第26話 少女のゆくえ
役目を終えた三つの神域は、ふたたびただの山に沈んだ。線香の匂いも、歩く泣き声も、もうしない。
――けれど、女の膝の上には、ぶ厚いファイルがある。几帳面な字で、一人ずつ、生い立ちと喪失と、「処理済」の二文字が並ぶ名簿。ずいぶん、厚い。何人を、この底へ沈めてきたのか。本人さえ、こわくて、数えられない。
朝日の中を山道を下りていくと、振り返った先の葦北の古民家は、もうただの朽ちた廃屋に戻っていた。線香の匂いも、歩く泣き声もしない。神奈備の洋館も、巨石の豪邸も、きっと同じだろう。役目を終えた三つの神域は、ふたたびただの山に沈んでいた。
道の途中、石の地蔵のそばに、その女がぽつんと座っていた。スーツも髪も乱れ、あの貼りついた笑顔はどこにもない。膝の上に、ぶ厚いファイルを抱えている。契約者の名簿。彼女の“仕事”のすべてだった。
「……終わりましたか」女は顔も上げずに言った。「わたくしの“先生”の悲願も。こうして、あっけなく」
「先生って、あんたの上にいた黒幕か」蓮が聞いた。
「もう、いませんよ。とっくに」女は力なく笑った。「娘を亡くして、悲しみを憎んで、この計画を遺して逝きました。……十二年も前に」
十二年、と蓮は胸の内で繰り返した。引っかかった。「待てよ。先生が死んだのが十二年前なら。それからの十二年、この仕組みを回してたのは」
「わたくしです」女は、あっさりと認めた。「先生が遺したのは、設計図だけ。実際に戸籍を洗って、傷の深い人間を選んで、鍵を渡して、器を育てて――装置へ送り込んだのは、ぜんぶ、わたくしの手です。先生の遺志を継いだ、なんて言えば聞こえはいいですけどねぇ。……本当は、途中から、わたくしの意思でした」
蓮は、女の膝の上のファイルに手を伸ばした。女は、拒まなかった。めくる。名前。名前。また名前。几帳面な字で、一人ずつ、生い立ちと喪失と、そして「処理済」の二文字が、並んでいる。ページは、厚かった。ずいぶん、厚かった。
「……何人だ」終の声が、低く沈んだ。
「数えて、くださっても」女は、目を伏せた。「わたくしは、もう、数えません。数えたら、立っていられなくなる。それが、こわくて。ずっと、数えないようにしてきました。峰岸零くんは、そのうちの、新しいほうの、一人です」
零が、水から引き上げられたあの姿。あれが、この名簿の、ほんの一行。終の手が、震えた。偏って背負った何百年の悲しみが、その怒りに、低く共鳴する。この女は、零みたいな人間を、何十人、この底へ沈めてきたのだ。十二年、自分の手で、一人ずつ。
◇
「……じゃあ、なんで今さら」科学が、絞り出すように聞いた。「なんで、今になって、手を止めた」
女は、長いこと黙っていた。それから、ぽつりと言った。「さっき、あなたがたを、見てしまったからです」。顔を上げる。その頬に、涙の跡があった。「悲しみを消すんじゃなくて、分けて背負って、それでも立っている。……わたくしは、十二年、一度も思いつかなかった。消すことしか。だって、そのほうが、楽だったから。器を一つ送り込むたび、わたくしは、自分の悲しみからも、目を逸らしていられた」
誰も、慰めなかった。慰められる話では、なかった。この女の涙は、本物だ。けれどその涙の下には、十二年ぶんの、名簿の厚みがある。涙は、それを、帳消しにはしない。
あしかたが、女の前にしゃがんだ。誰も止めなかった。この子は、自分を閉じ込めた側にすら微笑む子だ。今さら驚かない。「おばさんの、娘さん」あしかたは言った。「わたし、たぶん、その悲しみも預かってた。何百年ぶんの中に、ひとりぶん、忘れずに持ってたよ。だから“いなかったこと”には、なってない。……ちゃんと、いた。あなたの娘さん」
女の顔が、くしゃりと歪んだ。十二年、誰の前でも崩さなかったものが、たった一人の、自分が閉じ込めていた子どもの前で、崩れた。声を殺して、けれどこらえきれずに。娘を亡くして以来、初めて、消すためではなく、ただ悲しむために、泣いた。
◇
泣き終えた女は、ファイルを胸に抱いて、立ち上がった。「……わたくしは、警察へ行きます」掠れた声で。「許されたくて、言うんじゃありません。この名簿の一人ずつに、家族がいる。待ってる人が、いるかもしれない。生きてる器が、まだ、どこかの装置に、残ってるかもしれない。……それを、全部、話します。わたくしが、どこへ、何人、送り込んだか。あと何年かかっても」
「軽く済むと思うなよ」終が、低く言った。赦しの言葉では、なかった。
「思っていません」女は、まっすぐ前を見た。「消して、楽になるのは、もう、やめました。……抱えて、裁かれます。それが、いちばん、重いやり方だと、今は、わかるので」
その背に、あしかたが声をかけた。「おばさん。……悲しくなったら、いつでも来て。わたしが聞くから」。女は、振り返らなかった。ただ小さく頷いて、朝の光の中を、一人、歩いていった。背中は、来たときより軽そうで、けれど、その足取りは、一歩ごとに、名簿の重さを噛みしめるように、遅かった。
◇
長い夜は明け、まだ名前しか持たない小さな女の子の、ほんとうにふつうの毎日が、ここから始まろうとしていた。
――ただ、あしかたの胸の奥には、ひとつだけ、正体のわからないしこりが残っていた。助けてもらえてうれしいのに、その裏側で、なぜか申し訳なくてたまらない。してはいけないことを、してもらったみたいに。どうしてそう感じるのか、その理由だけは、あの子にも、まだわからなかった。
そのころ、はるか遠くのどこかの深夜に、見知らぬ三人が、それぞれの部屋で、それぞれのスマホを覗き込んでいた。やたらとポップなバナーの、いちばん下に、歪んだ赤い字で一行。『第三の神奈備には、絶対行くな』。その下に、小さなカウンターがひとつ。《あなたで、三組目です》。
三つの指が、ほとんど同じ時刻に「送信」を押した。あしかたの器が空いたぶん、行き場をなくした世界の悲しみが、新しい器を探しはじめていた。――誰も、まだ、知らない。
長い夜は明けた。あしかたの、ふつうの毎日が始まる。――ただ、その胸の奥に、正体のわからないしこりが、ひとつ残ったまま。
そして、はるか遠くの深夜。見知らぬ三人が、それぞれのスマホを覗き込んでいる。歪んだ赤い字の一行の下に、小さなカウンター。《あなたで、三組目です》。三つの指が、ほとんど同じ時刻に「送信」を押した。器が空いたぶん、世界の悲しみは、もう、次を探しはじめている。




