第16話 浄化の設計図
女が、その“夢”を、語ります。
壁に映し出されるのは、見慣れた街の、雑踏。――けれど、どの顔にも、目鼻がありません。悲しみも、喜びも、根こそぎ削られた、のっぺらぼうの群れ。
それが、彼女の言う、“救い”の、ゴールです。
「仕上げって、なんだ」科学が女を睨んだ。「この子を生まれ直させて……お前ら、いったい、なにがしたい」
女性社員は、少し考えるように首を傾げた。それから、初めて、あの貼りついた笑顔を、すっと消した。素顔は、思ったよりずっと疲れて見えた。
女性社員は、答える代わりに、座敷牢の壁へ、そっと手を向けた。
壁が、ぼう、と白く光る。映し出されたのは、見慣れた街の雑踏だった。大勢の人が行き交っている。――けれど、どの顔にも、目鼻がなかった。のっぺりと均されて。誰も泣いていない。誰も笑っていない。悲しみも喜びも根こそぎ削り取られた無表情の群れが、声もなく歩いている。母を亡くして泣く顔も、子を待って笑う顔も、ただのひとつもない。
終の足が、思わず後ずさった。喉の奥がひくついて、声にならない。ぞっとするほど静かで、ぞっとするほど空っぽの、それは、地獄よりもなお、こわい光景だった。
「……これが、ゴールです」女が、静かに言った。初めて、あの貼りついた笑顔を消して。素顔は、思ったよりずっと疲れて見えた。「悲しみのない、まっさらな世界。この子に、世界中の悲しみをいちど吸わせて、この子ごと、消す。そうすれば、もう誰も、傷つかずに済む。……わたくしは、それを“浄化”と呼んでいます」
「“先生”が遺した設計図です」とだけ、女は付け足した。その一言に、まだ上がいる、と蓮は眉を動かした。だが今は、追っている場合ではなかった。その背後で、格子の中のあしかたが小さく呻く。零の糸が一本、ぴん、と張りつめた。女が夢を語るこの間も、装置は誰の許しも待たず、じわじわと少女をこじ開けにかかっていた。
――そして、終は気づいた。のっぺらぼうの群れの、いちばん手前。背格好が、おれに似ている。その隣に、弟に似た、小さな影。顔のない二人が、手を繋いで歩いている。悲しみも、再会の喜びも、ぜんぶ削り取られて。おれと蓮が、二十年かけて取り戻したものを、この女は“なかったこと”にしようとしている。それが、救いだと信じて。終の背を、本物の怒りが、冷たく走った。
◇
「……正気か」終が呻いた。「世界を造り替えるだと? 悲しみを消す? そんなの、ただの皆殺しと、なにが違う」
「違いますよぉ」女の声に、初めて熱がこもった。「殺すんじゃない。“無かったことに”するんです。今、生きてる人が、誰も傷つかずに済むように。……あなたには、わからないでしょうねぇ。傷が、ない人には」
その言葉の奥に。ふと、舞がなにかを感じ取った。心理を読むことにかけては、誰よりも確かな女が。「あなたも、なんですね」舞が静かに言った。「なにか、大切なものを失った。それも、たぶん、取り返しのつかない形で」
女性社員の笑顔が、ほんの一瞬、崩れた。「……昔ね」女はぽつりと言った。「わたしにも、小さな娘がいたんですよ。事故で、ね。あっけなく。……わたし、思ったんです。もし、この世に“悲しみ”なんてものがなかったら。あの子がいなくなっても、わたしは、こんなに苦しまずに済んだのに、って」
誰も、言葉を返せなかった。
「だから、消すんです。悲しみを。世界から根こそぎ。もう二度と、わたしみたいな人間が生まれないように。……ねえ、優しいでしょう?」
その理屈は狂っていた。狂っていたけれど、出発点だけは、この五人の誰よりも切実な痛みだった。だからこそ、寒かった。悲しみに押し潰された人間が、悲しみそのものをこの世から抹消しようとしている。
「……気持ちは、わかる」ぽつりと言ったのは、終だった。女性社員が、意外そうに目を上げる。「おれも、思ったことあるよ。弟を失くしたあと。この痛みが最初からなけりゃよかったって。忘れられたら、どんなに楽かって。……でもな」終は、格子の中の少女を見た。「あんたの言う“浄化”は、痛みを消すんじゃない。痛みごと、“あの子がいた事実”まで消すんだ。おれが弟を忘れるのと同じだ。それは楽になるんじゃない。いちばん大事なものを、二度、殺すことだ」
女性社員の笑みが、ほんの一瞬、揺らいだ。遠い昔に、自分もそう思えたかもしれない、そんな道の存在を突きつけられたように。だがそれはすぐ、固い笑顔の下に隠れた。
◇
「――でも、あなたたちは、もう要らない」
女が、ぱちん、と指を鳴らした。座敷牢の格子が、ぎしり、と軋む。零の背から伸びた青白い糸が、一斉に張り詰めた。空間全体が、鈍い光を放ちはじめる。
「封印は、九割解けている。あとの一割は――力ずくでこじ開ければいい。あなたがたが優しく解いてくれるのを待つつもりでしたけどねぇ。手間をかけさせないでください」
「待て、やめろ! 力ずくで壊したら――」科学の警告は、間に合わなかった。
装置が、悲鳴のような音を立てる。少女が頭を抱えてうずくまった。彼女の中で抑え込まれていた、何百年ぶんの悲しみが、行き場をなくして荒れ狂いはじめる。三つの部屋の残像が、暴風に煽られたように、めくれ上がった。
「まずい……!」蓮が叫んだ。「無理やり解けば、あの子の力が制御できずに暴発する! そうなったら、“浄化”どころか――なにもかも、めちゃくちゃに吹き飛ぶ!」
「あしかた!」結衣が格子にしがみつく。「しっかりして! こっち、見て!」
けれど少女の耳には、もう届いていないようだった。抑え込まれていた感情が、堰を切っている。彼女の周りで、三つの部屋の残像が、砕けた鏡のようにばらばらに飛び交った。葦北の畳。神奈備の壁。巨石の水。破片のひとつひとつが、刃物のように宙を裂く。
そしてその破片の表面に、顔が映った。少女のものではない。終の顔。蓮の顔。舞の、結衣の、科学の顔。砕けた鏡のかけらの、どれにも、五人の顔が、無数に映り込んでいる。――まるで、次に器になるのは、おまえたちだ、と、見せつけるみたいに。
「みんな、伏せろ!」終が叫んだ。科学はとっさに舞を抱えて床に転がった。破片が頭上をかすめていく。零の背から伸びた糸が、一本、また一本と鈍い音を立てて切れていった。そのたびに、装置の唸りが一段ずつ高く狂っていく。少女の口から、細い悲鳴が漏れた。それはもう、子守歌ではなかった。
読んでくれて、ありがとうございます。
悲しみのない、まっさらな世界。――それは、痛みを消すのではなく、痛みごと、“その人がいた事実”まで、消してしまう。いちばん大事なものを、二度、殺すこと。
女自身も、娘を亡くしていました。悲しみに押し潰された人間が、悲しみそのものを、この世から、抹消しようとしている。狂った理屈。けれど、出発点だけは、誰よりも切実な、痛みでした。だからこそ、寒い。
そして女は、封印を、力ずくでこじ開けはじめます。制御を失った、何百年ぶんの悲しみが、荒れ狂う。砕けた鏡のかけらに映るのは――次に器になる、六人の、顔。
では、次の神域で。




