第13話 試験体一号
水面を割って現れる、痩せた、青白い腕。――それは、少女のものでは、ありません。
“視える”と言い張り、笑われ、消えた、峰岸零。彼が、どんな姿で、どこにいたのか。この回で、わかります。覚悟して、めくってください。
白い手は、少女のものではなかった。
水面を割って現れたのは、痩せた若い男の腕だった。手首から先が、暗がりの中でぼんやりと青白く光っている。その腕が、床の下から力なく宙を掻いていた。なにかを探すみたいに。
舞が、その手を見た瞬間。全身から血の気が引いた。「……零?」。声が出なかった。喉が震えて、音にならない。それでも舞は走り出していた。記憶を削られて、足元もおぼつかないのに。
「零! 零っ!」
水面の下に、彼がいた。峰岸零。二人のもう一人の幼馴染。「視える」と言い張り、笑われ、孤立して、ある日消えた男。その零が、暗い水の中に半分沈んでいた。目を開けたまま。けれどその目はなにも見ていない。頬はこけ、唇は色をなくしている。伸びっぱなしの髪が、水に揺れていた。あの人懐こく笑っていた男が、こんな抜け殻に。
舞の膝が崩れた。水際に両手をついて、覗き込む。「零……ねえ、零。わたし、舞だよ。わかる? わかるよね」。返事はない。ただ開いた目が、ゆっくりと瞬いた。その一度の瞬きだけが、辛うじて、彼が生きていることを告げていた。
◇
科学は、駆け寄って、水の中へ手を突っ込んだ。零の体は、氷みたいに冷たかった。「零! おれだ、科学だ! わかるか!」
零の唇が、かすかに動いた。「……みえ、る」「なに?」「ずっと……みえてた。……だから、つれて、こられた」
舞が口を押さえた。声を殺して泣いている。零の言っていたことは、ぜんぶ本当だったのだ。頭のおかしい戯言なんかじゃなかった。ただこの男は、本当に視えてしまっただけだった。
科学は、零を引き上げようとした。だが動かない。よく見ると、零の背中から、細い無数の根のようなものが、床の底へと伸びていた。青白く光る糸。それが彼を、この場所そのものに縫い留めている。
「なんだ、これ……! 舞、手伝え、引き剥がすぞ!」
二人で力を込めた、その時。
◇
空間全体が、ぐらり、と揺れた。子守歌が悲鳴のように跳ね上がる。三つの部屋の残像が、ばりばりと音を立てて裂けはじめた。終が頭を抱えてうずくまる。流れ込む感情が、一気に荒れ狂った。
「やめろ! 引くな!」叫んだのは蓮だった。「見えないのか、その糸! 零さんは、この装置に繋がれてるんじゃない。……装置の、一部に、されてるんだ! 無理に引き剥がしたら、封印そのものが崩れる!」
科学の手が止まった。零を助けたい。今すぐこの冷たい水から引き上げたい。けれどそうすればこの場所が崩壊する。あの少女も、自分たちも巻き込んで。零を救うことと、あの子を解き放つことは――たぶん、同じひとつの問題だ。だから簡単には抜けない。
「試験体、一号」科学の口から、あの赤い文字がこぼれた。「記憶剥離の耐性を測る。そのために、こいつをここへ。この装置に“視える”人間を繋いで、封印の状態を監視させてたんだ。生きたセンサーとして。何年も」
そしてその四文字の、冷たい意味に、科学は遅れて気づいた。一号。零が、一号。――なら、零の前に、ゼロ号が、いたはずだ。この装置を、いちばん最初に“試した”誰かが。神奈備の壁の、おびただしい引っかき傷。あれは全部、零のものにしては、多すぎた。古いものも、あった。乾いて、茶色く変色した、何年も前の傷が。零は、最初の被害者じゃない。ただいちばん新しい、被害者だった。
「なんて、こと」舞が呻いた。
科学の頭の中で、冷たい計算と熱い怒りが同時に回っていた。零は、ただ繋がれているんじゃない。この封印を内側から支える“部品”にされている。抜けば封印が緩む。緩めば少女の力が漏れる。敵は、人間ひとりを平然と機械の歯車に組み込んでいた。マニュアル通りに、事務的に。何人も。それが、なにより許せなかった。
「くそ……! なんで、こんな……!」
その時。零の濁っていた目に、ほんの一瞬だけ、光が戻った。科学と舞の顔を、順に見て。二十年ぶんの幼馴染の顔を、たしかにそこに認めて。零は、最後の力を振り絞るように言った。
「……かえって」「零?」「もう、いい。おれのことは、いい。ここは、だめだ。おまえら、まで……つれて、いかれる。だからはやく……かえって、くれ」
言い終えると、光はまた、すうっと消えた。抜け殻の目に戻る。
最後まで、こいつは、と科学は思った。こんなになっても。何年も独りで閉じ込められて。それでも真っ先に口にしたのが、“逃げろ”だった。恨み言でも、助けを求める声でもなく。おれたちを逃がそうとする。
――その“逃げろ”が、あの子の『こないで』と、同じ形をしていることに。科学は、まだ気づいていなかった。この装置に長くいた者は、みんな、最後にはそう言うようになる。自分を犠牲にして、来た者を遠ざける。まるで、その優しさこそが、この装置が人から搾り取る、最後の一滴みたいに。
「……ばか、野郎」科学の声が震えた。「誰が、帰るか。おまえを置いて、帰れるかよ」
舞が、水の中の零を抱きしめた。「帰らない」と繰り返しながら。「置いていかない。もう二度と、あなたを置いていったりしない」と。冷たい体温が、少しずつ舞の腕に移っていく。零はなにも言わなかった。ただ水面に小さな波紋が、ひとつ広がった。涙だったのかもしれない。
科学は、拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。――ぜったいに、連れて帰る。それはもう、祈りでも感傷でもなかった。この理不尽な装置の仕組みを暴いて、こじ開けて、零も、あの子も、まとめて外へ引きずり出す。科学の頭が、久しぶりに冷たく動きはじめた。恐怖の、その奥で。
読んでくれて、ありがとうございます。
零は、消えたのではなく、連れていかれていました。装置の、一部として。“試験体一号”。――一号がいるなら、ゼロ号も、二号も、いたはずです。あの壁の引っかき傷が、ぜんぶ、誰のものだったのか。
そして、こんな姿になっても、零が最初に言ったのは、“逃げろ”でした。――それが、少女の『こないで』と、同じ形をしていること。装置に長くいた者は、みんな、最後にはそう言うようになる。その“優しさ”こそが、この装置が、人から搾り取る、最後の一滴なのです。
次回、少女の、名前が、明かされます。
では、次の神域で。




