第18話 四つの扉、もう一度
「選ばせて、あげますよぉ」
やさしい声ほど、信じてはいけない。四つの扉。どれを開けても、支払うのは、あなたの中の誰かだ。何もしない――凍え続ける子を、見殺しに。壊す――まとめて消し飛ぶ。生まれ直させる――あなたの大切な人が、最初からいなかったことに。
そして四つ目の扉の向こうには、まだ、名前のない代償が、息を潜めている。
「選ばせて、あげますよぉ」
女性社員が、猫なで声で言った。暴走しかけた装置を、指先ひとつでいったんなだめながら。「そんなにこわい顔をしないで。道は、いくつかあるんです。ちゃんと教えて差し上げますから。ね?」。女は、指を四本立てた。
◇
「ひとつめ。なにもしない。このまま封印を締め直して帰る。世界は今まで通り安全です。飢えも病も、この子がぜんぶ預かってくれてますからねぇ。ただし、この子はこの先も永遠に独りきり。零くんも装置の一部のまま。あなたがたは、それを“知っていて”見捨てることになる」
女が指をひとつ鳴らした。とたんに空気が凍った。あしかたを囲む格子が、ぎち、と音を立てて締まる。水の中の零の唇がみるみる青ざめ、睫毛に白い霜が降りた。あしかたの吐く息だけが、暗がりに白く細く立ちのぼる。永遠に独りきり。その言葉が、肌を刺す本物の寒さになって、六人を包んだ。何百年、この冷たさの底に置き去りにする――そういう選択だと、頭ではなく体でわからせるように。
終の拳が震えた。それは無理だ。この凍える目を見てしまった今となっては。
その迷っているわずかな間にも。零の糸が、また一本、ぶつり、と切れた。零の体がび、と跳ねる。少女の悲鳴が一段高くなり、床の水がばしゃりと跳ねた。――と。あしかたの頬に、ぴし、と白いひびが走った。陶器が割れるみたいに。その隙間からまばゆい光が漏れ出す。団体の強引な力にこじ開けられて。あの子の体そのものが、内側から崩れはじめていた。悩む時間さえ、この場所はもう待ってくれない。
「早く、しろよ」科学が歯の間から絞り出す。「講釈はいい。こうしてる間も、零が削れてってるんだ」
「あらあら。急かさないでくださいな」女は悠然と続けた。他人の命が削れていくのを、余興でも眺めるように。
「ふたつめ。壊す。装置を力ずくでぶち壊す。手っ取り早い。でもさっき見たでしょう? 制御を失った悲しみが、どう暴れるか。運が悪ければ、この子も零くんもあなたがたも、まとめて消し飛ぶ。いちばん確実な、最悪ですねぇ」
女がまた指を鳴らす。今度は装置が、びくん、と痙攣した。空間に稲妻みたいな亀裂が走り、その一本が結衣の頬を薄く裂く。ぱっ、と血が散った。「っ、いった……」結衣が頬を押さえる。指の間から赤い筋。もしあれが本気だったら、頬どころじゃ済まない。
「壊すのは、なしだ」科学が低く言った。「賭けられる確率じゃない」
言い切るそばから、また糸が二本続けて切れた。あしかたの腕に走ったひびが、じわりと広がる。指の先が光の粒にほどけて、ぼろり、とこぼれ落ちた。宙に溶けて消える。「い、た……っ」あしかたが初めて痛みに顔を歪めた。崩れていくのを必死でこらえるように、自分の体を両腕で抱きしめる。「ごめん、ね……わたし、うまく、保てなくて……」
結衣が格子にしがみつく。「謝らなくていい! あんたは、なにも悪くない!」だがそのあいだにも、あしかたの二の腕がひとつ崩れ、光になった。
「みっつめ。わたくしどもに任せる。この子を“生まれ直させる”。悲しみのない、まっさらな世界を造る。あなたがたの痛みも、そのときぜんぶ無かったことになりますよぉ。……手を離した弟も、消えた幼馴染も、亡くした兄も。最初からいなかったことにしてあげる」
その瞬間。結衣の頭の中から、す、となにかが抜けた。兄の顔。いつでも思い出せたはずの、あの優しい笑顔が。輪郭からじわりとぼやけて、溶けて、消えかける。頭がふわりと軽くなった。二十年、抱えてきた悲しみの重さごと。……ああ、楽だ。そう一瞬、思ってしまった。それが、なによりこわかった。
「――返して!」結衣が悲鳴を上げて、自分のこめかみを両手で押さえた。溶けかけた兄の顔を必死でたぐり寄せる。じりじりと輪郭が戻ってくる。全身に脂汗が噴いていた。「……いや、だ」結衣が絞り出すように言った。「兄ちゃんが、いた。ちゃんと、いたの。……その思い出まで消えるくらいなら、わたし、痛いままでいい。ずっと、痛いままでいい」
舞も、静かに頷いた。「零を忘れてしあわせになるくらいなら。わたし、覚えてる痛みを選ぶ」
女性社員は、やれやれ、というふうに肩をすくめた。「みなさん、強情ですねぇ。そこが器として優秀なんですけど。……いちばん扱いにくいところでもある」
その余裕の裏で、装置の唸りがまた一段跳ね上がった。あしかたの膝から下が、砂の城が崩れるみたいに、さらさらと光に溶けていく。もう立っていられない。その場に崩れ落ちた小さな体を、舞が格子越しに必死で抱きとめた。
「はやく……」あしかたが掠れた声で言った。「わたし、もう、あんまり……もたない、かも。だからいいの。無理、しないで。ね?」
◇
「よっつめ、は」声を上げたのは蓮だった。ずっと黙って考え込んでいた、探偵の顔で。「あんたが言わない四つ目が、あるはずだ。この子を暴れさせずに、穏やかに解く方法。悲しみを消すんじゃなくて、抱えたまま、外に出してやる方法が」
女性社員の笑みが、すっと細くなった。「……あるかも、しれませんねぇ。でもそれはいちばん割に合いませんよ。誰かが、この子の悲しみを“引き継ぐ”ことになりますから。タダで、というわけには、ねぇ」
“引き継ぐ”。その言葉と同時に。六人の肩に、ずしり、と見えない重石が乗った。少女の何百年ぶんの悲しみの、ほんの糸くずほどの端切れ。それがかすめただけで、全員の膝ががくりと折れた。息が詰まる。目の奥が熱い。誰の記憶とも知れない無数の冬が、後頭部を殴りつけてくる。
これを。この重さを、丸ごと背負うのか。想像しただけで心臓が軋んだ。
「……それ、代償は、どれくらいだ」科学が、掠れた声で聞いた。数字で、確かめずにいられなかった。
「さあ?」女は、初めて、心から楽しそうに笑った。「やってみないと、わかりませんねぇ。この子が何百年ぶん溜めたものを、六人で割る。一人あたり、何年の見当か。……計算、できます? わたくしには、できません。だって、誰も、生きて帰って報告してくれたことが、ないんですものぉ」
科学の背筋が凍った。わからない。それが、答えだった。数年で済むのか、それとも。この装置は、入った者から、搾れるだけ搾る。どれだけ払うことになるか、払ってみるまで、誰にもわからない。確実なのは、ただひとつ。――ただでは、帰れない。
沈黙が落ちた。どの扉を開けても、誰かが確実に失う。その“誰か”を決めあぐねている、その間にも――零の糸がまた切れた。ぶつり、ぶつり、と。もう半分も残っていない。焦げた匂いが鼻をつく。
「……正解が、ないんだ」終が呻いた。「どれを選んでも、なにかを失う。きれいな逃げ道なんて、どこにもない。なのに、時間だけは勝手に減ってく」
「そうですよぉ」女は歌うように言った。「人生って、そういうものでしょう? だから、みなさん悲しむんです。だからわたくしは、それをぜんぶ消して差し上げたい」
「……正解が、ないなら」終が低く言った。「作るしかないだろ。四つの扉、どれも気に入らない。なら、五つ目をこじ開ける。用意された選択肢の中から選ぶんじゃない。おれたち専用の答えを、無理やりひねり出すんだ」
無茶な理屈だった。けれどその無茶を、この男は記者時代から何度もやってきたのだろう。用意された筋書きを疑って。終の目には、久しぶりにあの頃のしつこい光が戻っていた。
科学が、ふ、と笑った。「非現実的だ。……でも、嫌いじゃない、その発想」
女性社員だけが、笑っていなかった。盤上の駒が、盤そのものを疑いはじめた。その想定外の気配に。
蓮は答えなかった。ただ眼鏡を押し上げて、水の中の零を見た。それから格子の中の少女を見た。頭の中で、なにかが動きはじめている。ばらばらの点が、また線になろうとしていた。四つ目の扉を開ける、その鍵のかたちが。
零の糸が、ぶつり、ぶつりと切れていく。その音を、数えないでほしい。数えた数だけ、この話はあなたの背後に、冷たい手を置く。
正解は、ない。用意された選択肢の中に、救いは一つも仕込まれていない。――では、どうする。選ばないという地獄の中で、時間だけが、残酷に減っていく。




