第14話 少女の名、あしかた
井戸の底の、座敷牢。膝を抱えた、小さな少女。――その隅に、片方だけの赤い靴が、いくつも、いくつも、積まれています。葦北で見た、あれと、同じものが。
壁には、数えきれない引っかき傷。それは、この子が、たった一人で、指で数えてきた、冬の数です。何百年ぶんの。
零を水の中に残したまま、進むしかなかった。
「必ず、戻る」。科学がそう言い聞かせて、手を離す。零の背から伸びた青白い糸をたどるように、五人は井戸の底へと降りていった。子守歌が、また聞こえはじめる。今度はすぐ近くから。
底には、小さな座敷牢のようなものがあった。格子の中に、膝を抱えた少女が座っていた。年の頃は十くらいだろうか。ぼろぼろの色あせた着物。長い髪が顔を半分隠している。その髪の隙間から、こちらをじっと見ていた。
「……こんばんは」結衣が、そっとしゃがんだ。いなくなった人を放っておけない女は、こういうとき、いちばん強い。
少女は答えなかった。ただ口をまた開いて、あのたどたどしい子守歌を口ずさむ。それだけが、自分を保つよすがであるみたいに。
◇
その時。終の目が、牢の隅で、止まった。
小さなものが、積まれている。子ども用の、靴。片方だけの、赤い靴が、いくつも、いくつも。終の息が、止まった。――葦北の、あの木箱。畳の下から出てきた、片方だけの、赤い靴。あれと、同じだ。
「……これ」終は掠れた声で言った。「集めたのか。あんたが」
あしかたは、こくり、と頷いた。「置いていくの。みんな。……わたしに、悲しいのを、預けて。身軽になって、帰っていく。わたしが預かってるあいだは、みんな、笑っていられるから」
牢の壁には、数えきれない引っかき傷があった。縦の線が束になって、何百、何千と。神奈備で見た、零のものと、同じ癖の。いや――零のより、ずっと古い。乾いて、茶色くなった傷も混じっている。終の背が、ぞくりとした。これは、冬の数だ。この子が、たった一人で、指で、数えてきた。何百年ぶんの、冬の。
蓮の頭の中で、点が繋がっていく。赤い靴。冬の傷。感情を映した、あの古民家。「……人柱、か」。声が低い。「飢えか、病か。村が、あんたを神さまに仕立てて。悲しみを、ぜんぶ、押しつけた。そうだな?」
あしかたは、否定しなかった。ただ、ぽつりと言った。「みんなが助かるなら、って。そう、教わったの。だから、預かった。村の悲しみを。……それから、村の外のも。終わりが来ないまま、何百年。ずっと、ひとりで」
壁が、ほんの一瞬だけ、ぼうっと光って、すぐ消えた。飢えた村が、涸れた田が、またたくまに今の街並みへ移り変わる、その断片。誰かがなにかを失うたび、細い糸が、この底へ吸い寄せられていく。その途方もない繰り返しの重さが、一瞬で、五人の肩にのしかかった。それ以上の説明は、もう、要らなかった。靴と、傷が、何百年ぶんを、語り終えていた。
「痛くないの? って、聞かれたこと、あるよ」少女はぽつりと言った。「昔、一人だけ、聞いてくれた巫女さまがいたの。わたし、答えたの。痛いよ、って。すごく痛いよ、って。……そしたら、その人、泣いてね。ごめんね、って。それから、次の日、いなくなっちゃった。年を取って。人は、みんな、そう。すぐいなくなる。わたしだけが、ずっと残る」
結衣が、こらえきれずに目元を拭った。蓮が、そっとその肩に手を置く。かける言葉が見つからなかった。何百年ぶんの孤独を、なぐさめられる言葉なんて、この世にあるはずがなかった。
◇
終は、拳を握りしめていた。この子は、恨んでいない。それがいちばんこたえた。これだけのことをされて、それでも村を、世界を、憎んでいない。ただ寂しいと、それだけを何百年も抱えている。
恨んでいたら、まだよかった。憎しみは、外に向かう。外に向かう限り、この子はまだ、自分を守れていた。でもこの子は、ぜんぶ内側に溜めた。悲しみを預かり、さらに恨みまで自分で飲み込んだ。だからこんなに静かなのだ。この静けさは、諦めじゃない。もっと深い、なにかが、とっくに壊れたあとの、静けさだ。終は、それに気づいて、ぞっとした。
「なあ」終は格子に近づいた。「ひとつ、聞いていいか。……あんた、名前は」
少女は、少し驚いたように顔を上げた。名前を聞かれるのは、いつぶりだろう、という顔で。「……あしかた」
その二文字を聞いた瞬間。蓮の眼鏡の奥の目が見開かれた。「葦北……!」「え?」結衣が振り向く。
「地名だと、思ってた。おれたちが最初に回った、あの古民家の集落の名前。“あしかた”。実在の芦北とは読みが違う、ってずっと引っかかってた。……違う。あれは、土地の名前じゃない」蓮は少女を見た。声が震えていた。「この子の、名前だ。いちばん最初にこの子を封じた村が、この子の名前をそのまま土地の名前にして、隠したんだ。だからあの家は――感情を映す家は、この子の心そのものに繋がってた」
少女――あしかたは、こくり、と頷いた。「わたしの名前を覚えてる人は、もういないと思ってた」。その声が、ほんの少し揺れた。何百年、“人柱”とか“神さま”とか、そんなふうにしか呼ばれてこなかった。名前で呼ばれたのは、いつぶりだろう。あしかた、という三文字の、自分の音を、彼女は遠いなつかしいもののように、口の中でそっと転がした。
「地名にまで名前を隠された」蓮が低く言った。「つまり、村はこの子の存在を、なかったことにしたかったんだ。神さまとして祀るふりをして。その実、いちばん恐れてた。自分たちがなにを犠牲にしたのか。それを思い出さないように、名前ごと地面に埋めた」
「ひどい話だ」終は吐き捨てた。「守ってもらっといて、名前まで奪うのかよ」
「ううん」あしかたは首を横に振った。「みんな、忘れたかったんだと思う。わたしのこと思い出すと、つらいから。わたしのために忘れてくれたの。それも優しさなんだよ」
どこまでも、その子は人を庇った。庇うことでしか、自分の存在に意味を見いだせない、というふうに。そして彼女は格子の隙間から細い指を伸ばして。終と科学と蓮の顔を、順に指さした。
「……ねえ。どうして、あなたたち、そんなになつかしい顔をしてるの」
三人の時間が、止まった。
「わたし、あなたたちのこと、知ってる。ずっと、むかし。……どこかで、会ってる」
その言葉に、終の腕に、ぶわりと鳥肌が立った。会ったことなど、あるはずがない。何百年も昔から、この底にいた子と。なのに、否定できなかった。葦北の家で、他人の記憶があんなにも自分のものみたいに流れ込んできた、あの感触。あれは、血だった。この子を、ずっと見てきた、血の。おれの体のいちばん奥が、この子を、知っている。知っていて、ずっと、見捨ててきた。
読んでくれて、ありがとうございます。
少女の名前は、あしかた。――最初の物件の、地名でした。いちばん最初にこの子を封じた村が、その名を、土地の名に変えて、地面ごと、埋めたのです。神さまとして祀るふりをして、本当は、なにを犠牲にしたのか、思い出したくなかったから。
そして、あしかたは、恨んでいません。これだけのことをされて、村にも、その末裔にも、微笑んでいる。――その“恨まない優しさ”こそが、この子を何百年も縛ってきた、いちばん強い鎖でした。
「どうして、あなたたち、そんなになつかしい顔をしてるの」。終の体の、いちばん奥が、この子を、知っていました。
では、次の神域で。




