第15話 祈りという名の檻
少女の子守歌を、蓮が、知っていました。――幼いころ、母が、口癖のように、ハミングしていた旋律。
封じる側の、血。それが、六人の、母方に、流れています。あなたを、この夜へ呼んだのは、ほんとうに、偶然だったのか。――“選ばれる”条件が、この回で、ひとつ、明かされます。
なつかしい顔、と少女は言った。その意味を最初に掴んだのは、やはり蓮だった。
きっかけは、音だった。あしかたが、また、あの子守歌を、小さく口ずさむ。その旋律に、蓮の指が、ぴたりと止まった。
「……この歌」蓮の声が掠れた。「おれ、知ってる。小さいころ。母さんが、口癖みたいにハミングしてた。意味もわからないまま、ずっと。……なんで、母さんが、この子の歌を」
終も、はっとした。遠い、ほんの切れ端。火事の前の、母の、低い、やさしい声。――あれと、同じ旋律だ。覚えてもいなかったはずのものが、胸の奥から、せり上がってくる。
◇
蓮の眼鏡の奥が、見開かれた。点が、繋がっていく。「封じたのは、村だけじゃない。……封印が解けないように見張って、この歌を代々歌い継いできた家が、あるんだ。あの子を、この牢に縛りつけ続けてきた家が。その歌が、母さんの口に、残ってた。……九条の家は、ただの旧家じゃない。この地獄の、番人だ。おれたちの、母方の血が」
終が息を呑んだ。葦北で、身代わりの母の記憶に触れたとき。他人の悲しみが、あんなにも自分のもののように流れ込んできたのは。血が繋がっていたからだ。この子を封じた側の血が。だからあの家は終を選んで迎え入れた。
母のことを、終はほとんど覚えていない。七つのとき、火事で亡くした。母方の親戚とも疎遠なまま大人になった。だから知らなかった。自分の血のいちばん奥に、こんな途方もない“役目”が眠っていたなんて。
「なあ、蓮」終が掠れた声で言った。「じゃあ、おれたちの母さんは。あの人も、この子を閉じ込める側の人間だったのか」
「たぶんな」蓮は静かに答えた。「でも、恨むなよ、兄貴。母さんは、その血から逃げたんだと思う。だから山を下りた。おれたちを巫女になんて、させたくなかった。この地獄の番人になんて」
その一言に、終はなにも返せなかった。会ったこともない母の顔が、ふいに、この格子の中の少女と重なった気がした。
「おれと、結衣も、同じか」科学が掠れた声で言った。舞と結衣が、はっと顔を上げる。「三つの神域。感情の家、記憶の家、時間の家。それを代々“管理”してきた家が、それぞれあったはずだ。おれたちは、みんな、その末裔なんだ。あの子を閉じ込め続けてきた、側の」
結衣の顔が歪んだ。「じゃあ……わたしたちのご先祖さまが、この子を……?」
少女は、静かに頷いた。責める色は、やはりなかった。「みんな、優しかったよ」少女は言った。「わたしを封じた人たちも、みんな泣きながら手を合わせてた。ごめんね、ごめんね、って。あなたのおかげで村が生きてるって。だからわたし、恨めなかった。今も恨んでない」
その、恨まない、という一言が、五人の胸をいちばん深く抉った。恨んでくれたら、まだ楽だった。憎まれたら、償う相手がはっきりする。けれどこの子は、自分を封じた者の末裔にすら、優しく微笑んでいる。ごめんね、でも、あなたのおかげで、って。その優しさが、逃げ場を塞ぐ。もう、知らんぷりはできない。
どこまでもこの子は、そうだった。自分の痛みより、他人の痛みを先に考える。その“優しさ”こそが、この子を何百年もこの牢に縛りつけてきた鎖の、正体だった。蓮は、そのことに気づいて唇を噛んだ。
――そして蓮は、もう一つ、嫌なことに気づいていた。巫女の血。深い喪失。この二つを兼ね備えた人間を、団体はどうやって見つけた? 答えは、簡単だ。巫女筋の家系図を、代々、追い続けていればいい。そしてその血筋の子どもが、“深い喪失を負う”のを、待てばいい。……あるいは。負わせれば、いい。終の弟が消えた火事。結衣の兄が消えた事故。それらが、ぜんぶ偶然だと、誰が言えるだろう。器を育てるために、わざと傷をつける。そんなことまで、あの連中なら、やりかねない。蓮は、その考えを、口には出さなかった。出せば、兄が壊れる。
◇
「……なるほどねえ。そこまでたどり着きましたかぁ」
背筋の凍る、間延びした声が、暗がりに響いた。いつのまにか、座敷牢の向こう側に、あの女性社員が立っていた。相変わらず歳の読めない顔で笑っている。手には、あの契約のファイルを抱えて。
「お見事ですぅ。深い喪失を持ち、そのうえ、あの子を封じた“巫女筋”の血を引く。そんな都合のいい“鍵”は、探してもなかなかいないんですよぉ。だからうちは、日本中の戸籍を、丁寧に、丁寧に、洗いましてねぇ」
「てめえ……!」終が格子を離れて、女に詰め寄る。
「あらあら、こわい」女は一歩も引かない。「でも、感謝してほしいくらいですよぉ。あなたがた、ずっと心に穴を抱えて生きてきたでしょう? わたくしどもが、その穴にちゃあんと意味を与えて差し上げるんです。……この子の封印を解く、という、大切な、大切なお役目を」
「意味だと?」科学が詰め寄る。「零を、あんな姿にして。人の家系まで洗いざらい調べ上げて。それを“意味”なんて言葉で飾るな」
「飾ってなんか、いませんよ」女は心外だ、というふうに微笑んだ。「事実を申し上げてるだけ。あなたがたは、生まれたときから、この日のためにいたんです。深い喪失を抱えるように。傷つくように。そのほうが、器として“よく育つ”。……そう思えば、あなたがたのこれまでのつらい人生も、ぜんぶ無駄じゃなかった。すてきでしょう?」
その、悪意のない口ぶりが、いちばん寒かった。この女は本気でそう思っている。人の一生を、器を育てるための養分だと。そして終は、蓮がさっき呑み込んだ考えに、別の角度から、たどり着いてしまった。――傷つくように。この女は、今、そう言った。おれが弟を失くしたのも、この連中にとっては“予定通り”だったのか。その可能性を、終は、必死で考えないようにした。考えたら、立っていられなくなる。
結衣が、ぐっと拳を握った。「……ふざけないでよ。人の人生を、なんだと」
女の笑みが深くなる。「もう、九割がた解けてるんですよ。あなたがたが三つの家で、この子の悲しみに優しく寄り添ってくれた、おかげでねぇ。あと、少し。……あと少しで、この子は“生まれ直す”」
少女が、びくり、と肩を震わせた。その顔に、初めて、恐怖に似た色が走る。「いや」少女が呟いた。「……いや。それは、いや」
女性社員は、その怯えを愛おしむように見つめて。「さあ。最後の仕上げを、始めましょうかぁ」
読んでくれて、ありがとうございます。
深い喪失と、あの子を封じた巫女筋の血。――団体は、日本中の戸籍を洗い、その二つを兼ね備えた“鍵”を、探し当てた。いえ。待っていたのかもしれません。その血筋の子どもが、“深い喪失を負う”のを。あるいは、負わせるのを。
終の弟が消えた火事。結衣の兄が消えた事故。それが、ぜんぶ、偶然だと、誰が言えるでしょう。あなたの人生の、いちばん深い穴も。
「さあ。最後の仕上げを、始めましょうかぁ」。――少女の体が、内側から、こじ開けられはじめます。
では、次の神域で。




