第2話 沈黙の会議室
次にあなたが通されるのは、窓のない部屋です。
六人が集まります。集まるのに、誰も喋りません。喋らない人間の、伏せた目と、小さな舌打ちと、握りしめた鍵の冷たさ。それだけを、どうか、見ていてください。
そして――受付の女が、あなたの古傷を、名前ごと、言い当てる瞬間を。会って、まだ、五分なのに。
「……で。いつまで待たせる気ですか、この怪しい不動産屋は」
市原終は、パイプ椅子に体を預けたまま、誰にともなく吐き捨てた。声は、思ったより部屋に響いた。誰も、拾ってはくれなかったが。
名前も覚えていない雑居ビルの一室だった。案内には「四階、第二会議室」。エレベーターは動いておらず、狭い階段を上がった背中には、まだ汗が張りついている。蛍光灯がひとつ、切れかけて、視界の端で、ちらちら瞬いていた。長机がひとつ。パイプ椅子が、六脚。窓はない。空気は、同じ場所で澱んだまま、かび臭かった。
壁の時計は、約束の時刻を、とうに五分過ぎている。
終は、膝のスマホで、無音のままカメラを起動していた。職業病だ。この部屋は、画になる。安っぽくて、うそくさくて、なのにどこか、本気で怖い。視聴者が好きなやつだ。そこまで考えて、鼻で笑った。こんな前室で撮れ高を計算している自分が、いちばん、うそくさい。
斜め向かいに、大学生くらいの男。スマホを睨みつけている。隣で女が一人、退屈そうに髪を指に巻いては、ほどいている。いちばん端に、高校生くらいの男女。男は椅子を半分斜めにして、天井を見上げ、時々、目だけがすっと動く。女は、その袖を引いては、小声で耳打ちしている。
六人。誰も、口をきかない。
妙な部屋だった。全員が同じ案内状を握っているのに、示し合わせたように、互いを見ない。関わりたくない。その一心だけが、部屋にみっしりと詰まっている。終は、こういう空気を知っていた。事件現場の、遺族の控室。示談の席。誰もが自分の痛みで手一杯で、他人の顔を見る余裕がないときの、あの空気だ。
記者だった頃の癖で、終は部屋を見渡した。人を観察する癖。顔の下から、隠している痛みを読み取る癖だ。
理系の男は、時々、隣の女ではなく、誰もいない空席のほうへ目をやる。そこに、いるはずの誰かを探すみたいに。高校生の男は、制服の袖口をしきりにいじる。女子高生は、首のお守りを、握っては離す。
――みんな、同じ顔をしてる。
終は、胸の内で呟いた。誰かを失くした人間の顔。取材で、嫌というほど見た、あの顔だ。ここにいる全員が、なにかを、あるいは誰かを、置いてきている。気のせいだ、きっと。終は、そう結論して、目を伏せた。深く考えるのは、性に合わない。
無意識に、終は胸ポケットへ手をやった。指先が、煙草の箱の角に触れる。一本、抜きかけて――やめた。色あせた禁煙の札。箱の角を、こつこつと叩く。吸えないと、頭がまとまらない。困った癖だ。
科学が、ちいさく舌打ちした。「GPSのログが飛んでる。この部屋、電波の入り方がおかしい」。静かすぎる部屋では、それはよく通った。終がちらりと視線を上げる。理系か。厄介そうだ、と思った。それきり、また目を伏せた。
ドアが開いたのは、そのときだった。
「お待たせいたしましたぁ」
間延びした、やけに明るい声。スーツ姿の女性社員が、ファイルを胸に抱えて入ってきた。歳が読めない。二十代にも四十代にも見える。とにかく、笑っていた。貼りついた、と言うには自然すぎて、けれど、どこにも温度のない笑顔だった。
「本日はご足労いただき、ありがとうございますぅ。鍵のお引き渡しの前に、同意書の確認を、させていただきますねぇ」
誰も、返事をしない。女性社員は気にする様子もなく、ファイルを開いた。紙をめくる音だけが、やけに大きい。
「第一条。契約者は、物件内で見聞きした一切を、自己の責任において処理するものとします。第五条。契約者の心身に生じた、いかなる変化についても、当社は関知いたしません。はい、ここ、大事でーす」
通販の規約でも読むみたいに、抑揚がない。
「第七条。契約者は、物件滞在中、“主観時間の延長”が生じる場合があることに、同意するものとします」
科学の指が、ぴたりと止まった。「……主観時間の、延長?」
女性社員は、その苛立ちを、むしろ好物みたいに、にっこり受け止めた。「はいぃ。中では、外より、すこしだけ、時間が長く感じられるんですぅ。人によっては、一晩が……そうですねぇ、何十年にも」
部屋が、しんとした。誰かの、唾を飲む音がした。
「……非科学的だ」理系の男が、吐き捨てる。「恐怖で体感時間が延びる、なら、まだわかる。だが“一晩が何十年”は、ありえない。人間の身体が、もたない」
「“延長”、って言ってましたよ」端から、けだるい声が割り込んだ。高校生の男だ。天井を見たまま。「体感が延びるんじゃない。中の時間そのものが、延びる。……そう読めます。だとしたら、それ、あなたの土俵の話じゃ、ない」
ふ、と。今度は、終の口から、乾いた笑いがこぼれた。理屈屋と、屁理屈屋の火花。記者の頃、取材先で嫌というほど見た構図だ。「何十年、ね。よく言うよ。夢のある不動産屋だ」
言ってから、しまった、と思う。三人とも、それきり口をつぐんだ。よけいなことを喋った、とでも言うように。示し合わせたわけでもないのに、ぴたりと、貝になる。沈黙が、さっきより一段、重く戻ってきた。
「ふふ。冗談だと思っていただいて、けっこうですよぉ」女性社員は、机に、鍵を三つ、そっと並べた。古い真鍮。色も形も違う。黒ずんだもの。赤みを帯びたもの。氷のように白いもの。どれも、この時代のものには見えなかった。
「では、お名前を。……九条様」
端の高校生が、けだるげに手を上げた。それと、ほとんど同時に。終も、ふと、その男のほうへ顔を向けていた。
呼ばれたのは、自分ではない。九条、なんて苗字でもない。なのに、その名が、耳の奥に、小骨みたいに引っかかった。一瞬、二人の視線が交わる。歳も身なりも違う。接点なんて、どこにもないはずだ。だがほんの半秒、二人はお互いの顔を、見つめてしまった。
「――あらぁ」女性社員が、二人を見比べて、ふふ、と笑った。「市原終様と、九条蓮様。お二人、どこか、似ていらっしゃいますねぇ。他人の空似って、こわいものですぅ」
似ている、という言葉に、妙な含みがあった。終は眉をひそめる。だが社員はもう、次の名前を呼んでいる。如月様、神楽坂様、浅倉様。黒ずんだ鍵は終へ。白い鍵は科学へ。赤みを帯びた鍵は蓮へ。渡されるとき、終は、社員の指が、氷みたいに冷たいことに気づいた。握った手のひらから、じわりと、熱を吸い取られていく感じがした。
鍵を手渡しながら、女性社員は、一人ひとりに、ごく短く、囁いていった。
終には。「市原終様は、お優しいから。縁もゆかりもない仏さんにまで、線香を、あげてしまうくらい。どうか、そのお気持ち、大事になさってくださいねぇ」。終は、ぎくりとした。その癖を、誰かに話した覚えはない。配信でも、映さないようにしている。「なんで、それを」。社員は、ただ微笑むだけで、答えなかった。
蓮には。「探しもの、見つかると、いいですねぇ。ずいぶん、長いこと、探して、いらっしゃるでしょう?」。蓮の眉が、ぴくりと動く。
舞には。「大切なお友達のこと、あきらめないで、えらいですねぇ」。舞の顔から、血の気が引いた。零のことを。会って、まだ五分も、経っていないのに。
結衣には。「あなたは、いつも、誰かのために走ってしまうんですねぇ。今度こそ、間に合うと、いいですねぇ」。結衣の明るい顔が、一瞬、こわばった。
この女は、自分たちのことを、名前も、傷も、なにもかも、知っている。その、当たり前みたいな顔が、なにより、こわかった。五分で読み取れる顔では、ない。前もって、調べ上げた顔だ。終の背で、記者の勘が、小さく警報を鳴らした。この引き渡しは、たまたま集めた客への、儀式じゃない。名指しだ。最初から、おれたち“で”なければ、ならなかった。
「それではぁ、皆さまのご健闘を、心より、お祈りしておりますぅ」
祈る、という言葉を、その人は、やけに丁寧に発音した。ほかのどの言葉より、ずっと。――ほんの一瞬、笑顔の奥で、その目が、遠くを見た。何か、とうに失くしたものを、思い出すみたいに。終だけが、それに気づいた。この女も、どこかで、誰かを喪っている。取材で嫌というほど見た、あの顔が、貼りついた笑顔の、下に、一枚、隠れていた。けれどそれは、まばたきの間に、消えた。終は、見間違いだと、思うことにした。
ドアに手をかけて、女性社員は、思い出したように付け加えた。「あ。クエストの、最後の赤い字。あれ、気になさらないでくださいねぇ。……あの子が、昔から、ずっと書いているだけですからぁ。もう、何組も、あの字を見て、来てくださいました」
何組も。終が問い返す前に、ドアは、静かに閉まっていた。
六人は、ばらばらに部屋を出た。狭い階段を、誰も一言も交わさずに降りる。外に出ると、蒸し暑い夜の匂いがした。排気ガスと、揚げ物。ようやく息ができた気がして、終は伸びをした。
目的地は、それぞれ違う。もう、二度と会うこともない。――そう、思っていた。握った鍵の、あの冷たさだけが、いつまでも、手のひらの真ん中に残っていた。
読んでくれて、ありがとうございます。
「もう、何組も、来てくださいました」。女の、あの一言。――つまり、この部屋に通されたのは、あなたたちが、最初ではありません。前に座っていた人たちが、今、どこにいるのか。それは、まだ、訊かないでおきましょう。
妙によく似た二人が、目を合わせてしまった。他人の空似で、済ませてかまいません。……いまのところは。
次回から、三組はばらばらの物件へ。まずは葦北の古民家。泣き声が、家の中を、歩いてきます。
では、次の神域で。




