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政略結婚から逃げた令嬢は、獣人の王に愛される 〜森で助けた傷だらけの獣人は、国を背負う王でした〜  作者: 砂本りつ


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第2話 森での出逢い

「……ごめんなさい」



 誰に謝ったのか、自分でもわからなかった。



 父にか。

 エリオットや屋敷の皆にか。

 明日、花嫁を受け取りに来るガルヴィス侯爵にか。



 それとも、ずっと我慢すればいいと思っていた、昨日までの自分にか。



 リリアは薬草帳を胸に抱き、窓の外をのぞき込んだ。


 夜風が、頬を冷たく打つ。


 窓の下には、庭師が手入れをやめた古い薔薇垣があった。


 伸び放題の枝が闇の中で絡まり合い、まるで逃げる者を引き留めようとする指のように見える。



 息を吸い、窓枠に足をかける。

 外套の裾が枝に引っかかり、小さく布の裂ける音がした。


 それだけで、心臓がうるさいほど跳ね上がる。



 立ち止まっている余裕などない。

 庭を駆け抜け、裏門へと急ぐ。



 錆びついた錠に手をかけた瞬間――きぃ、と金具がひどく嫌な音を立てた。




 体が、凍りつく。

 誰かに聞かれただろうか。

 息を殺し、張り詰めた空気の中で耳を澄ます。



 ……屋敷の中から、足音はしない。


 ただ遠くの暖炉が爆ぜる微かな音だけが、冷たい夜気の中に溶けていった。



 安堵とともに、リリアは門の隙間をすり抜ける。


 その先に待っていたのは――屋敷の灯りが一切届かない、深い夜の森だった。





 昼間なら、ただの森だ。



 薬草を探しに、何度も足を踏み入れたことがある。カミツレの咲く斜面も、月見草が群れる小道も、銀葉ミントが湿った土を好む場所も知っている。



 けれど、夜の森は、まるで別の生き物だった。



 闇が枝から枝へと垂れ下がり、木々の隙間から湿った息が流れてくる。


 森そのものの腹の中へ、飲み込まれていくようだった。


 リリアは外套の前を握りしめ、足を速めた。


 屋敷から離れれば離れるほど、足元は悪くなる。


 靴先に湿った土がまとわりつき、一歩ごとに体力を奪っていく。裾に絡んだ枯れ葉が擦れ、かさり、かさりと耳障りな音を立てた。




 遠くで、犬の吠える声がした。

 リリアは思わず立ち止まる。

 追っ手だろうか。

 まだ気づかれるには早すぎる。



 リリアが部屋から消えているとわかれば、屋敷中が騒ぎになる。


 ガルヴィス侯爵の名を出せば、父は迷わず人を出すだろう。




――君ひとりが我慢すれば、みんな助かる。



 エリオットの声が、耳の奥でよみがえった。


 昔と同じ、リリアを安心させるような声。

 けれど今は、その優しさが鎖のように胸に巻きつく。




「……違う」


 リリアは震える唇でつぶやいた。

 森に吸い込まれてしまいそうな、小さな声だった。


 それでも、言わずにはいられなかった。




「私は、戻らない」


 そのときだった。

 風に混じって、奇妙な匂いがした。

 鉄のような、重く生臭い匂い。




 血だ。

 リリアは足を止める。



 夜の森で、血の匂いがする。

 近づくべきではない。


 猛獣かもしれない。盗賊かもしれない。罠かもしれない。


 逃げなければと、頭ではわかっていた。

 なのに、胸の奥で別の声がする。



 苦しんでいる誰かがいる。



 リリアは不安を紛らわすように鞄を抱きしめた。


 そして、血の匂いがする方へ、ゆっくりと足を向ける。



 茂みをかき分けると、月明かりが差し込む小さな空き地に出た。


 彼女の足が、その場に縫い止められる。




 狼だ。

 人の背丈ほどもありそうな、巨大な黒い狼だった。



 闇をそのまま毛皮にしたような身体が、荒い呼吸に合わせて大きく上下している。


 前脚には深い傷があり、黒い毛の間から血がにじんでいた。

 

 赤黒い血は地面に落ち、湿った土へ染み込んでいる。



 リリアはその場で凍りついた。

 怖い。

 身体の奥から、本能がそう叫んでいる。



 近づいてはいけない。

 逃げなければ。

 けれど、狼の呼吸は明らかにおかしかった。



 ただの怪我ではない。

 胸の奥から無理やり何かを引き裂かれているような、苦しげな息遣い。



 傷だけなら、こんなふうにはならない。

 毒に近い。



「怖い……でも、苦しんでる」


 声に出した瞬間、足が一歩だけ前に出た。

 狼の喉から、低いうなり声が漏れる。

 地面を震わせるような音だった。



 これ以上近づくな。

 そう告げる感情が、恐ろしいほどはっきり伝わってくる。


 リリアはすぐに足を止め、両手を少しだけ見せた。


「わかっています。危害を加えるわけじゃありません」



 できるだけ静かに、膝をつく。

 声を荒げてはいけない。

 急に動いてはいけない。

 怯えた獣に近づくときは、相手の逃げ道を塞がない。


 母の薬草帳の端に、そう書き添えられていた。


「少しだけ、傷を見せてください。嫌なら、すぐに離れます」


 狼の金色の瞳が、リリアを射抜く。

 獣が言葉を理解するはずがない。

 そう思うのに、その瞳はあまりに静かで、あまりに鋭かった。


 まるで、彼女の言葉の奥まで見透かしているようだった。



 リリアは鞄から小瓶を取り出した。

 清め水。

 止血布。

 月見草と銀葉ミント。


 指先は震えている。

 けれど、薬草を選ぶ手順だけは間違えなかった。


「月見草、銀葉ミント……強すぎる薬草は、だめ。」


 自分に言い聞かせるように呟きながら、携帯用の小さな乳鉢で薬草をすり潰す。


 乾いた葉が砕け、青く苦い香りが立った。


 リリアが傷口に清め水をかけると、狼の身体がびくりと震えた。


「ごめんなさい。しみますよね。でも、汚れを落とさないと」


 声をかけながら、血を拭う。

 黒い毛の下、傷の周囲に黒ずんだ筋が浮かんでいた。


 まるで、墨を血管に流し込まれたような痕。



 リリアは息を呑む。

 やはり、ただの傷ではない。



「どうして……こんな……」


 眉を寄せる。

 けれど、今できることをするしかない。


 リリアは薬草を傷口に当て、止血布で押さえた。


 狼の喉から、苦しげな息が漏れる。

 その音に、彼女の胸も締めつけられた。


「大丈夫です。少しだけ、我慢してください」


 そう言ってから、リリアははっとした。




 我慢。

 その言葉が、自分の胸にも刺さる。



――君ひとりが我慢すれば、みんな助かる。



 違う。

 違う。

 これは、誰かが犠牲になる我慢ではない。

 助かるための、必要な我慢だ。




 リリアは震える息を整え、鎮静薬を布に染み込ませた。



「飲めますか? 少しでいいんです」


 狼は動かない。

 けれど、金色の瞳だけは彼女を見ていた。


 リリアは薬を含ませた布を、牙の隙間へそっと近づける。


 噛まれるかもしれない。

 その牙は、彼女の細い手首など簡単に砕くだろう。


「嫌なら、噛んでもいいです」


 自分でも無茶なことを言っていると思った。


「でも、その前に……少しだけ、薬を含んでください」


 布が牙に触れた。

 その瞬間、狼の身体が淡く光った。




「え……?」




 月明かりとは違う。

 黒い毛並みの奥から、銀にも青にも見える光がにじみ出ている。


 光はゆっくりと強くなり、巨大な狼の輪郭をほどいていった。




 獣の前脚が、人の腕の形へ変わる。

 黒い毛皮が、夜の霧のように薄れていく。



 リリアは息をすることも忘れて、その光景を見つめていた。


 やがて月明かりの中に現れたのは、黒髪を汗に濡らした男の姿だった。



 長身の身体には、裂けた黒衣がまとわりついている。


 肩から腕へ走る傷は、狼だったときのまま残っていた。



 男の瞼が、かすかに動く。




 そして――金色の瞳がこちらを見た。

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