表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
政略結婚から逃げた令嬢は、獣人の王に愛される 〜森で助けた傷だらけの獣人は、国を背負う王でした〜  作者: 砂本りつ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/13

第3話 金色の瞳の男

 金色の瞳が、リリアを射抜いた。



「……っ」


 息をすることさえ忘れ、リリアは目の前の男を見つめていた。



 つい先ほどまで、そこにいたのは黒い狼だった。


 けれど今、月明かりの下に横たわっているのは、まぎれもなく人の姿をした男だった。



 人の姿になっても、傷は消えていない。


 それどころか、傷口のまわりには、墨を滲ませたような黒い痕が、まだ生々しく残っていた。



 リリアは震える指で布を握りしめ、そっと傷口へ押し当てようとした。


「動かないでください。まだ血が止まっていません」


 口からこぼれた声は、自分でも驚くほど冷静だった。


 薬師としての声だけが、身体の奥からまっすぐに出てきた。



 男の眉が、わずかに動く。



「人間の娘」


 低い声だった。

 森の奥で獣が喉を鳴らすような、深く、かすれた声。



「……なぜ、俺を助けた」


 リリアは言葉に詰まった。




 なぜ。

 そう言われても、答えはひとつしかない。




「……苦しそう、でしたから」


 男の目が、すっと細くなる。



「それだけか」


「目の前で苦しんでいる方を放っておくほうが……私には、難しいです」


「人間が理由もなく黒狼を助けるものか」



 空気が凍った。

 リリアの背筋を、冷たいものが這い上がる。



 目の前にいるのは、傷ついた患者だ。

 けれど同時に、たった今まで巨大な狼だった存在でもある。


 怒らせれば、私の細い首など、簡単に噛みちぎられてしまうだろう。


 それでも。

 傷口から手を離すことだけは、できなかった。



「誰の差し金だ」


 男がさらに続ける。


「人間の貴族か。……それとも、あの薬を扱う連中か」


「あの薬……?」



 思わず聞き返したリリアを、男の眼光がさらに鋭く射抜いた。


「知らないふりをするな」


「知りません。でも……ただの傷ではないと思いました」


 リリアは震える息を整えながら、傷口の黒ずみへ視線を落とした。



「熱の出方が普通ではありません。傷は深いです。でも、この症状は異常です。」


 言葉にしていくうちに、リリアは自分の声が少しずつ落ち着いていくのを感じた。



 薬のことなら、話せる。

 怖くても、手順を思い出せる。



「使ったのは、清め水と止血布。毒消しには月見草と銀葉ミントを少しだけ。強い薬草は避けました。効きすぎれば、かえって危険だと思って」



 男は黙っていた。

 疑っている。

 それは、痛いほどわかった。



「……刃に、毒が塗られていた」


「毒……?」


「人間の貴族どもが好む、卑怯な毒だ」



 男はそこで口を閉ざした。

 それ以上を語る気はない。

 そう告げるような沈黙だった。



 けれど、リリアにはそれだけで十分だった。


 ただの毒ではない。

 そして彼自身も、それを知っている。



「では、追われて……」


「違う」


 男は短く遮った。

 その声には、怒りよりも苦痛が滲んでいた。



「俺が離れた」


「……離れた?」


「近くにいる者を、巻き込むわけにはいかない」



 それ以上、男は語らなかった。

 けれどリリアには、ほんの少しだけわかった気がした。



 この人は、誰かに見捨てられたのではない。


 誰かを遠ざけて、ひとりで倒れていたのだ。



「治療のふりをして近づいたのか」


 男の声が、再び冷たさを帯びる。


「俺が弱ったところを、確実に仕留めるために」



 その言葉は、あまりに理不尽だった。


 助けようとした相手に疑われることは、怒りよりも先に、胸の奥を小さく痛ませた。



「そんなつもりなら、傷の処置なんてしません……」


 リリアは布を押さえたまま、少しだけ唇を引き結ぶ。



「それに……噛まれるかもと思いながら、口元に薬を含ませたりもしません」


「……噛まれると思ったのか」


「……思いました」



 正直に答えると、男はわずかに沈黙した。

 その沈黙が、ほんの少しだけ、張り詰めていた空気を緩めた気がした。


 リリアは小さく息を吐き、傷口の布を取り替える。



「……お前は、何者だ」


 低い声で問われ、リリアの指が止まった。


「リリア・エルハートです。人間国の……いえ」


 家名を口にした瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。



 没落寸前の伯爵家。

 明日になれば、リリアはその家のために、望まぬ相手へ差し出されるはずだった。



「今はもう、ただの逃げだした娘です」


「逃げだした?」


「本当は明日、望まない結婚をさせられるはずでした」



 そこまで言って、リリアは口を閉じた。

 なぜ、初対面の相手にこんなことを話しているのだろう。



 けれど男は笑わなかった。

 同情もしなかった。

 ただ、金色の瞳を細め、静かに言った。



「リリア」


「……はい」


「その名は覚えた」


 男は一度、目を伏せた。

 そして短く告げる。



「ノクスだ」


「ノクスさん、ですね」


「……妙な呼び方をする」



 リリアは新しい布を取り出し、傷口にそっと当てた。


「ノクスさん。右手でここを押さえてください。強すぎず、でも離さないで」


 ノクスは、かすかに眉を寄せた。

 その表情がどこか可笑しくて、リリアは一瞬だけ恐怖を忘れた。



「俺が何者か知らずに言っているのか」


「あなたが何者でも、今は私の患者です」


 そう答えた途端、ノクスの瞳がわずかに揺れた。


 けれど、それは一瞬だけだった。

 すぐに彼は顔を背け、起き上がろうとする。


「待ってください!」


 リリアは慌てて、その肩を押さえた。

 押さえたところで、リリアの力で止められるはずがない。


 それなのにノクスは、なぜか動きを止めた。


「まだ安静にしていないと。傷が開きます」


「ここに長くいるわけにはいかない」


「でも――」


「俺がここに留まれば、追っ手も来る。お前まで巻き込む」



 リリアは周囲を見回した。

 夜の森は静かだった。

 不気味なほど、静かすぎる。



 先ほどまで聞こえていた虫の声さえ、いつの間にか途絶えている。



 嫌な予感がした。


「せめて、もう少しだけ処置をさせてください。止血が甘いまま動けば、毒の回りも早くなります」


「人間は信用できん」


 ノクスは言った。

 けれど、その瞳は傷口へ向けられていた。



「だが……その薬は、効いている」


 リリアは傷口を見た。

 黒く滲んでいた痕が、ほんのわずかに薄くなっている。



「薬草が良かったんです。母の薬草帳に、似た症状の記録がありましたから……でも、完全には処置できていません」



 リリアはノクスの額へ手を近づけ、途中で止めた。



「触れてもいいですか?」



 ノクスは何も言わなかった。

 拒まれなかった。

 それを許しと受け取って、リリアはそっと彼の額に触れる。



 熱い。

 やはり、ただの熱ではない。



 ノクスの瞳が、鋭くリリアを見据える。


「何がわかる」


「まだ、はっきりとは。でも……呪術に近いものかもしれません」


 その言葉を口にした瞬間、森の空気がさらに重くなった。




 その時だった。

 夜の森の奥で、枝を踏み折る音がした。



 ひとつではない。

 リリアが息をのんだ瞬間、ノクスが闇を睨む。



「……来たか」



 それが助けなのか、追っ手なのか。

 リリアには、まだわからなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ