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政略結婚から逃げた令嬢は、獣人の王に愛される 〜森で助けた傷だらけの獣人は、国を背負う王でした〜  作者: 砂本りつ


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第4話 白狐の侍女と黒狼の騎士

 夜の森の奥から、枝を踏み折る音が近づいてくる。


 リリアは息を殺し、背後の闇へ視線を向ける。



 月明かりの届かない木々の間に、何かがいる。



「ノクスさん……」


 小さく呼ぶと、ノクスは低く言った。


「下がっていろ」


 その声は先ほどまでよりも、ずっと鋭かった。

 

 けれどリリアは、彼が立ち上がろうとした瞬間、慌てて肩を押さえた。


「だめです! 動けば傷が――」


 言い終えるより早く、黒い影が飛び込んできた。


 リリアの視界が揺れる。

 次の瞬間、腕を背中にねじ上げられ、冷たい地面へ押さえつけられていた。


「っ……!」


 鞄が倒れ、小瓶が草の上へ転がる。


「ノクスから離れろ、人間」


 頭上から落ちてきた声は、氷のように冷たかった。



 リリアが顔を上げると、そこに立っていたのは黒髪の男だった。



 背が高く、黒い外套の下には、鍛えられた身体と腰に下げた剣。


 そして、月明かりを受けて光る金の瞳。



 同じだ、とリリアは思った。

 ノクスと同じ、黒狼族の瞳。



「ルドガー」


 ノクスの声が低く響く。


「放せ」


「いいや、できない」


 ルドガーと呼ばれた男は、リリアの腕を押さえたまま、ぴくりとも動かなかった。


「人間に傷を負わされたと聞いた。匂いを辿れば、そばにいたのはこの娘だけだ」


「こいつの薬で俺は助かった」


「人間を信じろと?」



 ルドガーの声に、抑えきれない怒りが滲む。



「おまえは王である前に、俺にとっては弟みたいなものだ」


「その弟に毒を盛った人間を、俺はまだ忘れていない」



 その言葉に、リリアの胸が小さく跳ねた。


 王。


 いま、彼はそう言った。



 リリアは地面に押さえつけられたまま、ノクスを見た。



「……ノクスさんは、王様?」



 つぶやいた声は、自分でも情けないほどかすれていた。


 ノクスは答えなかった。

 けれど、その沈黙が答えだった。




 その時、木々の間からもうひとつの影が現れた。


 白い髪が月明かりにきらめく。

 白狐族の美しい女だった。



「ルドガー、少し乱暴すぎます」


 やわらかな声だった。

 けれど、言葉の端は鋭い。



「その娘が本当に刺客なら、陛下を治療する前に喉を裂いているでしょう。少なくとも、そんな姿で森をうろつく刺客なんて、私は見たことがありません」



「セラフィナ」


 ノクスが短く名を呼ぶ。

 セラフィナは一礼した。



「ご無事……とは言いがたいですね、陛下」


 そしてリリアへ視線を向ける。



「あなたも、災難でしたね。とはいえ、こちらも人間に優しくできるほど平和な歴史を持っていないので」



「……はい」



 リリアは小さく答えた。

 言い返せなかった。



 セラフィナの声には、棘がある。

 ルドガーの手は、まだリリアを拘束している。



 けれど、彼らが怒る理由は、少しだけわかった。



 人間が、ノクスさんに毒を盛った。

 彼らが自分を疑うのは、当然なのかもしれない。



「ルドガー」


 ノクスの声が、先ほどよりも低くなる。



「命令だ。放せ」


 ルドガーは奥歯を噛みしめたように沈黙した。


 それでも、ゆっくりとリリアの腕を離す。



 リリアは痛む腕を押さえながら、身を起こした。


 その瞬間、ノクスの身体がぐらりと揺れた。


「陛下!」


 セラフィナが駆け寄る。

 ノクスの額には、先ほどよりも濃い汗が浮かんでいる。



 傷口の黒い痕は、またじわじわと広がり始めていた。


「……悪化しています」


 リリアは息をのんだ。



「さっき抑えたはずなのに……熱が、内側から戻ってきている」


「ノクスに触るな」


 ルドガーが低く唸る。

 けれどリリアは、もう怯えている余裕がなかった。


「このままだと、また獣の姿に戻ってしまうかもしれません」



 その言葉に、空気が凍った。

 セラフィナの目が細くなる。



「……なぜ、そう思うのですか?」



「今のノクスさんと同じような症状を、母の薬草帳で読んだことがあります」


「人間の娘が、なぜその記録を持っている」


 ルドガーの声がさらに低くなる。

 リリアは鞄を拾い上げながら答えた。



「母の形見です。獣人族由来の薬草帳だと書いてありました。でも、詳しいことは私にもわかりません」


「都合のいい話だな」


「都合がよくても、今は使える知識です」



 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


 リリアは鞄の中から小瓶と薬草を取り出す。


「月見草だけでは足りません。銀葉ミントを増やして、苦草を少し。熱を散らすなら、黒樹皮の粉も必要です」




「苦草?」


 セラフィナの片眉が上がる。




「それ、相当まずい薬になるのでは?」


「……はい」



 リリアは一瞬だけ目を伏せた。


「でも、効きます」


 セラフィナはノクスを見た。

 ノクスは苦しげに息を吐きながらも、リリアから視線を逸らしている。


 その様子を見て、セラフィナは口元にほんのわずかな笑みをこぼした。



「陛下」


「なんだ」


「飲めますよね」




「……当然だ」


 答えるまでに、少し間があった。


 リリアは小瓶を手にとり、慎重に調合を始めた。


 調合が進むにつれて、苦草の鼻の奥を刺すような強烈な匂いが周囲に漂う。



 セラフィナが無言で一歩下がる。

 ルドガーでさえ、わずかに眉をひそめた。

 ノクスは、露骨に顔を背けた。



「できました」



 小瓶の中には黒に近い深緑色の液体が、とろりと揺れている。


 自分で作っておいて、確かにこれはひどい匂いだと思った。


 けれど、今はそれどころではない。



「ノクスさん、飲んでください」


「いらん」


 即答だった。

 もちろん、リリアも負けてはいられない。


「だめです。これは必要なんです」


「人間の薬など飲めるか」



 その声は威厳に満ちていた。


 王としての重みがあり、他者を従わせる力があった。


 けれどリリアには、どうしても別のものに聞こえた。



 ――飲みたくない、と。


「患者が治療を選り好みしないでください」


 言った瞬間、森の空気が凍った。



 ルドガーから殺気が漏れる。

 セラフィナは面白いものを見るような顔で口元を覆う。



 ノクスの金色の瞳が、リリアを見据える。

 リリアは遅れて、自分が黒狼族の王に向かって何を言ったのかを理解した。



「あ……」



 血の気が引く。



「す、すみません。ですが、今の状態で放っておくほうが危険です。苦いのは、ええと、我慢してください」


「苦いから飲まないとは言っていない」


 ノクスが不機嫌そうに返す。

 リリアは小瓶を差し出したまま、真剣に言った。



「では、飲めますね」



 沈黙。

 長い沈黙だった。


 やがてノクスは、ひどく不本意そうにそれを受け取った。



 ルドガーは今もリリアを睨んでいる。

 セラフィナは、ニヤニヤしながらノクスを見ている。



 ノクスは薬を一息で飲み干した。

 金色の瞳が大きく見開かれ、口元が引きつる。



 王の威厳は保たれている。

 保たれてはいる。


 けれど、ものすごく苦そうだった。



 リリアはほっと息を吐き、小声でつぶやいた。



「よかった、味覚はありますね」



 セラフィナが、笑いをこらえきれず、とうとう吹き出した。

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