第18話 黒狼王の決意
月が中天に昇り、森が深い静寂に包まれる頃になっても、ノクスの執務室には明かりが灯っていた。
静まり返った部屋の中で、デスクの上に広げられた第二皇子からの書状だけが、白く不気味な存在感を放っている。
――確かに、あの食えない皇子の言う通りだ。
ノクスは重い溜息をつき、背もたれに深く体重を預けた。
天井を見上げると、これまでの日々が脳裏をよぎる。
彼女は、没落寸前の家を救うためだけに政略結婚の道具にされかけた、傷ついた人間の令嬢だ。
本来なら、獣人族の王である自分などと関わるべきではなかった。
獣人国のある北の地は気候も厳しく、人間の文化から遠く切り離されている。
皇室の庇護下で、日の当たる華やかな貴族社会で、薬師として称賛されながら守られて生きるほうが、彼女にとってどれほど幸福なことか。
理性的な思考が、何度もノクスに「彼女を帰すべきだ」と冷酷に告げていた。
だが、その理性を切り裂くように、胸の奥で獣のような独占欲が激しく咆哮を上げる。
――絶対に、離したくない。
理性を失い、炎を吐いて暴れ狂う化け物のような自分を前にしても、彼女は決して逃げなかった。
『私を遠ざけて、ひとりで傷つかないでください』
あの時、鉄格子の奥まで踏み込んできた彼女の温かい手の感触が、今も鮮明に手のひらに残っている。
もし彼女を失う選択をすれば、自分は、この選択を一生後悔し続けるのだろうか。
それとも、時が経てば案外すぐに忘れてしまうのだろうか。
ノクスは、ギリッと血が滲むほど力強く拳を握りしめた。
……いいや。俺はもう、逃げない。何も諦めない。
彼女が欲する幸福が人間の国にあるのなら。俺は俺の全人生を懸けて、彼女にそれ以上の幸福を与えてみせる。
ただ、もし彼女が、俺よりも安全で穏やかな未来を望むなら、その時は――。
朝焼けの光が執務室に差し込む頃。
ノクスの瞳には、熱い決意が宿っていた。
「……おはようございます、陛下。一睡もしていないのでしょう」
夜が明け、ノクスが執務室を出ると、廊下の壁に寄りかかっていたセラフィナとルドガーが呆れたように出迎えた。
「お前たち……」
「第二皇子からの書状の件、リリアにどう話すか、一晩中悩んでいたんだろう?」
ルドガーが腕を組みながら、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
「あいつには帰る家も、後ろ盾もある。お前が引き留める名目は、もう何一つ残ってないぞ」
痛いところを突かれ、ノクスは微かに眉間を寄せた。しかし、その瞳から光が失われることはなかった。
「ああ、分かっている。……名目など、最初からいらなかったんだ」
真っ直ぐに響いたノクスの声に、ルドガーとセラフィナはわずかに目を見張った。
迷いを完全に断ち切った、王としての揺るぎない覇気。
その顔を見て、側近の二人は満足そうに肩をすくめ、道を譲るように壁際へ退いた。
「行ってこい。フラれたら、やけ酒くらいは付き合ってやる」
「ふふっ。リリアは早起きですから、もう起きているはずですわよ。存分に、思いを伝えてきてくださいな」
憎まれ口を叩きながらも温かい激励を受け、ノクスは無言で頷き、リリアの部屋へと真っ直ぐに足を踏み出した。
コンコン、と控えめなノックの音が響く。
「……ノクスさん?」
扉を開けたリリアは、朝の支度を終えたばかりの様子で、驚いたように瞬きをした。
「少し、話したいことがある。庭へ来ないか」
緊張を滲ませたノクスの声。
そして、彼の目の下に落ちた微かな疲労の影を見て、リリアは何かを察したのか、少しだけ表情を引き締めて頷いた。
裏庭は、木漏れ日が心地よい静かな場所だった。
そこで足を止めたノクスは、ゆっくりと振り返り、静かな声で切り出した。
「……昨日届いた、第二皇子からの書状のことだ」
その言葉に、リリアの肩がわずかに揺れた。
「あそこに書かれていた通り、お前を縛る借金はもうない。皇室専属の薬師として迎えられれば、人間の国で一生、安全で不自由のない暮らしが約束される」
事実だけを淡々と並べるノクスの言葉に、リリアは次第に表情を曇らせていく。その目は、少しだけ不安に揺れていた。
「……ノクスさんは、私に、ここを出て、帰れと言っているのですか?」
その問いに、ノクスは言葉を詰まらせた。
正直に言えば、喉が張り裂けそうに苦しい。
帰ってほしくない。ずっとそばにいてほしい。
だが、愛する者の将来を、自分のエゴだけで強要するわけにはいかない。
「……俺たちは、もうすぐ獣人国に帰る」
「俺たちと一緒にいれば、獣人国の過酷さや、人間に対する差別が、お前を苦しめるかもしれない」
ノクスは一歩、リリアとの距離を詰めた。
そして、今まで誰にも見せたことのないほど、真っ直ぐに、真摯に、その瞳を見つめた。
「だが……俺は、お前を手放したくない」
「ノクス……さん?」
ノクスはリリアの前に、ゆっくりと片膝をついた。
「俺は、お前を無理に縛るつもりはない。もし許されるのならば……」
ノクスは、愛おしげに、リリアの小さな手を取った。
「人間の国で得られるはずだったどんな幸福よりも、俺が一生をかけて、お前を幸せにすると誓う」
「俺の財も、命も、すべてお前の好きにしていい」
「俺の妃になってくれ、リリア」
静寂が庭を包み込む。
風の音さえ止まったような、長い沈黙。
ノクスは、彼女の返事を待つ間も、心臓が爆発しそうだった。
もし「帰ります」と言われたら、自分は彼女を止める権利がない。すべては、彼女の選択次第なのだ。
しかし、リリアの目からは、驚きと共に、次第に大粒の涙が溢れ出していた。
リリアはポロポロと涙をこぼしながらも、花が綻ぶような、この上なく幸せそうな笑みを浮かべた。
「……嬉しい、です」
リリアは震える声で呟き、ノクスの手の上に、自分の手を重ねた。
まだ明確な返事は言葉になっていない。
けれど、涙で潤んだその熱い眼差しが、何よりも雄弁に彼女の心を語り出していた。




