第28話 兄と、弟、もう一度
二十年ぶんの空白。しかも、あいだの記憶はない。コンビニの店員は、二人を親子だと思って接する。あの一晩で、兄だけが、弟より、ずっと老けてしまったから。
――それでも、埋めようとする。おかゆ一杯に、二十年ぶんの後悔を込めて。だが、その優しさの裏側で、兄の輪郭は、静かに、溶けはじめている。
九条蓮は、市原終の部屋に転がり込んだ。もともと、家で待つ人間なんて一人もいなかった。母方の親戚の家は、居心地が悪かった。だから荷物は少なかった。ボストンバッグ、ひとつ。
「狭いぞ」終は玄関でそう言った。「配信の機材で、足の踏み場もない。文句、言うなよ」
「言わないよ」蓮は靴を脱ぎながら答えた。「……家が、あるだけで、御の字だ」。その一言に、終は少しだけ黙った。
◇
二人の暮らしは、ぎこちなく始まった。なにしろ、二十年ぶんの空白がある。しかも、あいだの記憶がない。終にとって弟は、二歳で消えたあの小さな手のまま。蓮にとって兄は、つい先日初めて会った、他人みたいな家族。
そのうえ、見た目の問題があった。あの一晩で、終だけが、ほかの誰よりも歳を取った。二十六のはずが、四十近い。十七の弟と並ぶと、どう見ても、兄弟には見えない。コンビニのレジで、店員が、二人を親子だと思って接する。そのたびに、蓮は、むっとした顔をして、終は、笑ってごまかした。
「……気にすんなよ」ある夜、終が言った。「見た目なんか。中身は、ちゃんと、兄貴だ」
「気にしてねえよ」蓮は、ぶっきらぼうに答えた。「ただ……兄貴が、おれのぶんまで、持ったから、こうなったんだろ。それを、おれが、気にしないわけ、ないだろ」
終は、なにも言わなかった。ただ少しだけ、笑った。老けた顔で。
◇
ある夜。蓮が、古い戸籍を広げていた。探偵の癖だ。気になったことは放っておけない。
「兄貴。……母さんのこと、調べてた。九条の家。あの巫女筋。母さんは、そこの一人娘だった。本当なら、母さんが次の“番人”になるはずだったんだ。あの子を封じ続ける、役目の」
「……逃げたんだよな。あの人」
「うん。家を捨てて。名前も変えて。山を下りた。……ずっと、“役目から逃げた薄情な人”だって思われてた。でも違う。逃げたんじゃない。守ったんだよ。おれたちを。こんな地獄の番人になんて、させたくなくて。だからぜんぶ捨てた」
終はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。「……あしかたと、同じだな。自分を犠牲にして、大事なやつを逃がす。“来るな”って遠ざける。……この血筋、みんな、それだ。不器用でさ」
蓮が、ふ、と笑った。「血、だな」「かもな」
火事で亡くなった母。顔もほとんど覚えていない。それでも今なら、少しだけわかる気がした。あの人が最後の最後まで守ろうとした、二つの小さな手のことを。「墓、行くか。今度」終が言った。「二人で。母さんに報告しないとな。兄弟、もう一回揃いましたって」「ああ」蓮が頷いた。「線香、忘れんなよ。兄貴、火、つけるの下手だから」「うるさい」
◇
ある日。蓮が熱を出した。たいした熱じゃない。ただの風邪だ。それでも終は、仕事を放り出して帰ってきた。汗を拭いて。水枕を替えて。おかゆを作って。作りすぎて、鍋いっぱいになった。
「そんなに、食えないって」蓮が布団の中から呆れる。
「食え。……いいから、食え」
終の手つきは必死だった。おろおろしていた。たかが風邪なのに。蓮は、その慌てふためく兄を見ていて、ふと気づいた。ああ、この人は。二十年前、火事の日のあの後悔を、今、埋めようとしてるんだ。あの日守れなかった弟を。今度こそ守ろうと。おかゆ一杯に、二十年ぶんの後悔を込めて。
「……兄ちゃん」その呼び方が、口からこぼれた。自分でも驚くくらい、自然に。終の手が止まった。おたまを握ったまま。二歳のとき以来だった。蓮がその言葉を口にしたのは。いや――蓮自身は、覚えていない。覚えていないのに、体のいちばん奥が覚えていた。この人をそう呼んでいた、遠い日を。
「……なんだよ」終の声が掠れた。「なんでも、ない。……ただ、呼んでみただけ」
終は背中を向けた。おかゆをよそうふりをして。肩が、小さく震えていた。人混みで、ふっと軽くなったあの小さな手。二十年、その感触だけが、終の手のひらに残っていた。もう、離さない。今度は、絶対に。その握りしめた手のひらに、今はちゃんと、弟の「兄ちゃん」という声が、あたたかく収まっていた。
――ただ、その夜。蓮が寝入ったあと。終は、台所で、一人、立ち尽くしていた。おかゆの鍋を見ながら。ふいに、別の光景が、こみ上げてきたのだ。炎の中で、子を突き飛ばす母。五十七年、冬を数える親。何百年、底で独りだった少女。そのぜんぶの“守る痛み”が、終の中で、ひとつに溶けて、自分のものになっていく。おれは、もう、ただの市原終じゃないのかもしれない。たくさんの、守れなかった誰かの、寄せ集めに、なりかけている。――その考えが、こわくて、でも、不思議と、あたたかかった。終は、鍋に、もう一人ぶん、おかゆをよそった。誰のためかも、わからないまま。
探偵の悪い癖で。蓮の頭の隅には、まだ解けない謎が、ひとつ残っていた。あのクエストの、最後の一行。“第三の神奈備には絶対行くな”。あれを、いちばん最初に書いたのは、誰なのか。かちり、とはまらない駒が、一つ。それが、蓮の胸の底で、ずっと小さく疼いていた。
「兄ちゃん」。二歳のとき以来の、その呼び方。覚えていないのに、体のいちばん奥が、覚えていた。
――ただ、その夜。弟が寝入ったあと。終は台所で、炎の中の母を、五十七年の親を、何百年の少女を、ひとつに溶かして、自分のものにしていく。鍋に、もう一人ぶん、おかゆをよそった。誰のためかも、わからないまま。そして蓮の胸には、まだ、はまらない駒が一つ。あの赤い一行を、最初に書いたのは、誰なのか。




