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第三の神奈備には絶対行くなっ!  作者: 源三郎


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第12話 社の底

 入口をくぐった瞬間、三つの家が、いっぺんに、襲ってきます。


 線香の匂い。振り子の音。記憶を削る、低い唸り。別々に味わってきたものが、ここでは、束になって。――足元には、暗い水面。その底で、たった一人、何百年、誰かが、歌っています。

 入口をくぐった瞬間。三つの家が、いっぺんに襲ってきた。


 線香の匂い。振り子の音。記憶を削る、あの耳鳴りのような低い唸り。別々の場所で順番に味わってきたはずのものが、ここでは同時に、束になって押し寄せてくる。


 「うわ、っ……!」結衣が、よろけた。蓮が、とっさにその腕を支える。


 足元は、ない。あるのは、暗い水面のような床と、そこにうっすら映る、いくつもの部屋の残像だった。葦北の座敷。神奈備の広間。巨石の湖。三つが透けて重なって、ゆらゆら揺れている。


 終は、いきなり胸を殴られたような気がして、膝をついた。感情が、外からなだれ込んでくる。誰のものとも知れない悲しみが。手放した子どもへの後悔。守れなかった娘への祈り。忘れられていく恐怖。全部が、いっぺんに心臓へ流し込まれる。


 「くそ……ここ、葦北の、何倍も、濃い……!」


 「終さん、息、止めるな! 吐いて、吸え!」蓮が叫んだ。自分だって、足元の時間が伸び縮みして、平衡を失いかけているのに。一歩がやけに遠い。次の一歩は、一瞬で済む。歩幅と時間が合わない。三半規管が悲鳴を上げていた。


 結衣は、両手で耳を押さえて、しゃがみこんでいた。記憶を削る唸りが、頭の芯を直接揺さぶってくる。今、自分がなんのためにここにいるのか、ふっとその理由が抜け落ちそうになる。そのたびに、蓮の背中を見て思い出す。この人を独りにしないため。それだけは忘れるものか、と。


 科学だけが、かろうじて立っていた。いや、立っていられるように、必死で数えていた。心拍。呼吸の回数。床の揺れる周期。数字にしがみついていないと、自分までこの渦に飲まれてしまう。怖いときほど、計る。それが科学の、たった一つの戦い方だった。



    ◇



 舞の様子が、おかしかった。さっきから一言も喋らない。科学が振り返ると、彼女はまた、あのなにも映さない目で宙を見ていた。


 「舞。おれの名前」


 「……えっと」


 「言え。おれの、名前だ」


 「……如月、科学」舞の声が震える。「……かがくん。ごめん、いま、一瞬、あなたの顔と名前が、繋がらなかった」


 科学は奥歯を噛んだ。神奈備の記憶剥離が、ここでは桁違いに速い。数分どころか、数十秒で根っこから削られていく。舞の手を握る指に、力を込めた。零にできなかったことを。今度こそ。


 「みんな、聞いてくれ」科学は、集音マイクの波形を片手で確認しながら言った。「わかった。ここが、なんなのか」


 「なんなんだよ、早く」終が、荒い息の下から返す。


 「主観時間の、束だ。三つの家は、それぞれ時間の進み方が違ってた。葦北はほぼ等速。巨石は外の一日が中の一年。神奈備はその中間。ばらばらの三本の時間が、ここで一本に撚り合わさってる」


 科学は、床に映る三つの部屋の残像を指さした。「だから、感情も記憶も時間も、同時に襲ってくる。ここは、三つの神域の合流点であり――たぶん、大元だ」


 「大元」蓮が繰り返す。「じゃあ、あの三つの家は」


 「枝、だな。この中心から三方向に伸びた枝だ。おれたちは、枝の先っぽから、順番に根元に向かって歩いてきた。……そういうことだと思う」


 科学の声は、努めて平坦だった。けれどその手が細かく震えているのを、舞は見ていた。この幼馴染は、恐怖を理屈で押さえつけている。押さえつけていないと、崩れてしまうから。


 「かがくん」「なんだ」「ちゃんと、こわがっていいよ。わたし、あなたの名前、忘れても、それだけは覚えてるから。あなたが、ほんとは誰よりもこわがりだってこと」


 科学は答えなかった。答えれば、声が震えるのがわかっていたから。ただ握った舞の手に、ほんの少し力を込めた。それが返事の代わりだった。



    ◇



 子守歌は、床のいちばん深いところから聞こえていた。水面に映る三つの部屋の、そのさらに奥。暗い井戸の底のような場所から。たどたどしい、けれど優しい旋律。歌詞は聞き取れない。ただひどく古い言葉のようだった。


 「……あの歌」蓮が呟く。「巨石の湖でも聞いた。水底から。あの子が口ずさんでた」


 「同じ子、ってことか」終が立ち上がる。膝が笑っている。それでも立った。


 その時。歌が、ふつり、と止んだ。代わりに、暗がりの底から声がした。子どもの声。なのに、ひどく年老いて聞こえる。何百年もの孤独をくぐり抜けた声だ。


 「……また、来たの」


 五人が息を呑む。


 「いつも、来る。いつも、途中でいなくなる。……あなたたちも、そう?」


 その声には、責める色も、すがる色もなかった。ただあきらめだけが静かに沈んでいた。何度も期待して、何度も裏切られてきた者の声だ。


 終の胸が、ぎゅっと締めつけられた。このあきらめ方を、知っている。取材で何度も見た。もう助けなんて来ないと、心の底から思い込んでしまった人の目。期待するのをやめることでしか、自分を守れなくなった人の声。それを、こんな幼い子が。


 「……そんなふうに、言うなよ」終は掠れた声で言った。「まだ、なにも始まってない。決めつけるな」


 「でも」少女の声は静かだった。「あなたたちも、どうせ途中で消えるでしょう。みんな、そう。優しくして、少しそばにいて、それからいなくなる。……そのほうがいいの。慣れてるから。最初から期待しなければ、寂しくないもの」


 その一言が、五人のそれぞれの古傷に、同時に触れた。置いていかれた者。置いていった者。守れなかった者。誰もが、その“あきらめ”の味を知っていた。


 ――そして、終は、ぞっとした。この子は、おれたちを慰めようとさえしている。自分がいちばん苦しいのに。「来ないほうがいい」と、おれたちのために言っている。その優しさの向きが、まるで、自分と同じだったから。おれも、誰かと深く関わるのがこわくて、先に距離を取る。傷つけたくないから、と言い訳して、本当は、自分が傷つくのがこわいだけ。この子の“あきらめ”は、おれの臆病と、同じ顔をしていた。


 舞が、ふらり、と前へ出た。記憶を削られ、意識が朦朧としているはずなのに。その一歩だけは確かだった。


 「……いなくならない」掠れた、けれどはっきりとした声で。「今日は、いなくならないよ。約束、する」


 暗がりの底で、なにかが息を呑んだ気配がした。そして井戸の底から、細い白い手が、床の水面を内側から押し上げるように――ゆっくりと、こちらへ伸びてきた。


 その手の先に、別の、濡れた大人の手が、もつれるように絡んでいた。助けを求めるのか、道連れにするのか、見分けのつかない掴み方で。五人は、まだ知らない。井戸の底で待っていたのは、少女、一人では、なかった。

 読んでくれて、ありがとうございます。


 「どうせ、途中で、いなくなるんでしょう」。少女の、あきらめきった声。――期待するのをやめることでしか、自分を守れなくなった人の、声です。それを、こんな幼い子が、何百年。


 そして終は、ぞっとします。この子の“あきらめ”が、自分の臆病と、そっくり同じ顔をしていたから。……あなたにも、覚えが、ありませんか。


 井戸の底で待っていたのは、少女、一人では、ありませんでした。もう一つ、濡れた大人の手が、もつれるように、絡んでいます。


 次回、水の底から現れる、“試験体一号”。


 では、次の神域で。

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