第3話 三つの扉
ここから、三組が、三つの家に、散らばります。葦北・神奈備・巨石。名前だけ、頭の隅に置いてください。
どの家も、入った瞬間から、様子がおかしい。おかしいまま、奥へ進みます。あなたも、一緒に。
三つの家で、まったく同時に起きる、小さな異変。見逃さないでください。――それは、三つの家が、ほんとうは、ひとつだという、最初の合図です。
葦北の集落は、地図の上でしか存在していないような場所だった。
バスは、途中の停留所までしか通っていない。終は、そこから、舗装の割れた坂道を、スマホのライトだけを頼りに、一時間近く歩いた。街灯は、ひとつもない。民家の窓にも、灯りはない。夜だから、ではなく、もう長いこと、誰も住んでいないからだ。乾いた無人の気配が、道の両側に、べったりと張りついていた。
途中まで、蛙の声がうるさいくらいに鳴いていた。それが、ある地点で、ぷつりと絶えた。境界線でも、またいだみたいに。終は、足を止めて耳を澄ませた。なにも聞こえない。自分の心臓の音と、砂利を踏む靴の音だけ。……いや。
一拍遅れて、自分の足音が、もう一度、鳴った。終が止まったあとに。ぺた、と。
終は、振り返った。誰もいない。坂道が、闇に溶けているだけだ。……空耳だ。山の斜面が、音を返しただけ。そう決めて、また歩き出す。歩き出した足音に、やはり、半拍遅れて、もう一組、重なった。気づかないふりをするのが、いちばん、楽だった。
道の脇に、首から上の欠けた地蔵が、一体。足元に、涸れた花立てと、赤い前掛け。前掛けだけが、妙に新しい。この無人の集落で、誰が替えているのか。終は、それ以上、考えないことにした。考えると、引き返したくなる。引き返す金の余裕は、ない。
古民家は、坂を登りきった先に、ぽつんと建っていた。茅葺きの屋根は半分落ち、雨戸は黒く湿って、外れかけている。家全体が、疲れた老人のように、うずくまって見えた。
「……ま、画にはなるか」
カメラを回しながら、自分を鼓舞するように呟く。黒ずんだ鍵を、赤く錆びた錠に差し込む。入るかどうか、あやしい。だが鍵は抵抗もなく、するりと入った。かちり、と、思いのほか軽い音で回る。ずっとこの鍵を、待っていたみたいに。
戸を、引く。その瞬間、線香の匂いが鼻を突いた。
誰もいないはずの家から、燃えたばかりの、真新しい線香の匂い。仏間の、あの匂い。終の記憶の、いちばん古いところと、直接つながっているような匂いだった。そして奥のほうから、ちいさな、子どものすすり泣き。
(……仕込みか?)
そう思おうとして、失敗した。その泣き声には、演技には絶対に出せない種類の、湿った本物の悲しみがあった。喉の奥を、無理やり絞り出すような。
反射的に、終は後ずさった。逃げよう。この家は、まずい。長年の勘が、そう告げていた。だが背中が、戸にぶつかった。さっき、するりと開いた戸が。押しても引いても、びくともしない。家そのものが、口を閉じたみたいに。スマホの電波は、いつのまにか圏外に落ちている。
――もう、入ってしまった。それが、答えだった。
終の足が、頭で考えるより先に、泣き声のほうへ、奥へと向かう。ほかに、進む道がなかった。カメラを持つ手が、かすかに震えていた。
◇
同じ頃。神奈備山の、中腹。
「うわ、なにこれ。洋館って聞いてたけど、想像の三倍はこわいんだけど」
神楽坂舞が、建物を見上げて、ため息をついた。蔦にびっしり覆われた、石造りの西洋館。ステンドグラスが、月明かりを受けて、内側から光っているように見える。誰もいないはずなのに。
「怖い、は主観だ。データを取るぞ」
如月科学は、もう、リュックから機材を引っぱり出していた。気圧計、風速計、集音マイク。手慣れた動きで、玄関先に一つずつ並べていく。数字を集めているあいだは、少なくとも、足元が崩れない。彼にとって、この作業は、お守りみたいなものだった。
「見ろ。まだ中にも入っていないのに、この地点だけ気圧がおかしい。周りより二ヘクトパスカル低い。……くぼ地の地形か? いや、風向きが合わない」
鼻の頭を、指の背でゆっくり擦る。数字が理屈と噛み合わないとき、科学は決まってこうする。
舞は、少し離れて、その背を眺めていた。この幼馴染は、こわいとき、いつも数字に逃げ込む。逃げ込んで、足場を固める。それが、彼なりの震え方だと、舞だけは知っていた。
ぶつぶつと数字を読み上げる背中の横で、舞は、妙なことに気づいた。さっき、館の全景を、一枚撮った。撮ったはずだ。なのに、カメラロールに、その一枚がない。それどころか、ここへ来る電車の中で撮った写真まで、いくつか抜け落ちている。指が、勝手に冷たくなった。
「……かがくん」
「なんだ」
「わたし、いま、なにしに、来たんだっけ」
科学が、初めて手を止めて、舞を見た。舞の顔から、すうっと表情が抜け落ちていた。目だけが、ぽっかりと暗い。彼女が、彼女でなくなる、その、はじまりの顔だった。
◇
巨石の豪邸は、山ではなく、湖のほとりにあった。
「でっっか。お金持ちの家って、こういう感じなの?」
浅倉結衣が、門の前で口をぽかんと開けた。庭には、人の背丈の何倍もある巨石が、いくつも積み上げられている。自然にそこにあるのではない。誰かが意思をもって運び、組み上げた。家そのものが、古代の遺跡の上に建っているようだった。
「わたしね、こういうの、放っておけないんだ」結衣が、ぽつりと言った。「いなくなった人を、探すの。ちゃんと連れ戻せた例なんて、一度もないのに」
その横顔が、一瞬だけ、いつもの明るさを失った。蓮は、気づかないふりをした。踏み込めば、自分のことも話さなきゃいけなくなる。親のいない自分のことも。
九条蓮は、門をくぐりながら、庭の隅の池に目を留めた。
「……結衣。あの池、底に、なんか、あるぞ」
澄んだ水の底に、規則的に並んだタイル。白と、黒。模様にしては、並び方が几帳面すぎた。乱れがない。人が、時間をかけて、意図的に配置したものだ。眼鏡の縁を、親指で上へ押し上げる。だらけていた背が、すこしだけ伸びた。
「え、蓮くん、もう、なんか見つけたの? 早くない?」
結衣が、池を覗き込む。長い髪が、水面に映った。彼女には、ただの古びたタイルにしか見えない。だらけているようで、必要なときだけ、ぴん、と糸が張る。その切り替わる瞬間が、結衣は、嫌いじゃなかった。
その、時だった。
三つの、離れた場所で、同時に。
終は、線香の匂いが、ふいに濃くなるのを感じた。
舞は、自分の名前を、思い出せなくなった。
蓮は、水面に映る月が、二つに増えるのを見た。
三人は、それぞれの場所で、一瞬、動きを止めた。今のは、なんだ。気のせいだ。そう片づけようとして、片づけきれない、小さなひっかかりが、胸の底に残る。まるで、遠くの誰かと、細い糸で繋がれたような。その糸の、もう一方の端に、誰がいるのかも、知らないまま。
そして三人とも、同じ言葉を、頭の奥で、聞いた。誰の声でもない。自分の思考の、すぐ裏側で、小さな子どもが、囁いたような。
――こないで。
終は足を止め、舞は口元を押さえ、蓮は池から一歩、退いた。けれど三人とも、もう後戻りできない場所まで、来ていた。葦北の戸は閉じ、神奈備は記憶を削りはじめ、巨石は時間を歪めはじめている。
夜は、まだ始まったばかりだった。三つの家は、それぞれの流儀で、静かに、けれど確実に、六人を飲み込みはじめていた。まだ、誰も、逃げ道のことを、考えてはいない。この夜が、明けないかもしれない、なんて。
最後まで、ありがとうございます。
葦北は「感情」、神奈備は「記憶」、巨石は「時間」。それぞれの家の、喰らい方です。今は別々に見えて、かまいません。
そして三人が、同時に、頭の奥で聞いた声。『こないで』。第1話の、あの赤い一行と、同じ言葉でした。誰が、誰に、言っているのか。――その答えを知ったとき、あなたはもう、この話を、笑って閉じられなくなっています。
次回、葦北の続き。終が、泣き声を追った先で、供えたての線香と、ひとつの祈りに出会います。
では、次の神域で。




