第16話 痛みの終わり
あたたかな朝の光が、客室の窓から差し込んでいた。
目を覚ましたリリアは、しばらくの間、天井を見つめていた。
「お前の居場所は、ここにある」
昨夜のノクスがくれた言葉が、じんわりと胸の奥を温めてくれる。
大きく深呼吸をして、リリアはベッドを降りた。
感傷に浸っている時間はない。
今の彼女には、薬師としてどうしても成し遂げなければならない使命があった。
――ガルヴィス侯爵邸から持ち帰った、禁薬の研究資料。
急いで身支度を整え、薬室へと向かう。
机の上に広げたおぞましい実験記録と、獣人族由来の古い記録である母の薬草帳を並べ、リリアは真剣な眼差しで文字を追い始めた。
「これは……」
資料を読み解くうちに、リリアの顔色が変わる。
『被検体の魔力循環に癒着し、常に焼け焦げるような苦痛を与え続ける』
その記述を見た瞬間、平然と振る舞っていたノクスを思い出し、リリアは息をすることも忘れて立ち尽くした。
常に……? そんなはずはない。
ノクスさんは普段、あんなに平然と……
王として、誰よりも責任感が強い、彼のことだ。
自分の苦しみなど誰にも言わず、ずっと一人で耐え続けていたのだとしたら。
胸が締め付けられる。
同時に、リリアの中で薬師としての使命感が激しく燃え上がった。
「私が、彼の苦しみを終わらせてみせる」
リリアはすぐさま薬室へ向かい、調合に取り掛かった。
しかし、特効薬の作成は困難を極めた。
侯爵の資料にある毒の成分は複雑に絡み合っており、少しでも分量や温度を間違えれば、薬液は濁った泥のように変色し、ツンとした異臭を放った。
「だめ、これじゃあ毒の強さに負けてしまう……」
失敗作を廃棄し、リリアは再び母の薬草帳を開く。
母の残した古い処方と、侯爵の忌まわしい研究資料。その二つを何度も照らし合わせ、仮説を立てては調合を繰り返す。
何度失敗しても、心が折れることはなかった。
目を閉じれば、誰にも言わずに耐え続ける、ノクスの姿が浮かんでくるからだ。
「ノクスさんを、これ以上絶対に苦しませない……っ!」
数十回目の試行。
火加減を限界まで落とし、抽出のタイミングを数秒単位で見極めながら、最後の材料を混ぜ合わせた、その時だった。
鍋の中の淀んだ液体が、ふわりと淡い光を放ち、一瞬にして透き通っていく。
「……できた!」
完成したのは、澄んだ琥珀色に輝く、美しい薬液だった。
食事も忘れ、日が傾きかけた頃。
リリアは特効薬を詰めた小瓶を握りしめ、興奮した足取りのまま、ノクスの執務室を訪れた。
扉をノックすると、「入れ」という落ち着いた声が響く。
「ノクスさん、少しよろしいですか?」
書類仕事から顔を上げたノクスは、リリアの姿を認めると思わず目を見張り、それから少しだけ困ったように眉を下げた。
「……お前、昨日あんなことがあったばかりだぞ。今日は一日休んでいろと」
「休んでなどいられません。これを作っていました!」
リリアは彼の机の前に進み出ると、出来上がったばかりの小瓶を置いた。
「禁薬の特効薬です。侯爵の資料と母の薬草帳を合わせて、ようやく完成しました」
その言葉に、ノクスの瞳が大きく揺らぐ。
「これで、満月の暴走も……」
「そして、あなたがずっと隠して耐えてきた痛みも、すべて治ります!」
真っ直ぐに見つめて告げたリリアの言葉に、ノクスは息を呑んだ。
「……なぜ、それを」
「侯爵の資料に書いてありました。魔力循環に癒着し、常に焼け焦げるような苦痛を与え続ける、と」
リリアは少しだけ怒ったように眉を寄せ、ぴしゃりと言い放った。
「どうして言ってくれなかったんですか」
「ずっと一人で耐えていたんですよね? 王様だからって、痛い時は痛いと言ってくれないと、薬師として困ります!」
真っ向から責め立てられ、ノクスはわずかに目を丸くした。
やがて、観念したようにふっと深く息を吐く。
「……ああ。本当は、気が狂いそうなほど痛かった」
ポツリとこぼしたその声は、これまで被っていた王の仮面を外した、ただの青年のものだった。
ノクスは机の上の小瓶をそっと手に取る。
この小さな薬師に、俺は助けられてばかりだな……
胸の奥に広がる静かな感動と、愛おしさ。
ノクスはそれ以上余計な言葉は並べず、ただ真摯な眼差しでリリアを見つめ返し、それから、ふっと微笑んだ。
「ありがとう、リリア。お前の作った薬、喜んでいただく」
そして一切の迷いなく、琥珀色の液体を一息に飲み干した。
喉の奥へ薬が流れ込んだ直後だった。
ノクスの身体で、泥のような呪縛が、温かい波に洗われて溶けていく感覚が走った。
呼吸をするたびに彼を内側から灼いていた激痛が、嘘のようにスッと引いていく。
「……」
ノクスは小さく息を呑み、そのまま深く、長く息を吐き出して、ただ静かに目を閉じた。
常に張り詰めていた広い肩から、ふっと完全に力が抜ける。
彼を縛り付けていた見えない鎖が、断ち切られた瞬間だった。
「ノクス、さん……?」
薬の効果を固唾を呑んで見守っていたリリアが、不安そうに声をかける。
ゆっくりと開かれた瞳には、かつてないほど穏やかで、澄んだ光が宿っていた。
「……ああ。痛くない」
自分でもまだ信じられないというように、ノクスは自身の両手を見つめ、ゆっくりと拳を握っては開いた。
「本当に……何一つ、痛まない」
その静かな呟きには、長きにわたる苦しみから解放された者だけが持つ、深い安堵が滲んでいた。
「よかった……」
リリアの目からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
自分でも驚いて慌てて目元を拭うが、一度堰を切った涙は止まらない。「彼を救えた」という安堵感が、一気に押し寄せてきたのだ。
「っ……すみません、私……ただ、嬉しくて……」
泣くつもりなどなかったのに、しゃくり上げるリリアを見て、ノクスは少しだけ慌てたように身を屈めた。
女性の涙にどう接していいか分からず、少し戸惑ったように手を彷徨わせた後――やがて、その大きな手でリリアの頭をぽん、と不器用に撫でた。
「……お前は本当に、よくやってくれた」
「朝から食事も取っていないのだろう? ずっと薬室に、こもっていたとセラフィナから聞いている」
「あ……はい。夢中だったので、忘れていました」
リリアが照れくさそうに笑うと、ノクスもまた、呆れたように、けれどひどく愛おしそうに目を細めた。
「俺が何か作ってくるから、ここで少し待っててくれ」
「えっ……ノクスさんがお料理を?」
意外そうに首をかしげるリリアに、ノクスはふっと自慢げに口角を上げた。
「俺の料理の腕前は、城の料理長も認めるほどだ。元々料理は好きだったのだが……あの毒のせいで味覚が鈍り、ずっと厨房に立てていなかったからな」
そう言って、ノクスは自分の手のひらを力強く見つめる。
「この調子だと味覚も戻っているだろうし、期待して待っててくれ」
「ノクスさん……」
その言葉に込められた彼なりの喜びと好意を感じ取り、リリアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「それで、今はどんな気分だ? あっさり系か? それとも、疲れただろうから、逆にガツンとくる感じが良いか?」
真剣な表情で問うノクスに、リリアは少しだけ恐縮しながら、小さく答える。
「……じゃあ、ガツンとくる感じのもので、お願いします」
「わかった。とりあえず前菜を手早く作ってくる!」
ノクスは自信満々に頷くと、軽やかな足取りで執務室を出て行った。
窓の外では、夕陽が穏やかな光を投げかけている。
静かな部屋に取り残されたリリアは、もう痛みに耐えなくてよくなった彼の背中を思い出し、温かい幸福感に包まれながら、ノクスの手料理を待つのだった。




