第17話 五十七年の、その先へ
暴発しかけた少女を、子守歌で、かろうじて宥める。その綱渡りの上で、科学が、たった一つの“穴”を、探します。
壁という壁から、何百年ぶんの死者が、顔を出し、手を伸ばしてくる。――『いっしょにいて』と、骨の芯に、直接、ねじ込みながら。
少女の悲鳴が、空間を軋ませる。このままでは暴発する。女性社員は格子の向こうで腕を組み、ただ眺めていた。壊れるなら壊れるで、かまわない、とでもいうように。
「舞、結衣! あの子のそばで歌え! 聞き慣れた、あの子守歌を!」科学が叫んだ。二人が格子にしがみつき、たどたどしく旋律をなぞる。少女の悲鳴が、ほんの少しだけ和らいだ。
そのわずかな猶予を、科学は賭けに使った。ありったけのセンサーを床に突き立て、波形を睨む。やがて、答えが返ってきた。心を揺さぶる帯。記憶を削る帯。時間を歪める帯。三つの神域で別々に浴びたものが、ぜんぶ、この子ひとりに集まっている。分散されず、逃がされず、たった一人に。
「……一点に、集めてる」科学の声が掠れた。「分ければ安定するのに。わざと、独りで全部抱えこめって、作ってある。悪意みたいに」
その設計に、蓮が、はっと顔を上げた。
◇
「五十七年、だ」蓮が呟いた。「巨石の、あの手紙。五十七回、冬を数えた親。娘を逃がすために、たった一人で時間を喰われた、あの人」
蓮は少女を見て、それから水の中の零を見た。「同じなんだ。この装置は、“一人で背負え”としか作れない。だから、あの親も、零さんも、この子も、みんな独りだった」
「善意で作られた地獄が、いちばんたちが悪い」蓮が吐き捨てた。「全部、“尊い犠牲”って美談の、生き残りだ」
「……ふざけてる」終が低く言った。「悲しいときぐらい、誰かが隣にいたって、いいだろうが」
その言葉に応えるように――零の糸が、ぷつり、と切れた。
◇
とたんに、堰が切れた。
三つの部屋の、壁という壁から、人の顔が浮かび上がる。飢えて死んだ村人。炎に還った母。冬を数えた親。零に似た、削れかけの顔。何百年ぶんの死者が、声もなく口を動かし、こちらへ手を伸ばしてくる。壁から、床から、天井から。何十本もの、透けた腕。助けを求めるのか、道連れを探すのか、見分けがつかない。
「ひっ……」結衣の髪を、伸びてきた一本が、ふわりと撫でた。氷みたいに冷たい。別の一本が、終の足首をつかむ。振り払っても、またつかむ。力はない。ただ、すがってくる。「連れていって」でも「助けて」でもなく、「いっしょにいて」と、そればかりを、骨の芯に直接ねじ込んでくる。終の胸の、偏って背負った器のあたりが、ずきりと応えた。――わかる。この感じを、おれは知っている。それが、いちばん、こわかった。
顔は、途切れなかった。壁をめくるたび、その奥に、また別の顔。何百年ぶんが、層になって、重なっている。いちばん古い顔は、もう、目鼻もおぼろだった。名前を呼ばれることも、弔われることもなく、ただこの子の中で、薄れながら、待っていた顔。この子は、それを、一人で、全部、見てきたのだ。何百年。まばたきもせず。
ぞろり、と床から黒い水が湧いた。みるみる、くるぶしまで。その水面に、ぷかり、ぷかりと、浮いてくるものがある。
子ども用の、赤い靴。片方だけの。葦北の木箱で見た、あれと、そっくりの。
一つではなかった。二つ、五つ、十――数えるそばから増えていく。何十、何百。あしかたに悲しみを預けて消えた、名もない子どもたちの、忘れられた片割れだ。履き手のいない靴が、水面を埋め尽くし、ひたひたと、六人の足元へ寄せてくる。まるで、次はおまえの番だ、と言うように。終は、そのうちの一足から、目が離せなかった。二歳の子の、小さな、小さな靴。――弟が、あの日履いていたものと、同じ大きさだった。
科学の血の気が引く。装置の画面に、赤い警告が灯った。強引な破壊で、機構が限界に近い。
「舞、結衣、歌を止めるな! あの子が鎮まってる間だけ、こっちももつ!」
舞と結衣が、掠れた声で旋律を繋ぐ。二人の喉は、もう嗄れかけていた。歌うのをやめれば、顔たちがいっせいに距離を詰める。つづければ、死者の悲しみが、歌う側の胸にも、少しずつ染みてくる。結衣の目から、理由のわからない涙が、止まらなくなっていた。誰の悲しみかも知らないまま、体だけが、先に泣いている。それでも、二人は、口を閉じなかった。その綱渡りの上で、科学は指を動かし続けた。
「このペースだと、封印が崩れる前に、零が装置ごと焼き切れる。……もって、あと数十分だ」
舞が、歌いながら涙をこぼした。助けたい。あの子も、零も。でも無理に壊せば暴発する。放っておけば、零を失う。どちらも地獄だった。
それでも科学は、キーを叩き続けた。この残酷な設計の、たった一つの穴を探して。――ただ、口にできない計算が、頭の隅で回っていた。分散には、受け皿がいる。受け皿は、ただじゃ済まない。一人から何年も搾り取ってきた装置だ。分けて背負う自分たちも、きっと、ただでは帰れない。その答えを、科学は、まだ誰にも言わなかった。
読んでくれて、ありがとうございます。
この装置は、“一人で背負え”としか、作れない。だから、巨石の親も、零も、あしかたも、みんな、独りでした。――善意で作られた地獄が、いちばん、たちが悪い。ぜんぶ、“尊い犠牲”という美談の、生き残りです。
科学は、答えに、たどり着きます。けれど、口にできない計算が、ひとつ。――分けて背負う自分たちも、きっと、ただでは、帰れない。その代償が、どれほどのものか。それは、まだ、誰にも、言いませんでした。
では、次の神域で。




