第6話 人間の薬師
目を覚ましたリリアの瞳に映るのは、白い寝台。窓の外には、黒い森。
昨夜の記憶が、少し遅れてよみがえる。
傷ついた狼を助けたこと。
その狼が、黒狼族の王だったこと。
胸がかすかにざわめいた時、扉が静かに叩かれた。
「お目覚めでしょうか」
「はい」
リリアが答えると、扉が開いた。
入ってきたのはエッダだった。
手には朝食の乗った盆と、丁寧に畳まれた服を抱えている。
「お召し物をお持ちしました。昨夜の服は、森で汚れておりますので」
「あ……ありがとうございます」
リリアは慌てて寝台を降り、頭を下げた。
用意された服は、動きやすそうな淡い色の衣服に、丈夫な外套だった。
袖は邪魔にならず、薬草を扱うにも都合がよさそうだ。
「こんなものまで、お借りしてしまって……」
「屋敷の管理上、必要なことです」
エッダは淡々と言った。
その声は昨夜と同じく礼儀正しい。
けれど、そこに温かさがあるわけではなかった。
それでもリリアは、もう一度深く頭を下げる。
「助かります。ありがとうございます」
エッダはほんのわずかに目を伏せた。
表情は変わらない。
けれど、すぐに背を向けることはしなかった。
「朝食をお召し上がりください。その後、セラフィナ様が薬室へご案内されます」
「はい」
「それから」
扉へ向かいかけたエッダが、静かに振り返る。
「夜間だけでなく、日中もおひとりで屋敷を歩き回ることはお控えください。理由は、おわかりになりますね」
「……はい」
リリアは素直にうなずいた。
注意というより、警告だった。
けれど、それも当然なのだと思う。
ここは黒狼族の隠れ家。
そして自分は、人間なのだから。
エッダが運んできた朝食は、リリアが思っていたよりもずっと丁寧なものだった。
湯気の立つスープ。
やわらかな白パン。
ゆで卵。
少し甘い果実の煮たもの。
それから、香りの穏やかな薬草茶。
リリアは思わず、盆の上を見つめてしまった。
「あの……私に、こんなに?」
「何があったのかは知りませんが、昨夜は大変だったと伺っております」
エッダは淡々と言った。
「陛下からのご厚意です」
リリアは言葉を失った。
ノクスさんが。
昨夜、あれほど傷ついていたのに……
自分の食事のことまで、気にしてくれていたのだろうか。
温かな湯気が、少しだけ胸の奥にしみた。
朝食を食べ終え、身支度を整えた頃、今度は軽い調子で扉が叩かれた。
「生きていますか、人間のお嬢様」
「はい。おかげさまで今のところは」
答えると、扉の向こうで小さく笑う気配がした。
入ってきたセラフィナは、今日も白い髪をきれいにまとめ、隙のない侍女姿をしていた。
「結構です。では、薬室へご案内します」
「よろしくお願いします」
「その前に、屋敷の決まりをいくつか」
セラフィナは廊下へ出ながら、さらりと言った。
「まず、廊下は走らないでください」
「はい」
「誰かに見つかれば斬られます」
リリアは思わず足を止めた。
「……本当に、斬られるんですか?」
「たぶん」
「たぶん……」
「本気で斬られる前には止めますので、ご安心を」
安心していいのか、まったくわからなかった。
リリアが困っていると、セラフィナは少し楽しそうに続ける。
「それから、黒狼族は鼻が利きます。強い香草をそのまま持ち歩くのは避けてください。兵士の動きに支障が出ます」
「わかりました。香草は持ち歩かないようにします」
「ええ。特にルドガーが不機嫌になります。彼が不機嫌だと廊下の空気が重くなるので、非常に迷惑です」
そう言いながら、セラフィナの声は少しも迷惑そうではなかった。
むしろ、困ったものを見るように、ほんのわずか目元がやわらいでいる。
リリアは少しだけ想像してしまった。
昨日のルドガーの冷たい目。
眉間に刻まれた深いしわ。
確かに、廊下の空気は重くなりそうだった。
けれどセラフィナにとっては、それすら見慣れた癖のように思えるのかもしれない。
「気をつけます」
「素直でよろしい」
セラフィナはそう言って、少しだけ目を細めた。
「あなた、本当に変わっていますね」
「え?」
「人間の貴族令嬢は、もっと文句を言うものだと思っていました」
「文句を言える立場ではありませんし……」
「そういうところです」
セラフィナは前を向いたまま、肩をすくめる。
「まぁ、面白いので構いません」
褒められているのかどうか、やはりわからない。
リリアは小さく首をかしげながら、彼女の後を追った。
廊下を歩く間、何人もの兵士や使用人とすれ違った。
彼らは礼儀正しく頭を下げる。
けれど、リリアへ向ける視線は冷たい。
声に出して責める者はいない。
それでも、小さなささやきは耳に届いた。
「人間だ」
「陛下に毒を盛ったのも、人間だったのに」
胸が、ちくりと痛んだ。
彼らにとって、人間は王を傷つけた種族なのだ。
昨日突然現れたばかりの自分を信じろという方が、きっと難しい。
リリアは薬草帳を抱える手に力を込めた。
今できることをするしかない。
そう思って、前へ進む。
薬室は屋敷の奥にあった。
扉を開けると、乾いた草と古い木の匂いがふわりと流れ出した。
棚には小瓶が並び、壁には薬草の束が吊るされている。
設備はそろっていた。
けれど、長く使われていないことは一目でわかった。
乾きすぎた薬草。
名前札の消えた小瓶。
読めない古い獣人語の札。
湿気で固まった粉薬。
リリアはそっと息を吸った。
「……まず、使えるものと使えないものを分けます」
「この状態を見て、始める気になるのですね」
セラフィナが呆れたように言った。
「全部は無理です。でも、今日必要なものだけなら」
「その判断ができる時点で、普通のお嬢様ではありませんよ」
「母の薬草帳を読んでいただけです」
リリアは鞄から薬草帳を取り出した。
その表紙に指先で触れると、少しだけ心が落ち着いた。
薬室を整理しながら、ノクスの症状に似た記述がないか、入念にページをめくっていく。
やがて、ある一文で指が止まった。
『月を喰む草。獣の血に入り込む黒き毒を鎮める』
獣の血に入り込む黒き毒。
ノクスの傷口に広がっていた、あの黒い痕が脳裏に浮かぶ。
気になる。
けれど、今のところ情報が少なすぎる。
しばらくすると、エッダが様子を見に来た。
彼女は薬室の入口で足を止め、リリアの手元を見る。
「……その葉は、捨てるものかと思っておりました」
リリアは手の中の葉っぱを見下ろした。
「外側は駄目です。でも、芯の近くに香りが残っています。煎じるより、粉にして混ぜた方がいいと思います」
「そうですか」
エッダはそれだけ言った。
表情は変わらない。
けれど、リリアの手元を見る時間が、ほんの少しだけ長くなった。
リリアはそれに気づいたが、何も言わなかった。
薬ができあがる頃、セラフィナが扉の方へ視線を向ける。
「そろそろ陛下の様子を見にいきましょう」
「はい」
リリアは小瓶を布で包み、薬草帳と一緒に鞄へ入れた。
セラフィナに案内され、ノクスの部屋へ向かう。
扉の前に立ったセラフィナが、軽く声をかけた。
「陛下、薬師のお嬢様をお連れしました」
「入れ」
短い返事が返ってくる。
部屋の中では、ノクスが寝台の上に身を起こしていた。
昨夜より顔色は戻っている。
けれど、まだ熱は残っているようだった。
「ノクスさん、診ます」
「ああ」
リリアは傷口と熱を確かめた。
黒い痕は広がっていない。
けれど、完全に消えてもいなかった。
「昨夜よりは落ち着いています。でも、まだ無理はしないでください」
「わかっている」
あまり、わかっていない声だった。
リリアは小瓶を取り出す。
「薬を作りました。昨日よりは苦くありません」
ノクスの視線が、小瓶に落ちた。
ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
「……たぶん」
「たぶんか」
「薬草の状態があまり良くなかったので、味までは保証できません。でも、効き目はあると思います」
ノクスはしばらく小瓶を見ていた。
やがて、覚悟を決めたように受け取り、一息に飲み干す。
眉間に、ほんの少しだけしわが寄った。
「昨日よりは大丈夫そうですね」
「苦いのが嫌というわけではないぞ」
「はい。治療が順調でよかったです」
リリアは少しだけほっとして、薬箱を閉じかけた。
けれど、朝のことを思い出し、そっと顔を上げる。
「あの……朝食を、ありがとうございました」
ノクスの目が、わずかに動いた。
「エッダさんから聞きました。ノクスさんが、気を遣ってくださったと」
ノクスは視線を逸らした。
「薬師が倒れたら面倒だ」
そっけない言葉だった。
けれどリリアは、少しだけ笑ってしまった。
「はい。倒れないようにします」
自分を気遣ってくれたのか。
それとも、本当に薬師として必要だからなのか。
まだ、判断はできない。
けれど、温かなスープと卵が、空っぽだった身体にしみたのは本当だった。
横でセラフィナが、涼しい声で言う。
「はいはい。面倒ですものね」
ノクスは黙った。
リリアは意味がわからず、首をかしげる。
セラフィナだけが、少し楽しそうに微笑んでいた。
その日の午後、リリアは薬室の整理を続けた。
屋敷の者たちは、まだ距離を取っている。
廊下を通る兵士たちの視線も冷たいままだ。
けれど、朝とは少しだけ違う気がした。
薬室の前を通り過ぎる使用人が、中を一瞬だけのぞく。
若い兵士が、リリアの手元を見てから慌てて目を逸らす。
受け入れられたわけではない。
ただ、あの人間は何をしているのかと、見られはじめている。
リリアは、それで十分だと思った。
十分だと思おうとした。
夜になり、屋敷が静まり返った頃だった。
突然、外が騒がしくなる。
兵士の足音。
誰かが叫ぶ声。
重い扉が開く音。
リリアは薬室で手を止めた。
「何……?」
廊下へ出ると、セラフィナが険しい顔でこちらへ歩いてくるところだった。
「リリアさん」
初めて、名前で呼ばれた。
リリアは息をのむ。
「来てください」
「何があったんですか」
「巡回の兵が倒れました」
セラフィナの声には、いつもの軽さがなかった。
リリアは鞄を掴み、彼女の後を追う。
広間には、若い黒狼族の兵士が運び込まれていた。
顔色は悪い。
けれど、傷は浅いように見える。
手のひらに、小さな切り傷があるだけ。
それなのに。
傷口から、黒い筋がじわじわと広がっていた。




