第12話 一夜明けて
――翌朝。
地下の石牢に差し込む微かな光で、リリアは目を覚ました。
「あ、れ……私、寝てしまって……」
慌てて体を起こすと、檻の外ではルドガーとセラフィナが、静かに語り合っていた。
二人は一晩中、ここで一睡もせずに見守ってくれていたのだ。
「す、すみません! 私、いつの間にか……!」
「あら、気になさらないで」
「発作もすっかり鎮まりましたし、ルドガーとゆっくり昔話なんてできたのは久しぶりでしたから」
平謝りするリリアに、セラフィナは優雅に微笑んでしっぽを揺らす。ルドガーも小さく頷いた。
「ノクスはもう大丈夫だ。俺はもう少しここに残るから、お前たちは部屋に戻って休め」
その言葉に甘え、リリアはセラフィナと共に地下牢を後にした。
――二人の姿が見えなくなった後。
檻の中で壁に寄りかかっていたノクスが、静かに金色の瞳を開けた。
「……起きていたなら、声をかければよかっただろうに」
ルドガーが呆れたように言うと、ノクスは自分の手のひらを見つめ、短く息を吐いた。
「あいつの顔を、どう見ればいいか分からなかっただけだ」
昨夜の記憶は、はっきりと残っている。
恐怖に震えながらも、檻の中へ踏み込んできた彼女のひたむきな姿。
そして、もう絶対に彼女を手放さないと誓った、自分自身の強烈な独占欲も。
「……ようやく、覚悟が決まったようだな」
幼なじみである近衛隊長は、それ以上何も聞こうとはせず、ただ満足げにほほ笑んだ。
数時間後。
リリアは、自室のベッドへ戻されたノクスの部屋を訪れていた。
「失礼します。新しい薬をお持ちしました」
ベッドの縁に腰掛けるノクスの前に薬瓶を置き、リリアは彼へ向き直った。
「それでは、熱を測りますね」
――しかし、額へ手を伸ばそうとして、指先がぴたりと止まる。
昨夜は必死だった。
薬を飲ませること、発作を鎮めること。それだけで頭がいっぱいだった。
けれど、今の穏やかな空気の中で彼と二人きりになると、どうしても心が落ち着かない。
どうしよう……すごく、恥ずかしい
急に一人の男性として意識してしまい、手が動かせないリリアを見て、ノクスがわずかに眉を寄せた。
「……どうした。無理に触れる必要はないぞ」
「い、いえ! 無理ではありません。薬師として、必要なことです!」
自分でも驚くほど上ずった声が出た。
リリアは動揺をごまかすように、えいやっとノクスの額に指を添える。
熱い……
触れた額は、自分の手よりもずっと体温が高い。
熱を確かめるための診察のはずなのに、触れているリリアの指先から顔まで、じわじわと熱が伝染していくような気がした。
ノクスは、リリアの手首に視線を落とした。
そこには、昨夜彼が掴んでしまった赤みがまだうっすらと残っている。
「……すまなかった」
ノクスの痛ましそうな声に、リリアは少しだけ考えてから、真っ直ぐに答えた。
「痛かったです」
予想外の直球な返答に、ノクスの表情が強張る。けれど、リリアは彼から目を逸らさずに続けた。
「でも、ノクスさんが私を傷つけたくなくて苦しんでいたことも、痛いほど分かりました」
「それは……」
「だから、もう勝手に遠ざけたりしないでください。治療方針は、患者と薬師で相談して決めるものですから」
毅然と言い切ったリリアを見て、ノクスは少し動揺して見えた。
「……俺は、ただの患者か」
「はい。とても手のかかる患者です」
リリアがこくりと頷くと、ノクスはわずかに残念そうに息を漏らした。
なぜそんな顔をする意味が分からず、リリアは首をかしげながら、今度は彼の脈を測るために手首へ指を添える。
「ん……?」
リリアは不思議そうに目を丸くした。
トクトクと伝わってくる脈が、わずかに早いのだ。
「脈が少し早いですね……まだ昨夜の影響が残っているのでしょうか?」
リリアは正確に脈を測ろうと、テーブル越しではなく、ベッドに腰かけるノクスの真横にピッタリと座り、距離を縮めた。
「あっ……ちょっと離れないでください!」
なぜか離れようとするノクスの腕をしっかりと抱え込んで脈をはかるリリア。
リリアの指先に伝わってくるノクスの脈は、距離を縮めた途端にさらに跳ね上がり、明らかに早くなっていた。
「ま、待って、ノクスさん! さらに早くなってます! これはおかしいです、首の動脈も確かめさせて――」
「ま、待てっ! 俺はなんともない、健康だ!」
さらに近づこうとするリリアを、ノクスが慌てて手で制する。
見れば、普段は冷静沈着なはずの彼の耳までが、熱を出した時のように真っ赤に染まっていた。
「そ……そういえば、さっきルドガーがお前を呼んでいたぞ」
ノクスが、視線をあからさまに泳がせながら言った。
「え? ルドガーさんですか?」
「あ、ああ。何か急ぎの用があるらしい」
「おかしいですね……さっき、この部屋に来る前の廊下ですれ違いましたけれど、何も言われませんでしたよ?」
「……」
事実を告げられたノクスは、いっそう気まずそうに顔を逸らした。
「そ、そうか。なら……セラフィナだ! セラフィナが、お前に用があると言っていた! 早く行ってやれ!」
「えぇっ!? あ、ちょっと、ノクスさん!」
半ば追い出されるように、リリアはパタンと部屋の扉を閉められてしまった。
「……というわけで、ノクスさんに言われて来たのですが」
「セラフィナさん、私に何かご用でしたか?」
廊下で出会ったセラフィナに尋ねると、彼女は、すべてを察したように呆れ顔で額を押さえた。
「ああ……ええ、そうですわね。私が『ゆっくり休んでください』と伝えたかっただけですわ。本当に……陛下もご苦労なさいますね」
意味深に笑うセラフィナと別れ、リリアは自室のベッドへ身を投げ出した。
天井を見上げながら、リリアは自分の胸に手を当てる。
私……どうしてここまで、彼を放っておけないんだろう
自分が薬師だから。
彼が患者だから。
行き場のない自分を助けてくれた恩人だから。
理由は、いくつだって思いつく。
でも、それだけじゃない。
彼が苦しむ顔を見ると、心臓を鷲掴みにされたように痛くなる。
彼が笑ってくれると、たまらなく嬉しくて、安心するのだ。
まだ、この思いを、恋と名付ける勇気はない。
けれどリリアは、自分の中に確かに芽生えた、特別な感情の存在を否定することはできなかった。
――同時刻、森の外れにて。
エリオット・グレインは、泥で汚れた『若草色の刺繍入りハンカチ』を、両手で強く握りしめていた。
彼の背後には、ガルヴィス侯爵から貸し与えられた、柄の悪い男たちが数人、下卑た笑いを浮かべて控えている。
「リリア……僕が迎えに行くよ。君は、こんな恐ろしい場所にいるべきじゃない」
「君は、僕が助けてあげるからね」
自分こそがリリアを救えると信じて、エリオットは暗い森の奥へと足を踏み入れた。




