第5話 黒狼族の隠れ家
森の奥に、セラフィナの笑い声が澄んで響いた。
それは夜気を震わせるほど軽やかで、場の緊張をひどく場違いに揺らした。
ルドガーが露骨に眉をひそめる。
「セラフィナ、いい加減にしろ」
「失礼しました。ですが、非常に貴重な光景でしたので」
セラフィナは口元を押さえたまま、目だけでノクスを見やる。
リリアは笑っていいのか、謝った方がいいのかもわからず、鞄を胸元へ抱き寄せた。
「あ、あの……申し訳ありません。先ほどは、その、失礼なことを」
「事実だ」
「え?」
「治療を選り好みしている場合ではなかった」
怒っているようにも聞こえた。
けれど、少なくともリリアを責める声ではなかった。
戸惑いながら、リリアはノクスの傷口へ視線を落とす。
黒い痕の広がりは、先ほどよりも明らかに鈍っていた。
「……薬は効いています」
リリアは小さく息を吐いた。
「でも、応急処置です。完全に治ったわけではありません」
ノクスはわずかに息を整えた。
痛みも熱も、まだ身体の奥に残っているはずだ。
それでも、その声からはもう迷いが消えていた。
「ルドガー、セラフィナ。隠れ家へ戻る」
ノクスが告げると、ルドガーとセラフィナが当然のように従った。
「この娘はどうする?」
「連れていけばいいではありませんか。どうせ行くあてもないのでしょう?」
戻る場所なら、ある。
けれど戻れば、明日には花嫁になる。
父よりも年上の侯爵の妻に。
それはもう、帰る場所とは呼べなかった。
沈黙したリリアを見て、ノクスは短く決断を下した。
「隠れ家へ連れていく」
「人間をか」
ルドガーの声が鋭さを増す。
「ノクス、正気か? 隠れ家が人間に知られるぞ」
「置いていく理由もない」
「理由ならある。人間だからだ」
その言葉は冷たかった。
リリア自身が何かをしたわけではない。
それでも、その冷たさに反論する資格が自分にあるのか、わからなかった。
「ルドガー」
セラフィナが静かに口を挟む。
「あなた、陛下の病状の変化を見分けられますか?」
「……」
「私は無理です。あなたも無理でしょう。悔しいですが、この人間のお嬢様にはそれができる」
セラフィナはちらりとリリアを見た。
「信用はしていません。でも、使えるものを見ないふりするほど、私は愚かではありません」
ルドガーは奥歯を噛みしめたように黙り込む。
ノクスは何も言わなかった。
ただ、ルドガーを見ている。
やがてルドガーは、諦めたように息を吐いた。
「……監視をつける」
「好きにしろ」
ノクスは短く答えた。
それで話は終わった。
リリアは地面に落ちた鞄を拾い上げ、散らばった小瓶をひとつずつしまった。
割れていないことを確かめ、薬草帳を胸に抱く。
ここからどこへ連れていかれるのかはわからない。
けれど、少なくとも今は、ノクスを診なければならない。
そう思うと、不思議と足は前へ動いた。
森の奥へ続く道は暗かった。
重なり合う枝葉が月明かりを遮り、湿った落ち葉が靴の下で小さく沈む。
セラフィナは迷いなく先を歩く。
白い髪が闇の中で淡く浮かび、外套の裾の下で狐の尾が静かに揺れていた。
ルドガーはノクスのそばを離れない。
支える手つきは乱暴ではないが、遠慮もなかった。
ノクスがわずかに歩幅を乱すたび、ルドガーの眉間にしわが寄る。
「だから無理をするなと言っている」
「うるさい」
「うるさくされるような歩き方をするな」
セラフィナが小さく息を吐いた。
「まったく。昔から、弱っている時ほど格好をつけたがるんですから」
「余計なことを言うな」
「余計ではありません。必要な指摘です」
セラフィナは涼しい顔で返す。
王と配下というより、長い時間を共に過ごしてきた家族のようだった。
リリアはそのやり取りを、不思議な気持ちで見つめていた。
人間の国で語られていた黒狼族の王は、誰にも心を許さず、冷たい玉座に座る恐ろしい存在だった。
けれど目の前の彼は、苦い薬に顔をしかめ、配下に叱られながら歩いている。
恐ろしい王。
その言葉から抱いていた印象とは、あまりにも違っていた。
どれほど歩いただろう。
やがて木々の隙間に、黒い石造りの屋敷が姿を現した。
「……こんなところに屋敷が」
「少しでも人間が近づけば、追い返していましたから」
セラフィナが振り返らずに答える。
口調は軽い。
けれど、その奥にあるものは少しも軽くなかった。
リリアは唇を引き結び、屋敷を見上げた。
そこは華やかな宮殿ではない。
黒い石壁。
頑丈な鉄門。
森に背を預けるように建つ、砦のような屋敷だった。
窓には小さな明かりが灯っている。
門の前には、黒い外套をまとった兵士たちが数人立っていた。
「ノクス様!」
兵士のひとりが駆け寄ってくる。
けれど、リリアに気づいた瞬間、その足が止まった。
視線の色が変わる。
ノクスの負傷に向けられていた動揺が、リリアを見た途端、冷たい警戒へと変わった。
ひとりだけではない。
門の兵士も、屋敷の入口に控えていた使用人たちも。
皆が、リリアを見ていた。
誰も罵らない。
誰も剣を抜かない。
けれど、その沈黙は言葉よりもはっきりと告げていた。
――人間。
なぜ、人間がここにいる。
リリアは鞄を握る手に力を込めた。
「この娘は俺を治療した」
ノクスが低く言った。
「手出しはするな」
短い命令だった。
それだけで兵士たちは姿勢を正し、膝をつく。
「承知しました」
返る声は揃っていた。
しかし、リリアを見る目から冷たさが消えたわけではない。
ノクスの言葉は、リリアを受け入れさせたのではない。
ただ、手を出すなと命じただけだ。
それでも、胸の奥が少しだけ温かくなった。
守ってくれたのだろうか。
そう思いかけて、リリアはすぐにその考えを打ち消す。
違う。
薬師として必要だからだ。
ノクスさんの治療に必要だから、手出しを禁じただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
屋敷の扉が静かに開いた。
中から現れたのは、灰色の髪をきっちりと結い上げた黒狼族の女性だった。
年配に見えるが、背筋はまっすぐ伸びている。
穏やかな顔立ちをしているのに、その目は少しも笑っていなかった。
「エッダ」
セラフィナが声をかける。
「陛下が負傷されています。部屋の用意を」
「すでに整えております」
エッダと呼ばれた女性は、ノクスへ深々と礼をした。
そして、リリアを見る。
兵士たちほど鋭くはない。
けれど、温かくもなかった。
「こちらの方は」
「薬を使える人間のお嬢様です」
セラフィナが答える。
「少なくとも今は、陛下の症状を一番まともに見ています」
エッダの視線が、リリアの鞄と薬草帳へ落ちた。
「人間のお嬢様が、薬を……」
丁寧な声だった。
だからこそ、その距離がわかった。
リリアは小さく頭を下げる。
「リリア・エルハートと申します。あの……薬室をお借りできればと思います」
「薬室はございます。ですが、長く使われておりません。今夜すぐに使える状態かは、確認が必要です」
「そう、ですか」
リリアは思わず薬草帳を抱く手に力を込めた。
ノクスの傷は、まだ完全に落ち着いたわけではない。
できることなら、すぐにでも薬草を確認したかった。
けれど、ノクス自身も立っているのがやっとの状態だった。
ルドガーに支えられた肩はわずかに沈み、額には薄く汗がにじんでいる。
セラフィナはエッダへ視線を向けた。
「今日はここまでですね」
「陛下を休ませます。このお嬢様には客室を」
「承知しました」
エッダは一礼する。
リリアは慌てて言葉を挟む。
「あの、私は客室でなくても……どこか隅をお借りできれば」
「人間のお嬢様を廊下に転がしておいたとなれば、こちらの品位が疑われます」
セラフィナが涼しい顔で言った。
リリアは返す言葉を失う。
親切なのか、嫌味なのか、よくわからない。
ただ、少なくとも追い出されるわけではないらしい。
エッダに案内された客室は、簡素だが清潔だった。
白い寝台。
小さな机。
窓の外には、黒い森が広がっている。
実家の自室より、ずっと飾り気は少ない。
それでも、不思議と息苦しくはなかった。
「必要なものがあれば、扉の外の者にお申しつけください」
エッダは淡々と言った。
「ただし、夜間に一人で屋敷を歩くことはお控えください。ここは人間のお嬢様には慣れない場所でしょうから」
「……はい。ありがとうございます」
リリアが頭を下げると、エッダは静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
途端に、部屋の中はしんと静まり返った。
リリアはようやく息を吐いた。
身体中が重い。
森を逃げ、狼を助け、相手が王だと知り、黒狼族の隠れ家にまで来てしまった。
たった一晩の出来事とは思えなかった。
リリアは明日に備え、鞄の中身を確認する。
小瓶も、包みも、薬草帳も、どれも無事だった。
ほっとしかけて、指が止まる。
……ない。
鞄の内側に入れていたはずの、ハンカチがない。
母が若草の刺繍をしてくれた、小さな白いハンカチ。
何度も確かめる。
けれど、どこにもない。
「……落とした?」
声が、夜の客室に小さく響いた。
森を歩いていた時だろうか。
薬を作った時だろうか。
それとも、ルドガーに地面へ押さえつけられた時か。
冷たい土の感触が、ふいによみがえる。
背中に回された腕の痛み。
息が詰まるほどの恐怖。
リリアは自分の腕をそっと押さえた。
怖かった。
痛かった。
けれど、ルドガーは、ノクスを守ろうとしただけだ。
リリアは鞄を抱えたまま、窓の外を見た。
黒い森が、夜の底で静かに揺れている。
あのどこかに、母のハンカチが落ちている。
そして、もし。
それを誰かが拾ったら。
リリアは唇を噛んだ。
胸の奥に残った小さな不安は、夜が更けても消えなかった。




