第9話 完璧な、身辺調査
科学が、“裏側”に、手を伸ばします。
不正アクセス。れっきとした、犯罪。けれど、彼を止める理屈は、もう、ありません。――その画面の中に、あなたの名前が、生い立ちごと、並んでいたとしたら。あなたなら、見ますか。見ないで、いられますか。
科学の指が、キーボードの上でためらった。
不正アクセス。れっきとした犯罪だ。理性は「やめろ」と言っている。けれどその理性の奥のほうで、もっと冷たい声がした。――こいつらは、零になにをした? その一点で、迷いは消えた。指が勝手に動きはじめる。高校のとき、遊び半分で覚えた侵入の手口。まさか、こんな形で役に立つとは思わなかった。
「舞。見張っててくれ。おれは、これから地獄を覗く」
舞は黙って頷き、科学の背中を守るように、扉の前に立った。二人とも口には出さない。けれどわかっている。ここから先は、もう後戻りできない。
サーバーのセキュリティは、拍子抜けするほどずさんだった。覗かれることなど、はなから想定していないみたいに。あるいは――覗いたところで、もう手遅れだと高をくくっているみたいに。その余裕のほうが、よほど寒かった。
背後で、舞が小さく息を呑んだ。「かがくん……なんか、声、聞こえない?」。言われて、科学も気づいた。キーを叩く音の隙間に、別の音が混じっている。子どものすすり泣き。遠い振り子の音。誰かの叫ぶような声。さっき波形で捉えた空間の干渉が、いよいよこの部屋にまで、にじり寄っていた。時間がない。壁が完全に溶ける前に、答えを持って帰らなければ。
フォルダが、ずらりと並んでいた。ひとつひとつに、名前がついている。科学は、そのいくつかに見覚えがあった。いや、見覚えどころではなかった。
『市原終』『如月科学』『神楽坂舞』『九条蓮』『浅倉結衣』。そして『峰岸零』。
自分たちの名前だった。あの会議室にいた六人ぶんと、消えた幼馴染の名前が、そこに並んでいる。
科学は、まず自分のフォルダを開いた。生い立ち。家族構成。既往歴。通っていた小学校。心理テストの傾向。プライバシーも、なにもあったものじゃない。どこで、こんな情報を集めたのか。背筋が、じわりと冷えた。
――その時、ふと、別の違和感が走った。フォルダの数が、六つでは、なかった。名前の並びの、いちばん下。スクロールしないと見えない位置に、名前のない、空のフォルダが、三つ。《CANDIDATE-NEXT》と、番号だけが振られている。……次の、候補。おれたちの“次”が、もう、用意されている。背筋の冷たさが、一段、増した。この商売は、今夜で終わりじゃない。おれたちが片付いたら、また次の三組が、あの赤い一行を見て、応募してくる。そういう、流れ作業だ。
「かがくん、早く」舞の声が、上ずっていた。「わたし、また……自分が、なにを見張ってたか、思い出せなくなってきた」。記憶が、また削られはじめている。廊下のほうから、線香の匂いと遠い水音が、さっきより濃く流れ込んでくる。壁が溶けかけていた。じっくり読んでいる時間は、もうない。断片でいい。持てるだけ掴んで、逃げる。
いくつかのフォルダを、順に開いていく。細かい中身まで読む時間はない。それでもある一点だけは、どれもこれも、判で押したように共通していた。――喪失。名前も事情も違う。けれどこの五人には全員、同じ形の空白があった。大切な誰かを失った、その空白が。
同じ形の空白。五人ぶんの喪失。それを目にした瞬間、科学の頭の奥で、ずっと蓋をしていた違和感が、ぐらりと持ち上がった。神奈備のあの夜。この家は、来る人間ごとに狙いを変えているんじゃない。最初から、狙いに合う人間だけを選んで招いているんじゃないか――そう思いかけて、こわくて脇に置いた、あの考え。
まさか。まさか、そんな。逃げようとした指が、それでも、いちばん上の行を読もうとする。だがその時、画面がざっと砂嵐に飲まれた。空間の干渉が、とうとう機械にまで及びはじめている。ノイズの向こうに、単語がひとつ、明滅して――すぐ消えた。読めなかった。いや、読みたくなかったのかもしれない。
科学は、いつもの癖で鼻の頭に指をやりかけ――その手が、細かく震えているのに気づいた。数字で武装したはずの頭が、答えに追いつくのを拒んでいる。認めたくないのだ。――その時だった。
繋がった空間の向こうから、蓮の声が割り込んできた。安楽椅子探偵の、あの、謎を解くときの静かな声で。
「……如月さん。そっちの画面に、なにが出てるかは知らない。見えてない。でもたぶん、もう、いらないよ。おれのほうは……とっくに、繋がってる」
「なにが」
「思い出してくれ。あの会議室。あの社員、おれたちの隠してることを、ぜんぶ言い当てただろ。終さんが、無縁仏に線香をあげる癖。おれが、ずっとなにかを探してること。神楽坂さんの消えた友達のこと。会って五分だ。五分で、他人の古傷をあそこまで正確に言い当てられるわけがない。前もって、調べてなきゃ」
科学は息を呑んだ。舞の顔から血の気が引く。
蓮の声が、ざ、と砂嵐に途切れた。空間の干渉が、彼の声まで削りはじめている。「如月さん。聞こえてるか。時間がない。壁が溶けてく。最後まで言い切れるうちに、言う」
「聞いてる。続けろ、一言も逃さない」科学は、崩れかけた壁に背を向けたまま、キーを叩き続けた。読めるうちに。ファイルをひとつでも多く。舞の腕を片手で抱き寄せながら。彼女の記憶が削られる速さと、蓮の推理が間に合う速さと。そのどちらが早いか。文字どおりの綱引きだった。
「それだけじゃない」蓮は、掠れる声を繋いだ。「三つの家。どれも、来た人間のいちばん痛いところを狙って見せてきた。終さんには、手放した子ども。あんたたちには、消えていく記憶。おれと結衣には、『守れなかった』って言葉。偶然か? 五人が五人、深い喪失を抱えてて、その傷を家がピンポイントで抉ってくる。そんな偶然、確率で言えば、ゼロに近い」
一拍、置いて。「つまり、おれたちは、客じゃない。ふらっと応募したつもりで、その実、最初から選ばれてたんだ。――悲しみを、持ってるから」
科学は、砂嵐の画面をもう一度見た。ノイズの底で、さっき消えた単語が、もう一度だけ明滅する。――“器”。たった、その一字。蓮が、たった今、三つの家とあの会議室だけを頼りにたどり着いた答えを。壊れかけた機械が、あとから、のろのろと追認しただけだった。
答えは、この画面が教えてくれたんじゃない。無縁仏に線香をあげる癖を言い当てられた、あの会議室。傷を狙い澄まして抉ってきた三つの家。声と匂いが混じりはじめた昨夜の異変。それが、とっくの昔に突きつけていた。おれたちは、もう気づいていた。気づいていて、認めるのがこわかった。それだけの話だった。
「……その通りだよ、名探偵」科学の声が掠れた。「おれたちは、悲しみの深さで選り分けられた。器として。上等な、駒として」
「心理誘導だね」舞が、青ざめた顔で、けれど専門家の目で言い添えた。「傷が深い人ほど、他人の痛みに共鳴しやすい。優しい人ほど、放っておけない。……その優しさを逆手に取ってる。三つの家でわざと誰かの悲しみを見せたのも、同情させて、心をこじ開けさせるため。人のいちばんきれいな部分を、いちばん残酷に使ってる」
科学はぞっとした。怪異よりも幽霊よりも、この人間の設計図のほうが、よほど悪意に満ちている。数字は嘘をつかない。だがその数字をこんなふうに使う人間がいる。それが、彼にはいちばんこたえた。
画面がまた乱れた。長くはもたない。科学は急いで、最後に零のフォルダを開いた。ほとんどがノイズで潰れている。それでも赤い文字の一行だけが、明滅しながら残っていた。
『試験体一号。神奈備にて、記憶剥離の耐性を――』
続きは砂嵐に消えた。けれど“試験体一号”の四文字で、十分だった。一号。その二文字が、科学の喉に、冷たく刺さる。一号がいるなら、二号も、三号もいたはずだ。この洋館で、零の前に、何人が、この壁を爪で削ったのか。あの引っかき傷は、ぜんぶ、零のものだったのか。それとも。
科学の手が、止まった。目の前が赤くなる。零は、消えたんじゃなかった。連れていかれたんだ。あの洋館へ。実験の材料として。「なあ、信じてくれよ」とすがったあいつを、おれたちが突き放しているあいだに、ずっと。
「……ずっと、ここにいたのか。おれたちが、あいつを変人だって笑ってる、あいだ、ずっと」
舞が口元を押さえた。声を殺して、けれど肩が震えている。あの日、姿を消す前、零が最後になんて言ったか。今になって、はっきり思い出す。「おまえらまで、おれを置いてくのか」。置いていった。まぎれもなく、おれたちはあいつを置いていったのだ。爪が手のひらに食い込む。その痛みで、科学はどうにか涙を押し戻した。
「舞。泣くのは、あとだ。……おれの名前を、呼び続けろ。零のぶんまで、忘れるな」
舞は涙をこらえて頷いた。「如月、科学。……如月、科学」
その時、また蓮の声がした。けれどさっき選抜のからくりを解き明かした、あの静かな明晰さは、もうどこにもなかった。「……如月さん。もう一つ、頼みがある。そっちのファイル、おれのと繋げて読んでくれないか。おれと、あの配信者の……市原さんっていう人の、二人ぶんを」
声が震えていた。他人の謎なら、いくらでも冷静に解けるくせに。自分のことになると、こんなにもこわがる。「おれと、あの人の欄。生年と、火事の記録が、なんか、おかしいんだ。同じ日の、同じ火事。片方が失くした弟の歳と、おれの歳が、ぴたり合う。……たぶん、おれ、答えに、気づいてる。気づいてて、確かめるのがこわいだけなんだ」
科学は、震える指を二つのフォルダへ伸ばした。『市原終』。『九条蓮』。この二つを並べて読めば、答えが出る。出てしまう。
だがその時。画面が、ばちん、と白く明滅した。空間の干渉が、とうとう機械の息の根に手をかけている。洋館の壁がぐにゃりとたわみ、三つの家を隔てる境が、音を立てて崩れはじめた。
「くそっ、間に合え……!」
科学は、消えかけた二つのファイルを、手元の端末へ丸ごと引き抜いた。転送のバーが、じりじりと伸びる。八割。九割。壁が崩落する、その寸前――バーが最後まで届いた。同時に、サーバーの画面が、ぷつん、と黒く落ちる。
「持った……! 答えは、この中だ。あとは、二つを繋げて、読むだけ」
科学は、端末をぎゅっと握りしめた。確かめるのがこわいのは、本当は、科学も同じだった。
読んでくれて、ありがとうございます。
サーバーに並んでいた、六人ぶんの“身辺調査”。生い立ち。家族。既往歴。そして、全員に共通する、ひとつの形の“空白”。――あなたたちは、ふらっと応募したつもりで、その実、最初から、深い喪失を持つ“器”として、選び抜かれていた。あなたのその痛みも、きっと、どこかで、誰かに測られています。
そして、名前のない《次の候補》フォルダが、三つ。この商売は、今夜で、終わりではありません。あなたたちが片付いたら、また、次の三組が、あの赤い一行を見て、応募してくる。
次回、終と蓮。二人ぶんのファイルを並べて読んだとき、二十年の、答えが、出ます。
では、次の神域で。




