛ばされた子の頬に走った、煤の熱さまで、確かに感じた。
他人の記憶を押しつけられて、これほど胸が痛むのは。たぶん、自分の中にも、同じ形の傷があるからだ。
荒い息を吐きながら、終は写真立てを、そっと元の場所に戻した。指が震えて、うまく置けない。何度か置き直して、ようやくまっすぐになった。
そして鞄から、いつもの線香を取り出す。配信の小道具だ。けれど今夜は違う。撮れ高のためじゃない。ただ供えたかった。この、名前も知らない、けれど確かに誰かを命がけで守った人のために。
火をつけて、手を合わせる。細い煙が、二筋、寄り添うように立ち上った。子どもの頃、母の葬式で、初めて線香をあげたときのことを、ふと思い出した。あのときも、うまく火がつかなくて、何度もやり直した。手が震えていたからだ。今と同じように。
「……あんた、偉いよ。おれには、できなかった、から」
言葉は、勝手に口をついて出た。
二十年前。あの日も、こうして、弟の手を握っていれば。ちゃんと離さずにいれば。人混みの中で、ふっと軽くなった、あの手を。母は、その少し前に病気で逝った。父は酒に逃げた。だからあの子の手を握っているのは、いつも終の役目だった。七つの子どもの、細い指で。なのに、たった一度。人の多い駅の雑踏で、ほんの数秒、よそ見をした、そのあいだに。
手のひらの中の、あの確かな重みが、ふっと消えた。あとに残ったのは、二十年ぶんの空っぽの手のひらと、「もし、あのとき」という、答えの出ない問いだけ。生きているのか、死んだのかもわからないまま、終だけが、ひとり大人になった。
だから終は、誰かと深く関わるのがこわい。また手を離してしまう気がして。心霊配信という画面越しの仕事を選んだのも、たぶんそのせいだ。誰とも本当には繋がらずに済むから。ずるい生き方だと、自分でも思う。
終は、ぎゅっと目を閉じた。まぶたの裏が熱い。
仏壇の奥で、かたん、と、なにかが動いた気がした。目を開ける。写真立てが、いつのまにか、こちらを向いていた。さっき確かに正面に戻したのに。角度が変わっている。まっすぐ、終の顔を見るように。
白黒写真の中の女が、笑った――ように見えた。今度は、目の奥まで、ちゃんと。
『気づいて、くれて、ありがとう』
声は、耳からではなく、胸の内側から聞こえた。終の背を、つめたい汗が一筋、伝う。
これは、ただの怪異じゃない。この悲しみには、続きがある。まだ終わっていない。そう直感した。理屈じゃない。記者だった頃から、こういう勘だけは、鈍ったことがなかった。
仏壇の下。畳が一枚、わずかに浮いている。ほかの畳とは色が違う。日に灼けていない。何度も何度も、上げ下ろしされた跡だ。誰かが、繰り返し、ここになにかをしまい、確かめに来ていた。
終は、仏壇に向かって、もう一度浅く頭を下げた。「開けるぞ。勝手に、悪いけど」。線香の煙が、ふっと横になびいた。どうぞ、と言うように。あるいは、覚悟しろ、と言うように。
終は、ごくり、と唾を飲んだ。震える指を、その畳の縁にかける。ひやりとした畳のへりが、指の腹に食い込む。息を止めて、力を込めた。
重い回まで、ついてきてくれて、ありがとうございます。
我が子を助けて、炎に還った母。彼女の最後の願いは、「覚えていて」ではなく、「忘れて」でした。――愛が深すぎると、人は、自分の存在ごと、消えようとする。この家の怪異は、呪いではありません。ただの、行き場をなくした、愛です。
そして終が、二十年、握りしめてきた“軽くなった手”。偶然この家に、その傷とそっくりの話が、待っていたこと。……ほんとうに、偶然だと、思いますか?
次回、神奈備の洋館。記憶を削られながら、科学と舞が、壁の引っかき傷に、見覚えのある“癖”を、見つけてしまいます。
では、次の神域で。




