第11話 地図にない中心
五人が、中心へ向かって、歩きます。
足元は、葦北の畳が、神奈備の絨毯に、巨石の石畳に、一歩ごとに、入れ替わる。見ると、酔います。――そして、五つの足音の後ろに、もう一つ。半拍遅れて、ぺた、とついてくる足音の数を、どうか、数えないでください。
暗い道は、どこにも続いていないように見えた。
三つの空間が、繋がったまま溶けかけている。終の足元は、まだ葦北の畳のはずだった。なのに、踏み出すたびに、床が石畳に変わり、湿った絨毯に変わり、また畳に戻る。境目がない。三つの家を、無理やり一枚の紙に折り重ねたみたいだった。
「……足元、見ないほうがいい」
蓮の声が、すぐ近くでした。姿はまだ見えない。それでも昨夜までの遠い反響とは違う。手を伸ばせば届きそうな距離に、弟がいる。そのことが、終には、まだうまく飲み込めなかった。
「見ると、酔う。おれ、さっき、一回、吐きかけた」
「……お前な。もうちょっと、緊張感、持てよ」
言ってから、終は少し後悔した。二十年ぶりに見つけた弟に、最初にかける言葉がこれか。だが蓮は、ふ、と笑ったようだった。「兄貴のくせに、説教かよ」
兄貴。その二文字が、胸のやわらかいところに刺さる。うれしいのか、こわいのか、自分でもわからなかった。二十年、探して見つからなかった手が、いますぐ隣にある。なのに、どう繋いでいいのか、わからない。あの頃の小さな手は、もうどこにもない。声変わりした無愛想な高校生の弟が、代わりにそこにいる。時間は、二人のあいだを勝手に進んでしまった。その埋まらない二十年が、うれしさのすぐ裏側で、静かに痛んだ。
「……なあ、蓮」
「なんだよ」
「いや。……なんでも、ない」
結局、言葉にならなかった。聞きたいことは山ほどあるのに。どこで育ったのか。つらくなかったか。おれを恨んでいないか。そのどれもが、喉の手前でつかえて、出てこない。終は、こういうとき、いつもそうだ。いちばん大事なことほど、言えなくなる。
◇
科学は、歩きながら、スマホと手のひらサイズのGPSロガーを、交互に睨んでいた。
「だめだ。緯度も経度も、数字がぐちゃぐちゃに書き換わってる。現在地が、一秒ごとに、地球の裏側まで飛んでる」
「それって、壊れてるんじゃなくて?」結衣が覗き込む。
「壊れてたら、いっそ楽なんだけどな」科学は、鼻の頭を指の背で擦った。「機械は正常だ。正常に、ありえない値を拾ってる。……つまり、ここは、地図の上に存在してない」
その言い方が、妙に静かで。結衣は、それ以上聞けなくなった。
――そのとき、結衣は、妙なことに気づいた。さっきから、自分のすぐ後ろを歩く足音が、五つではなく、六つある。数え直す。終、科学、舞、蓮、自分。五人。なのに、もう一つ。半拍遅れて、ぺた、と湿った足音が、ついてくる。振り返っても、暗がりがあるだけ。「……ねえ。今、誰か、後ろにいた?」。誰も、答えなかった。みんな、気づいていて、気づかないふりをしていた。口に出したら、本当になる気がして。
「舞、離れるなよ。手、繋いどけ」
「うん」舞の返事は、上の空だった。彼女の目は、繋がった空間のいちばん奥――まだ形にならない暗がりの、その一点だけを追っている。零が、いる。会ってすらいないのに、確信だけがあった。
「舞。あんまり、先を見るな」科学が、低く言った。「気持ちはわかる。でも焦って足を踏み外したら、元も子もない」
「……うん。わかってる。わかってるん、だけど」舞は唇を噛んだ。わかっていて、止められない。あの日、置いていった。「視える」と訴える零を、頭のおかしいやつだと切り捨てて。その借りが、胸の奥でずっと疼いている。
「ねえねえ、ちょっと、暗くない?」結衣が、わざと明るい声を出した。張り詰めた空気を、どうにかゆるめようと。「こういうときこそ、笑っとかないと。ほら、蓮くん、なんか面白いこと」
「無茶ぶりが、すぎる」
軽口は、途中でしぼんだ。誰も笑えなかったからだ。結衣自身、それがわかっていた。わかっていて、それでも、やらずにいられなかった。放っておけないのだ。人のこわばった顔を。……それも、この子のいちばん古い傷から来る癖だった。そしてふと思う。わたしのこの“放っておけなさ”も、あの団体に、器として選ばれた理由の一つなんだ。優しさが、わたしを、ここへ連れてきた。そう思うと、自分の性格そのものが、仕掛けられた罠の一部みたいで、うすら寒かった。
◇
「……待って。みんな、止まって」
蓮だった。声の質が変わっている。だらけた同級生の顔が、探偵の顔に切り替わる、あの瞬間の声だ。
「ここ、変だ。おれたち、ずっとまっすぐ奥へ進んでるつもりだろ。でも違う。三つの家の位置を思い出してくれ。葦北の古民家。神奈備の洋館。巨石の豪邸。地図で言えば、ばらばらの三点だ。……なのに、その三つを繋いだ道が、ぜんぶ、この一点に集まってきてる」
蓮は、暗がりの中で、指を三本立てて、それをひとつの点に寄せてみせた。姿は見えないのに、その仕草だけが、なぜかはっきり伝わった。
「三角形の真ん中。三つの神域の、重心。……“第三の神奈備”は、四つ目の場所なんかじゃない。最初から、あの三つの家の、ど真ん中にあったんだ」
沈黙が落ちた。終の頭の中で、ばらばらだった絵がひとつにはまっていく。おれたちは、四つの家を順番に回っていたんじゃない。ひとつの中心を、外側から三方向で囲んで、少しずつ閉じていた。そういう罠だったみたいに。
「気づかなかった、おれたちが間抜けなのか」終が呻く。「それとも、気づかせないように、うまく作られてたのか」
「後者だろ」蓮が即答した。「一つずつなら、ただの心霊現象だ。三つ揃って、初めて地図になる。一人ずつばらばらに招いたのは、たぶん、そのためだ。全体像を、見せないため」
「じゃあ、なにか」科学の声が掠れた。「おれたちは、最初の一歩から、ここへ歩かされてたのか。三つの家に散らばったつもりで、その実、ずっとこの中心に向かって」
「たぶん」蓮が、眼鏡を押し上げる気配がした。「おれたちが自分で選んだ、って思ってた道は、最初から一本に繋がってた」
誰も、言い返せなかった。ふざけた同意書に笑って応募した、あの夜から。三つの検索窓を、それぞれの理由で叩いた、あの夜から。もう、盤の上に乗せられていた。――いや、と終は思う。もっと前からだ。おれが弟を失くした、二十年前の、あの火事の日から。おれがこういう人間に“育つ”ように、仕組まれていたとしたら。その考えが、足元から、すうっと体温を奪っていった。
結衣が、ぽつりと言った。「……なんか、悔しいね。ぜんぶ、手のひらの上って」
「ああ」終は答えた。「悔しい。けど、それなら、いっそ、ど真ん中まで行ってやる。手のひらの主に、直接、文句を言いに」
暗がりの奥で、その一点が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめた。鳥居でも門でもない。ただぽっかりと空いた、暗い入口。そこから、かすかに――子どもが口ずさむような、たどたどしい子守歌が流れてきた。
五人の足が、同時に止まる。そしてその歌に混じって、もう一つ。あの声が、小さく、小さく、聞こえた。『こないで』。歌と、拒絶が、同じ口から、同時に、漏れている。来てほしいのか、来てほしくないのか。その矛盾こそが、この入口の、正体だった。
行けば、たぶん、戻れない。それでも誰も、引き返そうとはしなかった。
読んでくれて、ありがとうございます。
“第三の神奈備”は、四つ目の場所ではなく、三つの家の、重心でした。――彼らが自分で選んだつもりの道は、最初から、一本に繋がっていた。いえ。もっと前から。終が弟を失くした、二十年前の火事の日から、かもしれません。あなたが今夜、この話を開いたのも、ほんとうに、あなたの意思でしたか。
入口の奥から、たどたどしい子守歌と、『こないで』が、同じ口から、同時に、漏れています。来てほしい。でも、来ないで。――その矛盾こそが、この入口の、正体です。
次回、五人は、“社の底”へ。もう、戻れません。
では、次の神域で。




