第1話 みんなを救う花嫁
明日、私は売られる。
花嫁という名前で。
鏡の中にいるリリア・エルハートは、まるで高価な箱に詰められた贈り物のようだった。
淡い蜂蜜色の髪は、侍女たちの手で何度も梳かれ、白い花飾りを差し込まれている。
いつもなら自分で雑に結んでしまうそれも、今日は一筋の乱れも許されないほど美しくまとめられていた。
胸元には、伯爵家に残っていた最後の真珠。その身体を包む花嫁衣装は、息苦しいほど重たかった。
「まあ、なんてお綺麗なんでしょう」
誰かがそう言った。
リリアは鏡の中で、静かに微笑んだ。
綺麗。
その言葉が、ひどく遠く聞こえた。
白い衣装は、花嫁のためのものだという。
けれどリリアには、それがどうしても、弔いの装いのように思えてならなかった。
「ガルヴィス侯爵様も、きっとお喜びになりますわ」
侍女の声は明るい。
リリアは微笑みを崩さずに答えた。
「ありがとうございます」
そう答えることには、慣れていた。
本当は息が苦しい。
背中の紐をきつく締められたせいだけではない。
明日、この衣装を着て礼拝堂に立てば、私はガルヴィス侯爵の妻になる。
父よりも年上の、あの老貴族の。
伯爵家の借金を肩代わりする代わりに、私を妻に迎える。
それが、エルハート伯爵家が差し出せる最後の品だった。
屋敷も、土地も、宝石も、すでにほとんど残っていない。
だから最後に残った娘を、売る。
ただ、それだけの話だった。
私の意思など、最初から勘定に入っていない。
「お嬢様、泣いてはだめですよ。目が腫れてしまいますから」
「泣いていません」
リリアはまた微笑んだ。
泣かないことにも、慣れていた。
侍女たちが満足そうに頷き、支度を終えて部屋を出ていく。
扉が閉まると、ようやく静けさが戻った。
暖炉の火が、小さく爆ぜる。
窓の外には、雲に隠れかけた月があった。
リリアはそっと胸元に手を当てる。
真珠の冷たさが、指先に触れた。
高価な宝石よりも、乾かした薬草を束ねる紐や、小さな調合瓶のほうが大切だった。
そんなことを言えば、父はきっと眉をひそめるだろう。
令嬢らしくない、と。
母が亡くなってから、何度も聞かされた言葉だった。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「リリア。入ってもいいかな」
懐かしい声だった。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……どうぞ」
扉が開き、エリオット・グレインが入ってきた。
リリアの幼なじみ。
子どものころ、森にある野苺の場所を教えてくれた人。
母の具合が悪い日に、庭先で一緒に薬草を摘んでくれた人。
泣きそうなリリアに、昔はよく「大丈夫」と言ってくれた人。
エリオットは今も、昔と同じように優しく微笑んでいた。
「綺麗だよ、リリア」
「ありがとうございます」
「そんな他人行儀な言い方をしなくてもいいのに」
エリオットの目はやわらかい。
けれどリリアは、その目を見るほど逃げ出したくなった。
優しい人だった。
少なくとも、昔は。
だからこそ、今の彼の言葉は、刃よりも深く胸に沈む。
「明日になれば、全部落ち着くよ」
「……全部?」
「ああ。伯爵家の借金も、君のお父上の立場も、僕の家のことも」
僕の家。
その言葉に、リリアの指先がかすかに強張った。
グレイン子爵家も、資金繰りに苦しんでいる。
ガルヴィス侯爵との縁ができれば、エルハート伯爵家だけでなく、エリオットの家にも援助が回る。
その話を聞いたとき、リリアは誰にも何も言えなかった。
嫌だと言えば、わがままになると思った。
逃げたいと言えば、みんなを見捨てることになると思った。
「君ならわかってくれるよね」
エリオットは、昔と変わらない穏やかな声で言う。
「伯爵家も、僕の家も、これで救われる。侯爵様は名門の方だ。君を悪いようにはしないはずだよ」
「……はい」
「リリアは昔から我慢強い子だったね」
違う。
そう言いたかった。
我慢強かったのではない。
我慢するしかなかっただけだ。
父が怒らないように。
親戚たちがため息をつかないように。
使用人たちが路頭に迷わないように。
エリオットが、そんな悲しそうな顔をしないように。
自分ひとりが耐えれば丸く収まるのなら、それが一番いいのだと。
ずっと、そう言い聞かせてきた。
エリオットはリリアの沈黙を、いつもの了承だと思ったのだろう。
少し安心したように息をつき、さらに言葉を重ねた。
「君ひとりが我慢すれば、みんな助かる」
君ひとりが。
我慢すれば。
みんな助かる。
では、その「みんな」の中に、私は入っているのだろうか。
「リリア?」
「いえ。なんでもありません」
エリオットは痛ましそうに目を細める。
「つらいのはわかるよ」
「でも、これは君にしかできないことなんだ」
その言葉は、リリアの逃げ道をひとつずつ塞いでいく。
「君は昔から、人のために動ける子だった。僕は、そういう君を尊敬している」
尊敬。
その言葉が、ひどく重かった。
尊敬しているのなら、どうして助けてくれないの?
そう聞くことはできなかった。
エリオットは、リリアを傷つけようとしているわけではない。
本気で、これが一番いい道だと思っている。
リリアさえ我慢してくれれば、皆が救われる。
だから我慢してほしい。
ただ、それだけなのだ。
それだけだからこそ、苦しかった。
「明日は早い。もう休んだほうがいい」
「はい」
「大丈夫。君ならきっと、うまくやれる」
扉の向こうに彼が消えてからも、その言葉だけが部屋に残った。
甘く、重く、逃げ道を塞ぐ蜜のように。
リリアはしばらく動けなかった。
鏡の中の花嫁が、こちらを見ている。
綺麗に飾られた、売り物の娘。
やがてリリアは、鏡の前を離れた。
衣装棚の奥に、古い木箱がある。
その中に、母の形見が入っていた。
革表紙の薬草帳。
色褪せるほど何度も読み返したページには、ところどころに母の丁寧な字で書き込みがある。
古い薬草の名前や特徴。
乾燥の仕方。
煎じる時間。
熱を下げる草と、毒を散らす草の組み合わせ。
リリア以外、誰も価値を認めなかった一冊。
父はそれを「泥臭い薬草遊び」と呼んだ。
親戚たちは「令嬢らしくない」と笑った。
けれどリリアは、その帳面だけは手放せなかった。
革表紙を開くと、乾いた薬草の匂いがかすかに立つ。
その匂いだけで、胸の奥にしまっていた記憶が浮かんでくる。
「あなたの手は、人を癒せる手よ」
病床の母は、いつもそう言ってくれた。
失敗した薬湯を作ってしまった日も。
泣きながら薬草を刻んだ日も。
小さなリリアの手を両手で包み込んで、温かく笑ってくれた。
「でもね、リリア。私はあなたが心配なの」
母の細い指が、幼いリリアの頭をそっと撫でる。
「誰かを楽にするために、あなた自身を痛めつけてはいけないわ」
その声は、今も耳の奥に残っている。
「傷ついた手では、いつか誰も癒せなくなるの」
「だから、その手で誰かを助けたいと思うなら、自分のことも大切にしなさい」
気がつくと、涙が帳面に落ちていた。
リリアは慌てて袖で拭う。
泣いている場合ではない。
泣くなら、逃げてからだ。
明日、私はガルヴィス侯爵の妻になる。
だから今夜、逃げる。
誰かのためではなく。
初めて、自分のために。
リリアは胸元の真珠に手をかけた。
伯爵家に残っていた最後の宝石は、冷たく、重かった。
留め具を外すと、真珠は掌の中で小さく沈む。白い手袋を脱ぎ、髪に差された花飾りをひとつずつ抜いていく。
それから、重たい花嫁衣装の紐をほどいた。
幾重にも重ねられた白い絹が、音もなく足元へ落ちる。
鏡の中の花嫁が、少しずつ崩れていく。
代わりに身につけたのは、普段から薬草摘みに使っていたワンピースと、少し色褪せた外套だった。
裾には、何度洗っても落ちない土の跡が残っている。
令嬢らしくない、と父が顔をしかめた服。
けれど今のリリアには、宝石を縫い込んだ花嫁衣装より、その古びた外套のほうがずっと心強かった。
必要なのは、母の薬草帳と、小さな調合道具だけ。
薬草帳と調合道具、乾燥させた薬草を詰めた小瓶を二つ、鞄に詰める。
瓶の触れ合う、かすかな音がした。
その小さな音で、リリアはようやく気づいた。
自分の手が、震えている。
怖い。
怖くてたまらない。
逃げた先に何があるのかもわからない。
父は怒るだろう。
親戚たちは恥知らずと罵るだろう。
エリオットは、きっと悲しそうな顔をする。
それでも。
あの礼拝堂に立つよりは、知らない夜の中へ踏み出すほうがいい。
窓の外で、風が森の匂いを運んできた。
湿った土。
濡れた葉。
遠くで揺れる木々の音。
リリアは窓枠に手をかけたまま、部屋を振り返った。
暖炉の火。
鏡。
外された真珠。
白い花飾り。
明日、誰かに差し出されるはずだった花嫁の残骸。
リリアは小さく息を吸った。
「私は、逃げます」
その声は、まだ弱かった。
けれど確かに、自分の声だった。
月明かりの下。
みんなを救うはずだった花嫁は、初めて自分のために歩き出した。
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