第7話 託された薬師
若い兵士の傷口に、リリアは見覚えがあった。
ノクスの身体を蝕んでいた、あの黒い毒。
けれど、目の前の兵士のそれは、もっと細く、もっと速い。
小さな切り傷から、まるで獲物を見つけた蛇のように、腕全体へ這い上がろうとしている。
「ジーク、聞こえるか」
ルドガーだった。
若い黒狼族の兵士――ジークのそばに膝をつき、その顔を覗き込んでいる。
取り乱してはいない。
声も、姿勢も、いつもと変わらない。
けれどリリアには分かった。
彼の指先だけが、ほんのかすかに震えていた。
「……隊、長」
ジークはうっすらと目を開けかけたが、すぐに苦しげに眉を寄せた。
命が、少しずつ黒い毒に押し込まれていくようだった。
周囲には黒狼族の兵たちが集まっている。
誰もが不安を押し殺した顔をしていた。
そして、リリアに向けられる視線には、まだ消えきらない警戒が残っている。
――人間。
誰の口からも出ていないその言葉が、広間の空気に混じっていた。
リリアは鞄を握りしめ、一歩踏み出した。
「看せてください」
怖くないわけではない。
刺さるような視線も、沈黙も、肌で感じている。
けれど、目の前で苦しんでいる人がいる。
それだけで、足は動いた。
だが、その前にルドガーが立った。
リリアは足を止める。
やはり、拒まれるのだろうか。
一瞬、そう思った。
ルドガーはリリアを見据えていた。
鋭い金色の瞳。人間を嫌う、黒狼族の近衛隊長の目。
けれど、そこにあったのは敵意ではなかった。
「……リリア」
初めて、彼が名前を呼んだ。
リリアは思わず目を見開く。
次の瞬間、ルドガーは静かに頭を下げた。
「頼む。ジークを看てやってくれ」
広間がざわついた。
誰かが小さく息をのむ。
人間に。
あの隊長が、頭を下げた。
その事実に、兵たちは言葉を失っている。
リリアも同じだった。
ルドガーが人間を信用していないことは知っている。
森で会ったときの手荒さも、刃のような視線も、リリアは忘れていない。
けれど今、彼はその感情を押し殺していた。
部下を救うために。
リリアの胸の奥が、小さく揺れた。
怖い人だと思っていた。
けれど、ただ冷たい人ではなかったのだ。
セラフィナはそんなルドガーを見て、柔らかく微笑んだ。
けれどそれも一瞬のこと。
すぐに、いつもの涼しげな表情へ戻る。
そのとき、ノクスが広間に現れた。
まだ本調子ではないはずなのに、空気が一瞬で引き締まる。
兵たちは自然と道を開けた。
ノクスはジークの手の傷を見た。
そして、腕に広がる黒い筋を見て、眉をひそめる。
「……同じか」
誰にともなく呟いた声に、リリアは小さく頷いた。
「ノクスさんの時と似ています。でも、この人の方が、進行が早いように見えます」
ノクスの視線がリリアへ向く。
「リリア、ジークを頼む」
ルドガーだけでなく、ノクスにも託された。
その事実に、リリアは胸の奥が静かに熱くなる。
「……もちろんです。看ます。すぐに」
ジークのそばに膝をつく。
手のひらの傷は、本当に浅かった。
普通なら、清めて包帯を巻けば済む程度のものだ。
それなのに、黒い筋はすでに腕の半ばまで伸びている。
「小さな棘に刺されたと聞いています」
セラフィナが隣に膝をつき、言った。
リリアは薬草鞄を開く。
母の薬草帳。
いくつかの薬包。
小瓶。
乾かした葉。
ノクスのために作った応急薬に近いものはある。
けれど、この進行速度では、同じではいけない。
「まず、飲み薬を作ります。熱と呼吸を落ち着かせます。その後で、傷口に塗る薬を」
言いながら、リリアは薬草を選ぶ。
薬を煎じ、少量だけ冷ます。
ジークの唇に近づけると、彼は苦しげに顔を歪めた。
「大丈夫です。苦いけれど、飲めたら少し楽になります」
ジークは返事をしない。
けれど、リリアの声に反応するように、わずかに喉が動いた。
ルドガーがジークの肩を支える。
大きな手は、意外なほど慎重だった。
リリアは少しずつ薬を飲ませる。
次に、傷口を清め、塗り薬をそっと乗せた。
広間は静まり返っていた。
誰もが息を潜めている。
変化は、すぐには現れない。
黒い筋は止まったようにも見える。
けれど、気のせいかもしれない。
重い沈黙が落ちる。
誰かが小さく身じろぎした。
押し殺していた不安が、ざわめきになりかける。
そのとき、ノクスが静かに言った。
「静かにしろ。リリアの腕は確かだ」
リリアの胸の奥が、きゅっと熱くなる。
そんなふうに言われることに、慣れていない。
信じられることにも、慣れていない。
けれど今は、喜んでいる場合ではなかった。
「……効いているのか」
ルドガーが控えめに問う。
「はい……大丈夫なはずです」
そして、少しだけ声に力を込めた。
「少なくとも、悪化はもうしません。」
しばらくして。
ジークの胸が、少しだけ上下した。
最初に気づいたのは、セラフィナだった。
「……呼吸が、戻っていますわ」
その言葉に、広間の空気が揺れた。
黒い筋の広がりも止まっている。
傷口の周囲にあった不気味な熱も、少しずつ引いていた。
「ジーク!」
ルドガーが呼ぶ。
ジークのまぶたがかすかに震えた。
そして、うっすらと目を開ける。
「……隊長」
かすれた声だった。
ルドガーは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
張り詰めていたものが切れたように、肩がわずかに落ちる。
それから、いつもの声で言った。
「もう大丈夫だ。よく頑張った!」
ジークは安心したように、また眠りに落ちた。
広間のあちこちから、安堵の息が漏れる。
リリアも、ようやく息を吐いた。
力が抜けそうになる。
けれど、まだ終わりではない。
「完全に毒が抜けたわけではありません。しばらくは様子を見て、何度か薬を替えます」
「分かった」
ルドガーは短く答えた。
そして、リリアの前に立つ。
また何か厳しいことを言われるのだろうか。
リリアが身構えるより先に、ルドガーは口を開いた。
「……部下を救ってくれて感謝する」
リリアは瞬きをした。
「い、いえ。私は……」
「……それと」
「森で手荒な真似をしたことも、悪かった」
リリアは今度こそ、言葉を失った。
ルドガーはまっすぐにリリアを見る。
その顔に、飾り気や取り繕いはない。
「……すまなかった」
広間がまた静かになる。
謝られるとは思っていなかった。
しかも、こんなにまっすぐに。
リリアは慌てて首を振った。
「そんな、私は大丈夫です。あの時は、私も怪しまれて当然で……」
「当然ではない」
ノクスだった。
リリアが振り向くと、ノクスは少し不機嫌そうにルドガーを見ていた。
「ルドガー。謝るなら、最後まで謝れ」
「……謝っただろう」
「顔が怖い」
「生まれつきだ」
思わず、リリアは小さく笑ってしまった。
ルドガーが怪訝そうにこちらを見る。
リリアは慌てて口元を押さえた。
「す、すみません」
セラフィナが楽しげに目を細める。
「まぁ。あなたが人間にお礼と謝罪を言うなんて。明日は月が落ちるかしら」
「黙れ、セラフィナ」
「でも、今のあなたは少しだけ見直しましたわ」
さらりと言ったセラフィナの声は、いつものからかいより少しだけ柔らかかった。
セラフィナは涼しい顔で、ジークの容体を確認しに戻る。
その横顔が、ほんの少しだけ嬉しそうに見えたのは、リリアの気のせいだろうか。
治療道具を片づけていると、ノクスが近づいてきた。
「リリア、ありがとう」
リリアは慌てて首を振る。
「薬草が良かっただけです。幸い材料もありましたし……」
「違う」
きっぱりと遮られた。
リリアは顔を上げる。
ノクスはまっすぐにリリアを見ていた。
黒い瞳の奥に、揺るぎないものがある。
「お前のおかげで、ジークが助かった」
「でも……」
「でも、ではない」
少し強い声だった。
けれど、怖くはなかった。
「お前を信じてよかった」
胸の奥が、小さく跳ねた。
感謝されたことはある。
便利だと言われたこともある。
けれど。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
「……ありがとうございます」
やっと、それだけを返す。
ノクスはなぜか少しだけ視線を逸らした。
それから、咳払いをする。
「……次も頼む。薬師」
ぶっきらぼうな声。
けれど、その声が少しだけ特別に聞こえた。
リリアは小さく頷く。
「はい」
その後、ジークを刺したという黒い棘が、布に包まれて運ばれてきた。
「これが、手のひらに刺さっていたものですわ」
セラフィナが、布に包まれた黒い棘を差し出した。
リリアはそれを見つめる。
月明かりを受けると、表面が鈍く光る。
ただの植物の棘には見えなかった。
「薬室に戻って調べてみます」
リリアは棘を布ごと受け取り、薬室へ戻った。
その夜。
リリアは薬室の整理を続けていた。
昼間は目についたものを整理するだけで精一杯だったが、今は一つずつ確かめていく。
母の薬草帳を傍らに置き、似た効能のものを並べる。
獣人族の薬草は、人間の国で使われているものとは名前も形も違う。
けれど、香りや葉脈、乾いた時の色に、共通するものもあった。
リリアは眠気をこらえながら、古い書物を開く。
獣人語はまだほとんど読めない。
それでも、挿絵なら分かる。
黒い棘。
月の形。
腕に走る黒い筋。
リリアの指が、ぴたりと止まった。
そこに記されていた文字を、何度も目で追う。
「……月蝕草」
ぽつりと、声に出す。
リリアは急いで母の薬草帳をめくる。
あった。
『月を喰む草。獣の血に入り込む黒き毒を鎮める』
リリアは黒い棘と、古い書物の挿絵と、薬草帳の文字を見比べる。
月蝕草。
月を喰む草。
同じものかもしれない。
「……これが月を喰む草なら、治療薬ができるかも」
言いながら、リリアは手帳を胸に抱いた。
母が遺してくれた言葉。
それが、今は誰かの命へ繋がろうとしている。




