第19話 受け皿の作り方
悲しみは、消えない。移すことしか、できない。
一人に縛りつけられた何百年を、分かつ。その理屈は、美しい。けれど「受け皿になる」とは、あなたの残りの人生から、何年ぶんかを、黙って抜き取られることだ。いくら取られるかは――流し込んでみるまで、誰にもわからない。
「……科学。ひとつ、確かめたい」蓮が、探偵の静かな声で言った。「この装置は、悲しみを“一人”に縛る設計だ。なら、その縛る先を、増やせたら?」
科学の指が止まった。鼻の頭に手が伸び、それから、はっと顔を上げる。「……分散、できる。受け皿を、一人から、何人かに」
「できるのか」
「理屈は通る。あとは、子守歌だ。あれが、封印の鍵も、解く鍵も兼ねてる。おまえが歌の構造を読め。おれが機械を合わせる。……二人なら、たぶん」
長い説明は、要らなかった。蓮の眼鏡の奥が光る。水底のタイルを二進法に直したときと、同じ目だった。
◇
「でも、受け皿になれる人間なんて」結衣が言いかけて――そこで全員が、同じ答えにたどり着いた。
「……おれたちだ」終が呟いた。
深い喪失。あの子を封じた巫女筋の血。悲しみに共鳴しやすい心。団体が“器”として選び抜いた、その条件のすべてが、そっくりそのまま、受け皿の資格だった。
「敵がおれたちを鍵に選んだ、まさにその理由が」蓮が眼鏡を押し上げた。「この子を助ける鍵になる。……あいつらは、いちばん上等な受け皿を、わざわざここまで揃えてくれてたわけだ」
格子の向こうで、女性社員の笑みが、初めて凍りついた。「……お待ちなさい。それは、想定外の使い方ですよぉ」
「悪いな」終が、二十年ぶりに腹の底から笑った。「おれたち、説明書どおりに動くの、苦手でね」
◇
「ぐずぐずしてる暇はない。試すぞ」科学が機材を床に据えた。「一本だけ開く。おれが、最初の受け皿になる」
「かがくん、待っ――」舞の制止は、間に合わなかった。
科学がキーを叩く。唸りが変わり、周波数の一本が、す、と開いた。ほんの一滴。少女の悲しみの、ほんの一滴が、その隙間から科学へ流れ込む。
その瞬間だった。
科学が、声も出せずに、のけぞった。見たこともない光景が、彼の中へ雪崩れこむ。知らない女の泣き顔。嗅いだこともない線香。涸れた田。飢えた冬。他人の一生ぶんの悲しみが、たった一滴で、彼の背骨を内側から殴りつけた。――そして、その一滴が通り抜けたあとに、残していったものがあった。
科学の頬に、みるみる、線が刻まれていく。目尻に。口元に。黒かった前髪に、白いものが、一本、またたく間に混じる。何年ぶんもの時間が、一瞬で、その顔を駆け抜けた。
「かがくんっ!」舞が悲鳴を上げて肩を揺する。
「閉じろ、蓮!」蓮がとっさに子守歌を逆からたどる。開きかけた隙間が、ぐ、と閉じた。科学が床に膝をつく。荒い息。額の汗。ほんの数秒前より、確かに、老けていた。
「……見たか。今の」科学は、震える指で自分の頬の線をなぞった。「一滴で、これだ。……この装置は、時間を喰う。受け皿になれば、そのぶん、おれたちの“年月”が持っていかれる。あの同意書の第七条。“主観時間の延長”。脅しでも比喩でもなかった。これの、ことだったんだ」
全員が、息を呑んだ。数字で説明されるより、ずっとはっきりと、骨でわかった。
「六人で割れば」蓮が掠れた声で聞いた。「一人あたりは」
科学は、すぐには答えなかった。頬の線をなぞったまま。「……わからん」。それが、答えだった。「割れば薄くなる。それは確かだ。でも、どこまでかは、流し込んでみないと出ない。この子が何百年、溜めたか――器の底が、見えないんだ。一滴でこれだぞ。全部を、六で割っても」
言い切るのが、こわかった。「数年か、十年か。……戻ってこられないのか。やってみるまで、わからない。それが、本当のところだ」
誰も、すぐには口を開けなかった。ハッピーエンドには、値札すら、ついていなかった。自分の人生の“わからないだけの年月”を、ここへ置いていく。もしかしたら、ぜんぶを。
「……いちばん、たちの悪い条件だな」終が、ぽつりと言った。煙草に手は伸びなかった。「いくら取られるか、先に教えてもらえない」
「兄貴」
「けど」終は、崩れかけた小さな体を見た。「あの子は、もう何百年、払い続けてる。終わりも見えないままな。……おれたちの“わからない”なんて、まだ、ましだ。終わりが、あるかもしれないぶん」
蓮は、その横顔を、まぶしそうに見た。二十年、逃げてきた兄が、いま、値札のない代償に、迷わず手を伸ばしている。「……おれも払う。兄貴だけに、いい格好させるかよ」
「お前は高校生だろ」「兄貴は家賃あるだろ」「うるさい」
言い合う二人に、結衣がくすっと笑い、舞の頬もゆるんだ。崖っぷちで、それでも笑える。六人の覚悟が、少しずつ同じほうを向きはじめていた。
科学は機材を握り直した。白い髪が一本、揺れる。「決まりだな」。そして、心の中だけで付け足した。――位相が完全に揃わなければ、流れ込みは均等には割れない。弱い受け皿に、多く傾く。それが誰になるかは、やってみるまで、わからない。その最後の一言だけは、まだ、言わなかった。
たった一滴で、黒髪に白が混じり、頬に歳月が刻まれた。これが、一滴。器の底は、見えない。
ハッピーエンドには、値札すら、ついていなかった。自分の「わからないだけの年月」を、この底へ置いていく。もしかしたら、ぜんぶを。――それでも手を伸ばすのが、人間という、いちばん度しがたい生き物だ。




