最終話 幸せな花嫁
木漏れ日が降り注ぐ裏庭。
自分の手の上に重ねられたリリアの温もりを感じながら、ノクスは息を呑んだ。
「リリア……」
「ずっと、考えていたんです」
リリアは空いたほうの手でそっと目元の涙を拭うと、ノクスの真っ直ぐな瞳を、正面から見つめ返した。
「以前、地下牢であなたが発作に苦しんでいた夜。なぜあなたのそばにいるか聞かれた時、私はうまく答えられませんでした」
「ただ放っておけないから、と答えましたが……本当は、あの時からずっと、気づいていたんです」
まだ感情に名前をつけられず、ただ必死に彼に手を伸ばしていた過去の自分。
けれど今のリリアには、自分の心にあるこの熱い感情の正体が、はっきりと分かっていた。
「私は、ノクスさんを愛しています」
凛とした、迷いのない声だった。
その言葉に、ノクスは雷に打たれたように固まった。大きく見開かれた瞳が、微かに揺れている。
「薬師として、あなたを治すためだけではありません。誰かに守られるだけの、無力な令嬢としてでもありません」
「ひとりの女性として、あなたの隣を歩かせてください」
リリアは、重ねていた彼の手をきゅっと握り返した。
「第二皇子様からの申し出は、お断りします。私はもう誰かの都合で生きる令嬢ではありません。私の居場所は、私が決めます」
「ノクスさん。私を、あなたのお妃として……獣人の国へ連れて行ってくれますか?」
それは、彼女が自らの足で立ち、自らの意思で「彼と共に生きる未来」を選び取った瞬間だった。
ノクスは、信じられないものを見るようにリリアを見つめ……やがて、深く、深く息を吐き出した。
「……っ」
ノクスは立ち上がると、リリアの華奢な身体を、壊れ物を扱うように、優しく引き寄せた。
逞しい腕の中にすっぽりと閉じ込められ、リリアの鼻先にノクスの服から香る森の匂いがふわりと漂う。
「……ありがとう」
「人間の国を捨てて俺を選んだこと、絶対に後悔させない。お前をこの世界で一番幸せな花嫁にする」
耳元で囁かれたその声は、かつてないほど甘く、確固たる決意を帯びていた。
ノクスはそっとリリアの身体を離すと、その美しい顔を近づけ、彼女の額に誓いの口づけを落とした。
優しく、ひどく大切に扱うようなその温もりに、リリアは弾けるような笑顔で頷いた。
その日の午後、王都へ向けて一通の早馬が走った。
第二皇子へ宛てた、リリア自筆の書状である。
『身に余る光栄なお申し出と、我が家を救っていただいた数々のご恩に、心より深く感謝申し上げます』
『しかし、私にはすでに、生涯を懸けて支えたいと願う方と、私の薬を必要としてくれる場所がございます。どうか、私が自分の足で選んだ未来へ進むことをお許しください』
その礼儀正しくも力強い決別の手紙を読み、あの食えない皇子が王都でどんな顔をして笑ったのかは、定かではない。
そして、数日後の朝。
隠れ家の前には、北の獣人国へ向かうための立派な馬車が用意されていた。
「ようやく、私たちも大手を振って国へ帰れますわね」
「全くだ。しかも獣人国の未来の女王まで一緒だからな。これは帰ってからも当分は忙しいぞ」
荷物の積み込みを終えたセラフィナとルドガーが、上機嫌に笑い合っている。
そこへ、出立の準備を終えたノクスとリリアが現れた。
ノクスが先に馬車へ近づき、リリアが乗るために、ごく自然な動作でその大きな手を差し出す。
「足元に気をつけろ」
「はい、ありがとうございます」
リリアはその手を取り、ふわりと微笑んだ。
見上げれば、穏やかで優しい顔をしたノクスがそばにいる。
絶望の中で屋敷を逃げ出したあの日には、想像もできなかった光景だ。
望まぬ花嫁になるはずだった私はもういない。
私は今、心から愛する人に愛される、世界で一番幸せな花嫁だ。
春の温かい陽射しが、これから二人が歩む未来を祝福するように、優しく降り注いでいた。




