第10話 兄と、弟
この回で、二十年の“答え”が、出ます。
市原終と、九条蓮。接点のなかった二人が、同じ日の、同じ火事で、母を亡くしていた。――偶然では、ありません。あなたも、もう、わかっているはずです。
ただ。再会の涙にも、ちゃんと“値段”がついていることを、どうか、忘れないでください。
繋がった三つの空間の中で、終と蓮は、初めてまっすぐに向き合った。
姿は見えない。壁も、距離もあるはずなのに。それでも声だけがすぐそこにある。科学が、二つのファイルを読み上げていく。淡々と。感情を殺すように。それがいちばん正確だと思ったから。
「市原終。二十六歳。七歳のとき、火災で母親を亡くす。……その同じ火災で、二歳下の弟と、生き別れ」
終の息が、止まった。
「九条蓮。十七歳。二歳のとき、火災で母親を亡くす。以後、母方の親戚に引き取られ、九条の姓を名乗る」
沈黙。三つの家を繋ぐ空間ごと、しんと静まりかえった。振り子の音も、水の音も、線香のはぜる音も、一斉にやんだ。世界が、この二人のためだけに、息をひそめたみたいに。
「……嘘だろ」
終の声が掠れた。それきり、言葉が続かない。長い間があった。その沈黙を、ほかの三人も、繋がった空間の中で、じっと聞いていた。科学は、キーボードから手を離した。舞は、口元に当てた手を、そのまま動かせずにいる。結衣は、蓮の顔をまじまじと見つめた。この、いつも気だるげな同級生が、今どんな顔をしているのか、初めてわからなくなって。
誰も、口を挟まなかった。挟めるはずが、なかった。
「兄、ちゃん?」
蓮の口から、こぼれた言葉。他人に無関心なふりをして、ずっと殻に閉じこもっていた少年の、いちばん奥から。二十年ぶりに、それはこぼれ落ちた。
終は、なにも言えなかった。言おうとすると、喉がふさがる。あの日。人混みで、ふっと軽くなった小さな手。あれは、自分が離したんじゃなかった。今、わかった。火事の煙の中で、母が、この子だけでも、と抱えて走り、人の波に託したのだ。――葦北で見た、あの身代わりの母のように。血の繋がった母もまた、二人を生かすために、炎の中へ還った。
「生きて、たのか」
やっと、それだけ言えた。「……おまえ、ずっと、生きて、たのかよ」
終は泣いていた。二十年ぶんのなにかが、堰を切ってあふれ出す。カメラは、とっくに放り出していた。配信も、数字も、どうでもよかった。蓮は、答えなかった。答えの代わりに、繋がった空間の向こうで、小さく、洟をすする音がした。
それで、十分だった。言葉はいらなかった。二十年ぶんの距離を埋める言葉なんて、どうせありはしない。ただ片方が泣いて、片方がそれを黙って聞いている。そのたったそれだけのことが、二人には、二十年、できなかったのだ。
結衣が、そっと目元を拭った。舞も、こらえきれずに頬を濡らしている。科学だけが、天井を睨んで、洟をすすらないよう必死だった。誰も、この兄弟にかける言葉を持っていなかった。持っていないまま、ただ、そばにいた。それが、たぶん、いちばん正しかった。
その、あたたかい気配を――
膝を抱えた少女が、遠い封印の底で、じっと感じ取っていた。
長いあいだ、あの子の周りには、悲しみしか流れてこなかった。だから知らなかった。失ったものが、また見つかることもあるのだと。離れた手が、もう一度繋がることもあるのだと。少女は、そっと顔を上げた。その頬を、名前のつかないあたたかいものが伝った。あの子にとって、それは、生まれて初めての感覚だった。
そして――その“あたたかさ”を、もう一人、別の目が、じっと測っていた。どこか遠くの、乾いた部屋で。モニターの数値が、ひとつ、跳ね上がる。「共鳴、良好」。満足げに、誰かが頷いた気配が、空間の端を、かすめた。兄弟の涙は、封印をゆるめる、いちばん上等な燃料だった。彼らが深く繋がるほど、あの子の器は、よく開く。再会の感動すら、設計の内側にあった。
◇
感動に浸っている間は、なかった。
科学が暴いた、裏サーバーの最後のファイル。それが、あの団体の目的を断片的に告げていた。
「……そういう、ことか」蓮の声が、低く落ちた。最後のピースが、かちりとはまった音だった。「おれたちが回った、三つの家。あれ、別々の物件なんかじゃない。あの子を、無理やり、三つに割ったものだ」
四人の脳裏に、それぞれの夜がよみがえった。葦北で終が浴びた、あふれる感情。あれが少女の〈心〉。神奈備で舞が奪われかけた記憶。あれが少女の〈記憶〉。巨石で蓮が触れた、歪む時間。あれが少女の〈力〉。
そしていちばん恐ろしいのは、そこから先だった。自分たちは、その封印を一つずつ、内側から解いて回っていたのだ。怪異を暴くたびに。悲しみに寄り添うたびに。よかれと思って。なにも知らずに。三つの封印がすべて解けたとき、少女は「復活」する。
団体がそれを「浄化」と呼んでいることだけが、わかった。悲しみごと、この世をいちど造り替える。そのために傷ついた人間を集め、少女に共鳴させ、封印を解かせようとしている。なぜそんなことが可能なのか。少女とは何者なのか。肝心なところは伏せられたままだった。
「……冗談じゃない」科学が吐き捨てた。舞が、その握った拳に、そっと手を重ねる。
「かがくん。零も、きっとその“装置”の一部にされてる。迎えに行こう。それに、あの子も。あんな目をした子を、道具のままには、しておけない」
「あの子を助けるって……封印を解くことに、ならないか」科学が鋭く指摘した。「解けば、団体の思うつぼだ」
「解いて、暴れさせるんじゃない」蓮が、静かに言った。「あの子の目を見た。暴れたいんじゃない。ただ誰かに気づいてほしいだけの目だ。悲しみを力で抑え込むから、いつか爆発する。そうじゃなくて、隣で聞いてやればいい。おれが、水底のあの人にしたみたいに」
誰も、すぐには答えなかった。それが正しいのか、わからない。放っておけば、あの子はまた何百年も独りで泣き続ける。どちらも、正解には見えなかった。けれどこの五人の中で、いちばん人の孤独に敏感な蓮がそう言うのなら。そこに賭けてみる価値はある気がした。少なくとも、事務的なマニュアルで人の命を処理する、あの団体の理屈よりは、ずっと信じられた。
繋がった空間の中心に、一本の暗い道が浮かび上がっていた。三つの神域のどれでもない。四つめの場所へと続く道。そこへ、あの声がした。間延びした、女性社員の声。姿はない。ただ笑いだけが空間に満ちる。
「あらぁ。そこまで、たどり着いちゃいましたかぁ。……でも、ひとつだけ、忠告しておきますねぇ」
声は、心の底から面白がっている。盤上の駒が勝手に動き出したのを、楽しむように。
「第三の神奈備には――絶対、行かないほうが、いいですよぉ」
その語尾が、ほんの少し、揺れた。面白がる調子の下に、別のものが、一瞬だけ、混じる。警告。本物の。まるで、自分の子どもを、崖の際から、引き戻そうとするような。女自身、それに気づいたように、慌てて、いつもの猫なで声に、蓋をした。「……なあんて。ふふ。どうぞ、お好きになさって」。けれど終は、聞き逃さなかった。この女は、今、一瞬だけ、本気で、おれたちを止めようとした。なぜだ。器が惜しいなら、むしろ行かせたいはずだ。止めたがる理由が、こいつには、別に、ある。
終の背が、ぞくりとした。その台詞を、どこかで見た。クエストの底の、赤い一行。あれと、同じ言葉だ。……あの歪んだ字も、この女が書いたのか? いや。違う。あの女の声には、脅しの響きしかない。あの赤い一行には、もっと、別の――すがるような、祈るような、湿り気があった。同じ文なのに、出どころが、違う。終の勘が、そう告げた。だが今は、確かめている余裕はなかった。
五人の目が、暗い道の、その先を見た。行くしかない。もう、誰も、あの子を独りにはしておけない。血を分けた兄弟が再会できた、この夜に。誰かの悲しみを踏み台にして造られる世界なんて、こっちから願い下げだ。
終は、いつもの癖で胸ポケットに手をやりかけた。火を求める、あの癖。……けれど、今夜はいらなかった。指をゆっくり握りこむ。腹は、もう据わっている。隣に、弟がいる。それだけで、じゅうぶんだった。
「――行くぞ」
終が言った。もう掠れてはいなかった。兄の声で。弟が、隣で頷く気配がした。姿は見えない。それでも確かにそこにいる。五つの足音が、一つに重なって、封印の中心へと踏み出した。絶対に行くな、と言われた、その場所へ。
ここまで、ありがとうございます。
生き別れた、兄と、弟。……けれど、その感動の涙さえ、どこか遠くの乾いた部屋で、「共鳴、良好」と、測られていました。彼らが深く繋がるほど、少女の器は、よく開く。再会すら、設計の、内側だったのです。
三つの家は、少女を、無理やり三つに割ったもの。そして六人は、知らないうちに、その封印を、内側から、解いて回っていた。――“第三の神奈備”は、四つ目の場所ではありません。三つの家の、ど真ん中に、最初から、ありました。
次回、五人は、その中心へ。絶対に行くな、と言われた、その場所へ。
では、次の神域で。




