第10話 すれ違う心
――満月が、近づいている。
ノクスを蝕む禁薬の呪いは、月の満ち欠けに連動する。
月蝕草を調合した薬で多少は抑えられているものの、完全に止めることはできなかった。
漏れ聞こえる話では、ノクスは激しい発熱と牙の痛みに耐え、魔力の乱れからくる獣性の揺らぎに苦しんでいるという。
「……もっと、薬を改良しないと」
リリアは焦る心を落ち着かせるように、薬室で一人、乳鉢をすりこぎで回していた。
けれど、どれだけ効果の高い薬を作ったとしても、今のリリアにはそれを直接ノクスに届けることすら許されていなかった。
「リリア、薬を預かりに来ましたわ」
トントン、と小気味よいノックの音と共に、セラフィナが薬室に顔を出す。
リリアはすりこぎを止め、新しく調合した薄緑色の薬瓶を差し出した。
「お願いします、セラフィナさん。」
「……やっぱり、会うことはダメですか?」
「ええ。本当に頑固な王様ですこと」
セラフィナは困ったように眉を下げて薬瓶を受け取る。
ここ数日、ノクスはリリアの診察を頑なに拒み続けていた。薬の受け渡しは、すべてセラフィナを経由している。
リリアはぽつりと視線を落とし、小さく息を吐いた。
「私は……薬を作るためだけに置いてもらっているだけなんでしょうか」
みんなは優しくしてくれる。ジークもエッダも、自分を認めてくれた。
けれど……ノクスから遠ざけられるたびに、リリアの胸には言いようのない不安が溜まっていく。
実家で「家を救う道具」としてしか見られていなかった記憶が、どうしても頭をもたげるのだ。
「……なぜそうなるんです?」
セラフィナが、心底呆れたようにため息をついた。
「だって……ノクスさんは私に会いたくないみたいですし……」
「あのね、リリア」
「この世に、会いたくない人間のことを根掘り葉掘り聞いてくる男がいますか?」
「え……?」
予想外の言葉に、リリアはパチパチと瞬きをした。セラフィナはしっぽを不機嫌そうに揺らしながら続ける。
「あの方、私が薬を取りに行くたびにうるさいんですのよ。」
「『リリアはどうしている?』『食事はちゃんと摂っているか?』『また徹夜で薬室にこもっていないだろうな?』って……本当にお手上げですわ」
ノクスが、自分の知らないところでそんな風に気遣ってくれていたなんて、思いもしなかった。
(でも……そんなに心配してくださるなら、直接、顔を見せてくださればいいのに)
湧き上がった寂しさを、リリアは小さくかぶりを振って打ち消した。
――違う。
ノクスさんは、理由もなくただ人を避けるような人ではない。
なのに私は……自分が彼にどう思われているかばかり気にして、拗ねていた。
自分の居場所を確かめたかっただけの自分が恥ずかしくなる。
彼にとって、私はただの「便利な薬師」でも構わない。
彼がどれだけ自分を遠ざけようとも、あの優しい王を見ないふりなんて絶対にできない。
「……セラフィナさん」
「今の薬より、もっと熱を引かせるものを調合してみます。だから、ノクスさんに伝えてください。絶対に楽にしますって」
リリアはきゅっと唇を結び、凛とした声でそう告げた。
ウジウジと悩むのはもう終わりだ。
確信なんて持てなくても、今の自分にできる精一杯のことで、彼を助けたかった。
その頃、ノクスの私室では、ルドガーが重い足音を響かせて入室していた。
部屋の奥、遮光カーテンが引かれた薄暗いベッドの上で、ノクスが荒い息を吐きながら上体を起こす。
その金色の瞳は、熱のせいか、あるいは暴走しかけている獣性のせいか、いつもより危険な光を帯びていた。
「ノクス。お前、馬鹿か」
開口一番、ルドガーは遠慮のない言葉を投げつけた。
ノクスはひどく億劫そうに、けれど不機嫌そうに眉をひそめる。
「……王に向かって、言う言葉か」
ぶっきらぼうに吐き捨てるノクスに、ルドガーは腕を組んで真っ直ぐに見下ろした。
「お前は、勝手に一人で決めて、勝手にすべてを背負い込んでいる」
「……リリアのことか」
ノクスは自身の大きな手のひらを見つめ、苦しげに指を握り込んだ。
「俺のそばにいれば危険だ。あいつを傷つけるくらいなら、いっそ嫌われた方がいい」
「会いもせずに薬だけもらっていれば、あの娘は自分が薬師としての価値しかないと思うだけだぞ」
「そんなことも分からないのか」
ルドガーの鋭い指摘に、ノクスが息をのむ。
「俺が言うのもおかしいが……リリアはもう、俺たちの仲間だ」
「あいつが、お前や俺たちのために頑張っているのは、よく知ってるだろ」
かつて人間を深く拒絶していたルドガーの口から出たその言葉は、何よりも重かった。
それでも、ノクスは頑なに首を振る。
そこへ、薬瓶を持ったセラフィナがすっと部屋に入ってきた。
「まったく、手のかかる王様ですね」
「セラフィナまで……。お前たちは、俺を王として見ているのか」
ノクスが疲弊した声で苦言を呈するが、二人の側近は全く怯まない。セラフィナはさらりと言ってのけた。
「王としても見ていますよ」
「ついでに、昔から面倒を見てきた手のかかる弟分としても見ていますわ」
そう言って、セラフィナはベッドの脇に立ち、見透かすような目でノクスを見下ろした。
「陛下。『あの子を傷つけるのが怖い』と言いますけど……本当は、違うんじゃありませんこと?」
「なに……?」
「今のあなたなら、まだ十分に理性を保てているじゃありませんか」
図星を突かれ、ノクスは深く押し黙った。
「今の自分の姿を見て、リリアにおびえた顔をされるのが怖い。嫌われるのが怖い。……そうでしょう?」
痛いところを突かれた主君を見て、セラフィナは呆れたように、けれどどこか優しい声で諭した。
「そんな心配、しなくて大丈夫ですわ」
「あの子は、そんなことで逃げ出すような弱い子じゃありませんよ」
「全くだ」
ルドガーも深く頷く。
二人の言葉に、ノクスは迷うように視線を落とした。
その夜。
ノクスの熱がさらに上がったという知らせを聞き、リリアはたまらず薬室を飛び出した。
作ったばかりの鎮静薬を握りしめ、ノクスの私室の前に立つ。
「ノクスさん! 薬を持ってきました!」
息を切らして扉を叩くと、しばらくの沈黙の後、重い扉がわずかに開いた。
扉の隙間から現れたノクスの顔色は青白く、その金色の瞳は熱に浮かされてひどく揺らでいる。
「……これ以上は、近づくな」
かすれた、けれど強い拒絶の声。
「薬だけでも、受け取ってください」
「……そこに、置いていけ」
「診せてください。脈だけでも確認しないと、薬の量が合っているか分かりません」
一歩踏み出そうとするリリアを遮るように、ノクスが扉を細く閉める。
「だめだ、来るな……」
扉越しに放たれた拒絶の声に、リリアの胸が締め付けられる。
「ノクスさん……」
リリアは、震える声で問いかけた。
「私では……あなたの苦しみを分かち合えませんか?」
口に出してから、リリアは唇を噛んだ。
言ってしまった……ダメだと分かっているのに、それでも確かめずにはいられなかった。
これでは、苦しんでいる彼をさらに困らせているだけではないか。
自責の念に駆られ、リリアはぎゅっと身をすくませた。
一方で、扉の向こうのノクスは、一瞬、痛ましいほどに息を止めていた。
――違う。
分かち合えないわけがない。
本当は、他の誰でもないお前にこそ、すがりつきたかった。
その手を握りしめて、そばにいてほしいと叫びたかった。
けれど……
望まぬ結婚から逃げてきたばかりの彼女を、今度は自分が奪い、縛り付けてしまうことになる。
「……お前は、自由でいるべきだ」
ノクスは、痛ましそうに金色の瞳を伏せ、無理やり言葉を絞り出した。
そして、静かに扉が閉められる。
――ガチャン
無情な音が響き、リリアは廊下に一人取り残された。
彼が何を思い、その言葉を口にしたのか。
今のリリアには、それを「拒絶」と受け取ることしかできなかった。
「……リリア」
不意に背後から声をかけられ、リリアはハッと振り返った。
そこには、腕を組んだルドガーが静かに立っていた。
「明日の夜、満月が昇る前に……ノクスは、地下の石牢に入る」
その言葉に、リリアは息をのんだ。
地下の、石牢。
「誰も傷つけないためだ」
「あいつは毎月、自分で檻に入る。……今までずっと、一人でな」
ルドガーの悲痛な声が、静かな廊下に響く。
リリアは両手で、持っていた薬瓶をぎゅっと握りしめた。
怖い。暴走する獣の呪いも、彼に拒絶されることも。
けれど……
暗い冷たい檻の中で、彼がたった一人で苦しむ姿を、見ないふりをして逃げることの方が、ずっと、ずっと怖かった。




