第17話 第二皇子
夕刻。
ガルヴィス侯爵邸は王室直属の近衛騎士たちに包囲され、抵抗を試みた私兵たちも次々とあっけなく制圧されていた。
その混乱の中心。
かつて獣人たちを繋いでいた、あの凄惨な地下研究室の冷たい石の床に、ガルヴィス侯爵は両手を縛られた状態で無様に這いつくばっていた。
「ば、馬鹿な……! 我が侯爵家に、いきなり踏み込むなど……こんなことが許されるはずがない……っ!」
「許されない? それはこちらの台詞だよ、ガルヴィス侯爵」
怒号を上げる侯爵を見下ろし、涼やかな声が響く。
コツ、コツと優雅な足音を立てて階段を下りてきたのは、豪奢な金糸の刺繍が施された外套を羽織る青年だった。
人間の国を統べる王族の一人、第二皇子その人である。
彼は凄惨な地下室の有様を見回し、忌々しそうに目を細めた。
「我が国の法で固く禁じられている禁薬の製造、並びに他国――獣人の民に対する非道な人体実験。言い逃れできる証拠の量ではないよ」
第二皇子の手には、エリオットが持ち込んだあの研究資料の束が握られていた。
「ひっ……!」
「君には直ちに爵位の剥奪と、終身の幽閉処分を命じる」
血の気が引いた侯爵の前で、第二皇子は冷たく、しかしどこか楽しむような笑みを浮かべた。
「ああ、安心してくれ。幽閉先では退屈させない」
「君が心血を注いで開発していたという禁薬……その治療のための新薬を、今後は王室主導で開発することになった」
第二皇子は侯爵の顔を覗き込み、口元に笑みを浮かべながら囁いた。
「君には、残りの人生をかけて新薬の実験体として貢献してもらう。……自分で造り出した地獄の味を、存分に堪能するといい」
「な、あぁ……あ、あああああぁぁッ!!」
絶望に染まった侯爵の悲鳴が地下室に響き渡る。
第二皇子は、それに一瞥もくれず、背を向けて階段を上っていった。
邸宅の外、騒ぎの収まりつつある庭園。
そこには、青ざめた顔で立ち尽くすエリオットの姿があった。
「さて、エリオット・グレイン子爵令息」
声をかけられ、エリオットはビクッと肩を震わせ、深く頭を下げた。
「侯爵の悪行を告発し、これまでの自身の愚行を包み隠さず話した、君の誠意は評価しよう」
自分の保身に走らず、幼なじみを売り飛ばそうとした自身の罪さえもすべて白状したエリオット。
その目は完全に死に体だったが、どこか憑き物が落ちたようでもあった。
「君の家と、エルハート伯爵家の抱える借金は、すべて皇室で引き受けよう」
「そして当面の間、領地の経営が安定するまで、私が直接支援し、教育を施すことにする」
「え……」
予想外の恩赦に、エリオットは驚愕して顔を上げた。
てっきり自分も重罪に問われ、牢に繋がれるものとばかり思っていたからだ。
「ただし、勘違いしないでくれ。これは無償の善意ではない」
「君には今後、私の直属の部下として馬車馬のように働いて借金を返してもらう」
「私のもとでの労働は、幽閉よりよっぽど過酷だよ?」
第二皇子が面白そうに目を細めると、エリオットはやがて震える声で答えた。
「……はい。命に代えても、御恩に報います」
深く頭を下げるエリオットを見下ろしながら、第二皇子は心の中で密かにほくそ笑んでいた。
ノクスがエリオットを生かした以上、今の状況で私が処罰するには、多少なりともリスクがある。
それに、あの人間嫌いの黒狼王が、わざわざ人間の令嬢を匿っているのだ。
しかもエリオットの話では、相当なご執心の様子……
もしその令嬢が獣人国の王妃になれば、人間と獣人の間に、かつてない強固な平和の架け橋がかかる。
これはかつてないほどのチャンスだ。
私の目的のためにも、あの不器用な王の背中を、少しばかり手荒に押してやろう。
さあ、ノクス。
君の驚き、焦る顔が見物だな。
第二皇子は、王都の空を見上げ、一人楽しげに笑いをこぼした。
数日後。
黒狼族の隠れ家に、王都との間を繋ぐ連絡係から急報がもたらされた。
「ノクス、王都の第二皇子から書状が届いたぞ」
手紙を受け取ったノクスは、険しい顔でその内容に目を通していく。
「……ガルヴィス侯爵は爵位剥奪の上、幽閉。治療薬の実験体として一生を終えるそうだ」
「本当ですか……!」
リリアはホッと胸を撫で下ろした。
これで、もう誰もあの忌まわしい実験で苦しむことはないのだ。
「ああ。エリオットの奴も皇子に召し抱えられた」
「……それに、お前の実家とエリオットの家の借金は、すべて皇室が肩代わりし、領地の経営も皇子が直々に支援するとのことだ」
「えっ……家の、借金が……?」
リリアは思わず言葉を失った。
自分が身売りをしてまで返さなければならなかった莫大な借金。
彼女をずっと縛り付けていた鎖が、これであっけなく、完全に消え去ってしまったのだ。
「よかったですね、リリア。これでもう、あなたを縛るものは何もありませんわ」
隣で聞いていたセラフィナが、自分のことのように嬉しそうに微笑む。
しかし、書状の続きを読んでいたノクスの顔から、すっと表情が消え去った。
「ノクスさん? どうかしましたか?」
リリアが首を傾げると、ノクスは動揺を隠すように平静を装い、続きを一気に読み上げた。
『リリア嬢の薬師としての腕は見事だ。侯爵の悪事を暴いた功績に報いるためにも、彼女の借金は帳消しとし、身の安全と自由を完全に保証しよう』
『ついては、ぜひ我が皇室の専属薬師として迎え入れ、ゆくゆくは日の当たる場所で、良き人間の貴族と縁付かせたい。迎えの馬車を手配したので、すぐに王都へ帰還されたし』
それは、リリアのこれからの人生を決めるものだった。
「皇室の、専属薬師……?」
リリアは目を丸くした。
それは、人間の国で薬草を学ぶ者にとって、これ以上ない最高の名誉であり、一生約束された安全な未来の提示だった。
「……」
リリアを縛っていた不当な鎖は消えた。
彼女はもう、自由にどこへでも行ける。
だが、第二皇子からのこの完璧すぎる提案は、ノクスにとって、最も触れられたくない部分を容赦なく抉り出す、最悪の提案であった。




