第9話 私にできること
月蝕草の薬によって、ノクスの病状は少し回復したが、完全に呪いが解けたわけではない。
彼の身体に巣食う毒は『満月の夜に獣性を暴走させる』ものだ。満月が近づけば、再び症状が悪化することは痛いほど分かっていた。
少しでも症状を和らげるため、リリアは今日も薬室にこもり、分量を変えながら薬の調整を続けていた。
「リリア様、お忙しいところ失礼します」
ふと声がして振り返ると、入り口に若い兵士が立っていた。
先日、月蝕草の毒に倒れたジークだ。顔色もすっかり良くなっている。
「先日は、本当にありがとうございました。リリア様は、俺の命の恩人です」
「さ、様はやめてください。私はただ、薬を作っただけですから」
深く頭を下げるジークに、リリアは慌てて手を横に振った。
しかし、ジークはまっすぐにリリアを見て、力強く首を振る。
「黒狼族は受けた恩を忘れません」
「俺に何か出来ることがあれば、いつでも言ってください」
まっすぐな感謝の言葉に、リリアは戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
それからしばらくして、今度は使用人のエッダが薬室へやってきた。
以前はどこか冷ややかだった彼女の態度は、今は随分と柔らかくなっている。
湯気を立てる温かいスープとふかふかのパンをお盆に乗せ、机の端にそっと置いた。
「無理はいけませんよ。薬師様が倒れたら、王が機嫌を悪くなさいますからね」
「あ、ありがとうございます……」
エッダの言葉に、リリアは少しだけ胸がちくりと痛んだ。
自分が誰かの役に立てていることは、素直に嬉しい。
けれど、一人になった薬室で母の遺した薬草帳を見つめていると、不意に冷たい不安が足元から這い上がってくる。
実家では、ガルヴィス侯爵に嫁ぐという『価値』しかなかった。
エリオットも、リリア自身の心など見てはいなかった。
私が、もし……この薬草帳を持っていなかったら。
特別な知識を持たない、ただ逃げ出しただけの令嬢だったなら、私は誰かに必要とされたのだろうか……
一方、ノクスはといえば、あの日、崖でリリアを抱きとめて以来、どこかリリアを避けるような態度をとっていた。
目が合えば気まずそうに逸らされる。
けれど、完全に避けられているわけでもなかった。
リリアが重い薬草籠を運んでいると、すっと横から大きな手が伸びてきて、無言で籠を奪っていく。
エッダが運んでくる食事も、リリアが飽きないようにと、彼がわざわざ厨房に指示して色々なものを用意させているらしかった。
薬室まで無言で籠を運んでくれた大きな背中に、リリアは思い切って声をかけた。
「あの、ありがとうございます、ノクスさん。食事のことも……お気遣いいただいて」
「……気にしていない」
ノクスは振り返らないまま、そっけなく返す。
「薬師が倒れたら困る。それだけだ」
まただ。
その言葉を聞くたびに、リリアの胸はきゅっと締め付けられる。
「……やっぱり、薬師としてですか」
無理に作った笑顔は、ひどく歪で、悲しそうなものになっていたかもしれない。
リリアが小さくこぼした言葉に、ノクスはハッとしたように振り返った。
「待て、俺は別に、そういう意味で言ったんじゃ……」
「……失礼します」
言葉を探して返事に詰まるノクスに深く一礼し、リリアは逃げるように部屋へと戻ってしまった。
あとに残されたノクスが、盛大に頭を抱えていると、廊下の角からわざとらしい大きなため息が聞こえてきた。
「はぁーあ。 陛下はもう少し、素直になったほうがいいですわね」
呆れ顔のセラフィナと、ルドガーだった。
「二人とも……見ていたのか」
「ええ、バッチリと。昔はもっと素直で、可愛かったですのに」
「子どもの頃の話を出すのは卑怯だぞ」
ノクスが低い声で唸るが、セラフィナはどこ吹く風でしっぽを揺らす。
見かねたように、ルドガーが口を開いた。
「ノクス。お前、リリアのことをどう思ってるんだ」
「……何の話だ」
「ごまかすな。あの娘を見る時だけ、お前の顔が少し違う」
「違わない」
「違う」
幼なじみゆえの容赦のない追及に、ノクスはバツが悪そうに顔を背けた。
「……もういい、俺は部屋に戻る」
逃げるように早足で去っていく主君の背中を見送り、セラフィナはルドガーの方を向く。
「どうかしたか、セラフィナ」
「あなた。恋愛ごとに妙に鋭いですわね」
ルドガーは真顔で返す。
「見ればわかるだろう。あれで隠しているつもりなのが信じられん」
セラフィナは小さくむっとしたように目を細めた。
「……なんでお前がむっとしてるんだ?」
「まったくあなたって人は……」
「逆にあなたは、誰か好きな人でもいるんですか?」
「俺か? いるわけないだろう。部下や周りも男だらけだしな」
さも当然というように言い切る近衛隊長に、セラフィナは呆れ果ててため息をついた。
「……女なら私がいるでしょうに」
「うん? 何か言ったか?」
聞き返してくるルドガーの顔をじろりと睨み、セラフィナは手に持っていた扇子をパチンと閉じた。
「なんでもありませんっ」
ノクスの態度は相変わらずもどかしかったが、リリアは黒狼族の隠れ家で、少しずつ自分の居場所を得ていた。
今では一人で屋敷内を歩くことだって許可されている。
広間を通りかかれば、ジークと他の兵士との会話が聞こえてきた。
「リリア様は信用できるお方だ」
かばうような言葉に、リリアの表情が思わず緩む。
夜、客室に戻ると、エッダがこっそりと温かく肌触りの良い毛布を追加してくれていた。
(みんな、優しい……)
その温かさが、リリアの心を少しずつ癒やしていた。
――しかし、残酷にも月は満ちていく。
その夜。
屋敷の空気が、ふいに重く張り詰めた。
廊下を慌ただしく走る兵士たちの足音が響く。
「陛下の熱が……!」
部屋の外から、悲痛な声が飛び込んできた。
「ノクスさん……!」
リリアは急いで薬室へ走り、月蝕草を調合した鎮静薬を握りしめ、ノクスの部屋へと駆け出した。
重厚な木製の扉の前に立ち、息を切らしながらノックする。
「ノクスさん! 薬を持ってきました! 開けてください!」
しかし、返事はない。
代わりに、扉の向こうから、苦しげな荒い息遣いと、獣のような低い唸り声が聞こえてきた。
「……来るな」
かすれた、けれど強い拒絶の声。
「でも、薬を飲まないと……!」
「今夜は、近づくな……っ!」
扉越しに放たれた強い声に、リリアの肩がびくりと跳ねた。
ノクスが、必死で獣性を抑え込んでいることは分かっている。
それでも、強く拒絶された事実が、リリアの胸を冷たく貫いた。
少しずつ受け入れられ、居場所をもらえたと思った。
それなのに……
一番助けたい彼だけが、手の届かない場所へ遠ざかっていく。
「ノクスさん……」
固く閉ざされた扉の前。
リリアは冷たくなった薬瓶を、ただ両手でぎゅっと握りしめることしかできなかった。




