第23話 子守歌を、返す
寒さの次に来たのは、記憶だった。飢えた村。祭壇。ごめんね、ごめんね、と手を合わせる白装束の巫女たち。冬。また冬。数えきれない、他人の冬。
多すぎる。心臓を、内側から握りつぶそうとしてくる。――封じるための子守歌を、今、逆から歌え。独りにする歌を、隣にいる歌へ、変えろ。
寒さの次に来たのは、記憶だった。六人の頭の中へ、あしかたの何百年が、いっぺんに流れ込んでくる。飢えた村。祭壇。すがるような大人たちの目。ごめんね、ごめんね、と泣きながら手を合わせる、白装束の巫女たち。冬。また冬。数えきれない冬。
――多い。多すぎる。
終の膝が崩れた。他人の悲しみを、これほど浴びたことはない。葦北の比じゃなかった。何百年ぶんの孤独が、心臓を内側から握りつぶそうとしてくる。彼には、ほかの五人の数倍が、流れ込んでいた。
「っ……く、そ……!」
「終さん!」蓮が支える。だがその蓮の顔にも脂汗が浮いていた。こめかみに、いつのまにか白いものが混じっている。時間が削られている。今、この瞬間にも。
◇
「持ちこたえろ!」科学が叫んだ。「まだ“流し込まれてる”だけだ! ここからが本番だぞ!」
科学は端末の波形を睨んだ。三つの周波数。心を縛る帯。記憶を削る帯。時間を歪める帯。それが今、ぜんぶ六人の受け皿へと繋ぎ変わっている。
「蓮! 歌の出番だ! 子守歌を“逆に”歌え!」
「逆に?」
「その歌は“封じる”ための楽譜だ。眠らせて、閉じ込めて、独りにするための。それを逆からたどれ。閉じるんじゃなく、開く。眠らせるんじゃなく、起こす。独りにするんじゃなく――隣に、いる、歌に変えるんだ!」
蓮の頭が猛烈に回転した。水底のタイルを二進法に直したときと同じだ。ばらけた音符が、頭の中で意味を持って並び替わる。封じる旋律の、その鏡像。まだ誰も歌ったことのない歌。蓮が、口を開いた。
◇
それは、下手な歌だった。音程もあやしい。声も掠れている。安楽椅子探偵の無愛想な少年が、生まれて初めて人前で歌う歌。結衣が続いた。舞が重ねた。終が掠れ声で加わる。科学が珍しく音を外しながら。零が水の中から細く。六人ぶんのへたくそな歌が、ひとつになって、あしかたを包む。
――けれど、最初、歌は、ほどけなかった。
六人の声は、揃わなかった。終の濁流に引きずられて、旋律が、ばらばらに沈んでいく。あしかたの悲しみは、渦を巻いたまま、びくともしない。「だめだ、弾かれてる……!」科学が叫ぶ。「六人が、“同じ悲しみ”を歌おうとしてる。だから揃わない。あの子のものを、なぞろうとするな! めいめいの、自分の喪失を、歌え!」
蓮が、弟を失くした兄の声を思い、歌う。結衣が、届かなかった手を思い、歌う。舞が、置いていった零を。科学が、笑った日の零を。終が、軽くなった小さな手を。零が、名前も忘れた誰かの顔を。――六つの、てんでばらばらの悲しみが、ひとつも揃わないまま、それでも、同じ一人のほうへ、向いた。
揃ったから、ほどけたんじゃなかった。揃わないまま、同じ方向を向いたから、ほどけた。その歪なまとまりが、あしかたの渦に、初めて、触れた。
何百年ぶんの悲しみが、ゆっくりと、六つの受け皿へ、分かれて流れていく。一人では抱えきれなかったものが、六人でなら、なんとか。――いや。立っていられない者も、いた。終は、歌いながら、何度も意識が遠のいた。彼の受け皿にだけ、濁流が傾き続けている。歌が、彼のところでだけ、音を外す。それでも止めなかった。
◇
悲しみが分かれていく、その途中で。六人は、あしかたのいちばん奥の記憶に触れた。
それは、暗闇の中の、たった一つの灯りだった。何百年、独りぼっちで、彼女が握りしめてきた、たった一つのあたたかい記憶。「いつか、誰かが来てくれる」。「わたしの名前を呼んでくれる」。「独りじゃないよ、って言ってくれる」。……根拠なんて、なかった。それでも彼女は信じ続けた。信じることでしか、暗闇に耐えられなかったから。
そしてその暗闇に向かって、あしかたがずっと囁いていた言葉があった。六人の胸に、その声が届く。
――こないで。
――おねがい、だれも、ここに、こないで。
――わたしみたいに、ならないで。
誰かが自分を助けに来ることを願いながら。同時に、その誰かが自分と同じ地獄に囚われることを、何より恐れていた。矛盾した、二つの祈り。来てほしい。でも来ないで。……その後ろのほうの祈りが、何百年、この場所を覆っていた。そしてその祈りを、団体は看板に刷った。来るな、と書けば、人が来る、と知っていて。
けれど六人は、その祈りを破って来た。「来ちゃったよ」終が、歌の合間に、掠れた声で笑った。「悪いな。おれたち、“行くな”って言われると、行きたくなる、たちでね」
◇
最後の悲しみが分かれきった、その瞬間。あしかたの体を覆っていたまばゆい光が、すう、と鎮まった。膨らんではじけそうだったものが、穏やかなただの少女の輪郭に戻っていく。座敷牢の格子が、ぱらぱらと崩れて消えた。
あしかたが、初めて自分の足で、その牢の外に立った。「……あれ」少女は自分の両手を見た。「かるい。……からだが、かるい」。何百年背負ってきた重石が、今、六人に分かたれて、彼女の肩から下りていた。
あしかたは顔を上げた。六人の汗だくの、少し老けた顔を見回して。そして生まれて初めて、心の底から笑った。「……ひとりじゃ、ない」
その一言が、こぼれた、まさにその瞬間。終の胸の奥で、なにかが、ずん、と沈んだ。あしかたが「ひとりじゃない」と言えたぶんの軽さが、そっくり、終のほうへ、滑り落ちてきたみたいに。あの子が独りでなくなった、ちょうどそのぶん、終が、別の種類の“独り”に、片足を踏み入れていた。誰も、まだ、気づいていない。終自身すら。
三つの神域が、ひとつに溶け合って。長い、長い夜が、ようやく明けようとしていた。終だけが、うまく笑えなかった。喜びのはずなのに、胸の奥の悲しみが、ほかの五人のように薄く均されず、濁ったまま重く沈んでいる。終は、それを疲れのせいだと思うことにした。思うことに、した。
揃ったから、ほどけたのではない。揃わないまま、同じ方向を向いたから、ほどけた。
少女の牢は崩れ、「ひとりじゃない」という声がこぼれた。――その、まさに瞬間。終の胸の奥で、何かが、ずん、と沈んだ。あの子が独りでなくなったぶん、別の種類の「独り」へ、終が片足を踏み入れたことに。まだ、誰も気づかない。終自身すら。




